二.少年期(一)
子の無い老夫婦に突如として現れた赤子は、村人たちの噂になった。よく町へ往診に出掛ける喜八郎が他所でこさえたのではないか、と下世話な事を囁く者がいないわけではなかったが、
「あの先生に限ってそれはないだろう。何より先生はもう高齢でおられるし」
絶倫である喜八郎自身が自分の子ではないかと恐れているとも知らぬ村人たちは、喜八郎の喜八郎はもう使い物になるまいと頷き合い、
「ならばどこぞで拾ってきたのか」
「いやそれならば、往診先から何かの事情で引き取ってきたということではないかの」
噂しても埒が明かない、直接喜八郎に訊いた者もあったが、喜八郎は言葉を濁すばかりだった。そこから、「ひょっとしたら赤子はやんごとない身分の子なのではないか」と、突拍子もない憶測が飛び出したりもした。
だが、子を成せなかったさとが、大層嬉しそうに、常に赤子をおぶって働いている姿を見るにつけ、村人たちは「理由は判らぬがまあいいか」という気になり、とにかくあの夫婦に子が出来たのだから良いことではないか、という結論に至ったのであった。
ところが話はそう簡単には済まなかった。太郎が村に現れた年、この村では七人の赤子が産声を上げた。一つ年長の子供を合わせても十五人は居るのに、それらの成長度合いを突き放すほど、太郎はあまりにすくすく育ち過ぎたのである。差は歴然であった。
また村人たちは囁き合った。あの子は尋常ではない――。
太郎は数え四つの頃には、同い年の子供よりも頭一つ背が高く躰付きも良く、本来ならまだ躰の動きが定まらない時期であるのに、しっかりと歩くようになっていた。更にこの頃に覚え出した読み書きは、数え六つの子供たちと遜色が無い程であった。人々は戸惑ったが、養母のさとは喜び、喜八郎に言って寺子屋へ通わせることにした。すると、今度は寺子屋に通う年長の子供らよりも恐ろしく出来が良く、最初は「太郎は神童だ」と唸っていた寺子屋の先生さえも気味悪さを感じるようになってきた。
そして太郎が数え六つの時、決定的な出来事が起こった。
寺子屋には数人、太郎と名のつく子がいた。自然、子供たちは呼び分けるために渾名を付けて呼ぶようになり、百川太郎は「百」と「桃」と掛けて「桃太郎」という渾名が付いた。
「おい、桃太郎」
この日も寺子屋で年上の子に混じって書物を読んでいた太郎は、子分を引き連れた茂吉に声を掛けられた。内心で「またか」と嘆息したが、既に分別を弁えていた太郎はそれを顔には出さず、「何でしょう」と年少者らしく丁寧に応じた。
「相撲をやらんか」と茂吉は顎をしゃくって外に出ろと示した。数え十になる茂吉は、頭の出来は良くなかったが、躰も頑丈で腕っ節が強い、村でも評判の悪ガキだった。対して、本来の年齢を忘れさせるほど聡明な太郎が、村の女子たちに好意的に受け止められているのが常日頃から気に入らない茂吉は、太郎をねじ伏せて自分の優位を示してやろうと考えていたのである。
「生憎ですが、母上の手伝いをせねばならないのです」
いつものように、太郎は頭を下げて断りを入れたが、今日の茂吉は引き下がらなかった。先生が家人に呼ばれて部屋を離れていたのである。
「そりゃ解るさ、俺もだからな。だがほんの少しだけならいいじゃないか」
普段手伝いなど一つもやらない茂吉はニヤニヤしながらそう言って合図すると、子分たちが一斉に太郎に飛び掛かり、両腕と脚を掴んで抱え上げ、太郎を庭へ運び出した。茂吉は一睨みで生徒たちを黙らせ、悠然と庭へ足を向けた。眼で必死に訴える太郎を助けようとする者は誰も居ない。結局、太郎は抱え上げられたまま、庭へ運ばれた。
勢いよく地面に降ろされた太郎は、背中を強く打って息が詰まった。そこを狙って茂吉が踏みつけようとしたのを、太郎は何とか身を転がして躱した。立ち上がると即座に後ろから子分の一人に羽交い絞めにされ、太郎は再び動けなくなった。
「相撲ではなかったのですか」
されるに任せて太郎が言うと、「そうさ」と茂吉は嗤った。
「お前が逃げないように抑えているだけだ。さあ、答えろ。俺と相撲を取るか?」
これを済ませぬと帰れないと悟った太郎は、「解りました」と頷いた。だが、茂吉がはっけよいの姿勢を取っても、後ろの子分が太郎を離さない。
「解りましたから離してください」
太郎が子分に告げると、茂吉はにやりとして頷いた。子分が太郎を突き放すのと、茂吉が飛び出してくるのがほぼ同時だった。子分の思わぬやりように体勢を崩した太郎が何とか顔を上げると、飛び出してきた茂吉が張り手――を瞬時に握り込んだのが見えた。太郎は踏ん張らずに躰の流れに任せて状態を低くしながら大きく右脚を前に出した。茂吉の渾身の右は空を切り、その右腕が伸びきったところを、太郎が躰を茂吉に預けながら己の右腕を茂吉の開いた右脇下に差し込み、えいやっと腰を跳ね上げた。瞬間、茂吉は勢いよく太郎に巻き込まれて回転し地面に叩き付けられた。二人の周りに砂埃が舞い上がった。それが晴れると、立ったままの太郎と、仰向けに倒れた茂吉の姿があった。茂吉はぴくりとも動かなくなった。
それは見事な一本背負いだった。
いつの間にか庭先に殺到して固唾をのんでいた生徒たちが、一斉に歓声を上げた。相撲でもなかなかお眼に掛かれない技で、村一番の悪ガキを完膚なきまでに叩きのめしたのであるから、日頃から茂吉に迷惑を被っている生徒たちは、決して口には出さなかったが、いい気味だと顔を見合わせて頷き合った。
太郎は慌てて茂吉の傍に膝をついた。茂吉は白目を剥き、口から泡を吹いている。
丁度その時、騒ぎを聞き付けた先生が足音荒くやって来た。眼前の惨状を見て、倒れているのが茂吉だと判ると狼狽した。
「どういう事だこれは!」
茂吉が倒されたことに呆然としていた子分たちは、これで我に返り、
「桃太郎が先に手を出したのです。それどころか不意打ちまでやったのです」と、太郎が説明するよりも早く、話をでっち上げた。
「そうなのか?」
先生は見物していた生徒たちを見回した。先程まで喝采を送っていた彼らは皆、眼を逸らし、誰も口を割らない。
普段の行いから、太郎がそうした事をする筈がないと解っていた先生であったが、この時ばかりは太郎を叱り付け、「急いで父上を呼んでまいれ!」と、太郎に言い付けなければならなかった。
茂吉は庄屋の倅だったのである。
駆け付けた喜八郎に介抱され、幸いにも茂吉は大事には至らなかったが、庄屋は激怒し、普段から援助を受けていて庄屋に頭の上がらない寺子屋の先生は、最近太郎に対して抱き出した気味悪さも手伝って、
「このような乱暴者は置いておけぬ」と、たった一度の事に厳しい言葉を投げた。
太郎は破門された。
太郎にとっては、自分より年上の悪ガキの無体から己の身を守っただけであった。
だが、あまりにも年不相応な太郎の在り様に、茂吉と子分たちがデマを吹聴したこととが相俟って、太郎はすっかり村に入り込んだ異物として扱われるようになった。それまでともに遊んでくれた村の子供にも怯えられ、外へ出れば大人たちが太郎をちらちら見ながら囁き合った。
いつしか、太郎は家に引き籠るようになった。




