三.少年期(二)
寺子屋の一件から更に五年ほどが過ぎた。
養父である喜八郎は、夜ごとうなされるようになった。太郎が成長するにつれ、自分には全く似ていないと判り、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、その後太郎に顕著に現れてきた面影に怯え出したのである。
それは、わかの亭主の顔であった。
更に太郎の成長の異常さが喜八郎を恐怖に陥れた。
喜八郎の脳裏には桃太郎が生まれた日――つまりは、わかの切断された遺骸が流れ着いた日――に町で見た、焼け落ちた〈みの屋〉が浮かんだ。程なくして、結局焼け跡から〈みの屋〉の夫婦は見つからなかったと聞いていた。今更ながら喜八郎は思った。ならば亭主は? 亭主はどこへ行った?
わかの一部は、太郎と共にここへ現れた。さとは遺骸が自分に向かって流れてきたと言った。そんな筈はなかろうと、その時は一蹴したが――。それが偶然ではないとしたら?本当に喜八郎の許を狙って流されてきたのだとしたら?
瞬間、喜八郎の頭の中に雷が落ちた。亭主はわかと自分の密通を疑っていたのではないか。自分は試されたのか。顔が無くとも、躰の隅々まで知っている者なら必ず見覚えのある――足の付け根にある特徴的な三つの黒子――で、これが誰だか解るかどうか、その時自分がどんな反応を示すのかを、亭主はどこかで見ていたのではないか。
もし、そうであるならば、と、喜八郎の想像は逞しさを増した。亭主はまだ生きている――。わかを切り刻んだのは〈みの屋〉の亭主だ。わかは亭主に殺されたのだ。そうだ。そうに違いない。
喜八郎は更に考えた。もし自分の想像どおりであれば、次に狙われるのは自分なのではないか。わかの遺骸は、次はお前だという亭主の宣告ではないか――。
冷静に考えれば、常に一定ではない川の流れを読んで遺骸を桶に入れて流すなど至難であり、実際にそれを喜八郎がわかの躰だと気付いたのは、閉め切った自宅の中である。ついでに言えば、太郎が生まれてから、もう十年が経っていた。だが、太郎の顔がもはや亭主にしか見えなくなっている喜八郎の思考は完全に沸騰していた。
これまで自分の女遊びで両親に迷惑は掛けても、人死にを出した事はなかった喜八郎は、ここで初めて、自分の性癖を後悔せずにはいられなかった。そうすると、これまで欲望の赴くままにはしゃぎまくっていた喜八郎の喜八郎は縮こまってしまい。やっと年相応に使い物にならなくなった。
身も心もすっかり萎れてしまった喜八郎は、やっとただの村医者になったのである。
喜八郎のこの急速な衰えを心配したのは、当然のことながらさとである。
今までは老いなどものともせず活き活きと周囲のために励んでいた夫が急に老け込み、毎夜のようにうなされている。理由を訊いても全く答えようとしないのだから、何の手立ても打ちようがなかった。
一方、寺子屋の一件以来、長く家に引き籠りっぱなしの太郎は、養父の変化は自分のせいではないだろうかと考えていた。あれ程村人たちに信頼されていた養父が、自分がたった一度と言えど、寺子屋で庄屋の倅を相手に問題を起こしたせいで、養父の株を下げてしまったのではないか、と。
その事を養母のさとに伝えると、太郎はさとに窘められた。
「そのように自分を責めるものではありませんよ。寺子屋での事は、お前に非がある訳ではないのです。それよりも」
そう言って、さとは心身ともに実年齢よりも大人びた太郎の頭を優しく撫でた。太郎の身丈は、既にさとより伸びていたので、太郎に身を屈めさせなければ届かなかったが。
「母はお前の事も心配です。このまま家に籠っていては、お前自身が駄目になってしまいます。お父上の事は母に任せて、お前はこれからの自分の道を考えなければなりませんよ」
優しいさとの言葉に素直に「はい」と頷きながらも、太郎は自覚していた。自分が周囲の子供らと明らかに違うという事はもちろんだが、ある時分から、明らかに喜八郎は自分を避けているのである。喜八郎自身が家に居る時間が多くなっているのに、二人の間には殆ど会話が無かった。
太郎は大人しく自室に戻った。長年引き籠ってはいたが、勉学を怠らなかった太郎の部屋は書物で溢れていた。文机の前に座って読みかけの書物を開いたが、直ぐに閉じて手元に置いて、太郎は溜息を吐いた。
さとは常に太郎の味方だった。引き籠った太郎に理解を示し、行商に頼んで沢山の書物を用意してくれたのもさとであった。おかげで、太郎は家に居ながら学ぶことができているのである。さとの言う「これからの自分の道」を考えていけるように。
太郎は文机に突っ伏した。どんな時も母上は私を大事にしてくれた、と太郎は思った。
けれど、それでも――。
「私はここに居てはいけないのではないか」
絞り出すように呟くと、太郎は強く眼を閉じた。




