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【第2部スタート】ギャンブル中毒で放蕩三昧の悪役貴族、破滅ルートをひっくり返す  作者: 有馬 茶
第一章借金地獄編 〜勝率三パーセントからの取り立て〜

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第9話 ゼロと百


配られた二枚のカードを、俺はゆっくりとめくった。


クラブの七。ダイヤの二。


――笑ってしまいそうになった。


あの夜と、まったく同じ手だ。

ポーカーで最弱の組み合わせ。

この世界で目を覚ました瞬間に握っていた、あの手札。


残りのチップは十五枚。


俺は、その全てを前に押し出した。


「オールイン」


ドルマンが、わざとらしくため息をついた。


「伯爵様。往生際が悪いですな」


(ドルマンが、これをコールする確率は?)


【91%】


当然だ。

今までの流れなら、あいつの耳にはこう囁かれるはずだ。

「クラブの七とダイヤの二。ゴミ手です、旦那」と。


ドルマンが、左耳の巻き貝に指を添えた。


その瞬間。


【91% → 8%】


ドルマンの顔から、余裕の笑みが消えた。


太い指が、チップの山の上で止まる。

何かを確かめるように、もう一度耳に触れる。

眉間に、深い皺が刻まれていく。


「……降りる」


ドルマンが、カードを投げ捨てた。


アレンが、驚いたように目を見開く。ノエルの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


俺は、十五枚のチップと、場に出ていた数枚を手元に引き寄せた。


「ありがとう、支配人」


そして、伏せたままのクラブの七とダイヤの二を、ノエルに返した。


  ◆


――時は、少しだけ遡る。


黄金の胃袋の地下。

隣の酒屋の蔵から続く、細く暗い隠し通路を、一つの影が音もなく上っていた。


ゴードンである。


燕尾服を脱ぎ、黒い外套に身を包んだその姿は、とても六十を過ぎた老人には見えなかった。

石段を踏む足音は一切なく、呼吸すら闇に溶けている。


(四十年ぶりか。腕が錆びていなければよいが)


ゴードンは、心の中で苦笑した。


かつて王都の裏で、別の名で呼ばれていた頃があった。

その名を捨て、先代の伯爵に拾われてから、もう四十年になる。


階段を上りきると、狭い小部屋の扉が細く開いていた。

中から、ぼんやりとした明かりが漏れている。


眼鏡の男が、椅子に座ってガラスの向こうを食い入るように見つめていた。

手には、囁き貝。


『……ハートの四と、スペードの九。たいした手じゃありません、旦那』


男が貝に囁く。

ガラスの向こうでは、坊ちゃまがカードを胸の前に掲げている。

チップは、もう残りわずかだ。


(ずいぶんとお待たせしてしまいましたな、坊ちゃま)


ゴードンは、男の背後に音もなく立った。


首筋の一点を、二本の指で、とん、と突く。


男は声もなく白目を剥き、椅子ごと横に傾いた。

ゴードンはその体を受け止めようとしたが、わずかに間に合わず、椅子の脚が床を打った。


――ごとり。


(……やはり、少々錆びておりますな)


ゴードンは男を床に横たえると、その手から囁き貝を取り上げた。


ガラスの向こうで、坊ちゃまがほんの一瞬だけ、口元を緩めたのが見えた。


ゴードンは、喉の奥で声の高さを合わせる。

この二日間、酒場で何十回と聞いた、眼鏡の男の少し鼻にかかった声に。


そして、貝に唇を寄せた。


『……旦那。こいつは、まずいです』


ガラスの向こうでは、坊ちゃまが新しく配られた二枚のカードを胸の前に掲げていた。


クラブの七と、ダイヤの二。


『スペードのキングと、ハートのキング。とんでもねえ手です。降りた方がいい』


  ◆


――ドルマンは、混乱していた。


(スペードのキングとハートのキング、だと?)


耳の奥で囁かれたのは、そういう言葉だった。最強に近い手。だから降りた。


当然の判断のはずだ。


だが、次のハンドも、その次のハンドも、何かがおかしかった。


『……ゴミ手です、旦那』


そう囁かれて勝負に出れば、小僧はフルハウスを見せつけてくる。


『……こいつは強え。降りた方がいい』


そう囁かれて降りれば、小僧はにやりと笑って、伏せたままのカードをディーラーに返す。


十五枚だった小僧のチップが、三十枚になり、七十五枚になり、百六十枚になった。


(どういうことだ。何が起きている)


ドルマンは、何度も左耳の巻き貝に触れた。

声はいつも通り聞こえる。

聞き慣れた、部下の眼鏡の男の声だ。


なのに、その声が、ことごとく真逆を指している。


「どうした、支配人」


テーブルの向こうから、小僧が言った。


「さっきから、ずいぶん耳を気にしているな。耳でも痒いのか?」


ドルマンの全身から、冷たい汗が噴き出した。


  ◆


ドルマンの顔から、みるみる血の気が引いていくのが見えた。


ようやく気づいたらしい。


自分の耳に流れ込んでくる声が、もう味方のものではないことに。


そして――それを口にした瞬間、全てが終わることにも。


「……何でもありませんよ。虫に刺されましてな」


――りぃん。


澄んだ鐘の音が、特別室に響き渡った。


アレンが、鋭い目でドルマンを見た。


ドルマンは、慌てて口をつぐんだ。額から、汗が滝のように流れ落ちている。


この男は、もう何も言えない。


「囁き貝が乗っ取られた」と叫べば、自分が囁き貝を使っていたと白状することになる。

「鏡の裏に部下がいる」と言えば、自分のイカサマを立会人の前で認めることになる。

神前勝負の場で、それは即座の敗北を意味する。


ドルマンは、ガルドと同じ檻の中にいる。


自分のイカサマを、自分の手で告発できないという檻の中に。


  ◆


――あの夜、俺は負けたんじゃない。


負けを、買ったんだ。


五千二百枚のチップを、三千枚失った。

だが、その三千枚で、俺は必要なものを全て手に入れた。


まず、ドルマンがどこから情報を得ているのか。


俺はあの夜、カードの持ち方を何度も変えた。

テーブルに伏せたまま端だけを覗いた時、ドルマンの打ち方はごく普通だった。

だが、胸の高さに持ち上げ、背後の鏡の方へ傾けた途端、

ドルマンの数字は、あいつが左耳に触れた直後に大きく跳ねた。


右に傾けても、左に傾けても、鏡に映る角度でだけ、数字が変わる。


――覗かれているのは、鏡の向こうからだ。


鏡で襟を直すふりをしたのは、ガラスの色を確かめるためだ。

ほんのわずかに、普通の鏡より暗い。

裏から覗けば素通しになる、細工ガラスの色だった。


そして、情報が耳から入っていることも分かった。

ドルマンは、耳に触れてから判断を変える。

いつも、必ず。


次に、ウェイター。


あいつが袖に触れる確率が六十四パーセントだと分かった上で、俺はグラスを差し出した。

罠にかかるために。


イカサマの濡れ衣を着せられ、それでも鐘が鳴らない――その瞬間を、アレンに見せるために。


あの夜、鐘が鳴らないのを聞いたからこそ、アレンは今夜、ここに立っている。


そして最後に、ラットだ。


勝負の後、最後に従業員口から出てきた男を尾けさせた。

鏡の裏で最後まで仕事をしていた男。

それが、隠し部屋と囁き貝の在り処を教えてくれた。


ゴードンが眼鏡の男の声を覚えるのに、二日かかった。

男が通う酒場に通い詰め、その少し鼻にかかった声を耳に刻んだのだ。


勝負の刻限を真夜中にしたのにも、理由がある。

日付が変われば、今日の分のスワップが使える。

そして、勝負が始まれば、覗き屋は必ず鏡の裏の持ち場につく。

ゴードンを送り込むのは、その後でなければならなかった。


――「遅いな」と呟いた時、俺が待っていたのは時計の針じゃない。

鏡の向こうから聞こえる、あの「ごとり」という音だった。


「執事は置いてきた」と、俺はドルマンに言った。


嘘じゃない。酒屋の地下蔵に、置いてきたのだから。


囁き貝の声は、身につけた者の耳にしか届かない。

アレンの鐘は、聞こえない嘘を裁けない。

そして、その声を信じて勝負すると決めたのは――ドルマン自身だ。


  ◆


ドルマンは、震える手で左耳の巻き貝を外した。

テーブルの下で、こっそりとワイングラスの中に落とす。


これで、あいつはもう何も聞こえない。


ここからは、加護だけの勝負だ。


俺のチップは二百三十枚。ドルマンは百七十枚。


勝負は一進一退になった。

ドルマンの加護は健在で、数字はいつも五パーセントほどあいつの側に傾いている。

それでも、カードを読む技術なら負けない。


だが、数ハンドが過ぎたところで、ドルマンが動いた。


太い指で、テーブルの縁を、とん、とん、と二回叩いたのだ。


――見覚えのある合図だった。


この世界で目覚めた最初の夜。

二階の手すりを叩いて、ルッツに降りろと命じた、あの合図。


ドルマンの視線の先にいたのは、ノエルの斜め後ろに控える、記録係のバルトロだった。


(バルトロが、この一分以内に何かを仕掛ける確率は?)


【88%】


まずい――。


そう思った瞬間、部屋の隅でウェイターがよろめき、明かりの魔石を載せた燭台に体ごとぶつかった。


がしゃん、と派手な音がして、特別室が闇に沈んだ。


真っ暗な部屋の中で、俺の眼に映る数字だけが、ぼんやりと光を放っていた。


一秒。


二秒。


三秒。


「も、申し訳ございません!」


ウェイターが燭台を立て直し、魔石に再び光が灯った。


部屋の中は、何も変わっていないように見えた。

ドルマンは席に座ったまま。

ノエルの前には、さっき混ぜ終えたばかりのデッキが置かれている。

バルトロも、元の位置で帳面を抱えていた。


ただ、その額に、うっすらと汗が浮いていた。


ノエルが、デッキに手を伸ばした。


その指が、ほんの一瞬、止まった。何かを確かめるように、デッキの端を指先でなぞる。


(ノエルが、このまま配る確率は?)


【??】


  ◆


――ノエルは、指先に触れたデッキに、かすかな違和感を覚えていた。


何かが違う。


自分が混ぜ終えたデッキと、どこかが違う。

重さか、手触りか、それとも角の揃い方か。

暗闇の三秒間に、何かが起きた気がする。


だが、確かめる術はない。


ここで手を止めて、「このデッキはおかしい」と言えばどうなるか。

証拠は何もない。

支配人に睨まれ、ディーラーとしての信用を失うだけだ。

そして明日には、競売台の上に立たされる。


ノエルは、テーブルの向こうの男を見た。


ヴィクトル・ラングレー。


一度死んで、生き返ったと言った男。勝手に自分に賭けると言った、馬鹿な男。


彼は、じっとノエルの手元を見ていた。何もかも見通しているような、静かな目で。


(……あの人なら、気づく)


根拠なんてない。ただ、そう思った。


誰かに賭けるのは、もうやめたはずだった。


なのに、指先が勝手に動いた。


ノエルは、静かにカードを配り始めた。


  ◆


俺は、配られた二枚のカードをめくった。


スペードのキング。ハートのキング。


キングのペア。ホールデムで、二番目に強い手だ。


ドルマンが、手元のチップを全て押し出した。


「オールイン」


その顔には、さっきまでの焦りが嘘のような、余裕の笑みが戻っていた。


俺は、問いを立てた。


(この勝負に、俺が勝つ確率は?)


そして、凍りついた。


【0%】


ゼロ。


揺らぎすらない、完全なゼロ。


(ドルマンが勝つ確率は?)


【100%】


テーブルの上に浮かぶ二つの数字が、まるで墓標のように動かなかった。


――ゼロと百は、動かせない。


この眼に目覚めた最初の日に、ゴードンのコインで確かめたことだ。

誰かが意志をもって結果を決めてしまった未来は、揺らがない。

だから、入れ替えることもできない。


今日の分のスワップは、まだ一度も使っていない。


それなのに、使えない。


俺がキングを持っていることを、ドルマンは知っている。

だから迷わずオールインしてきた。

そして、どんな結末になるかも、きっともう知っている。


コールすれば、俺は負ける。


降りれば、チップの大半を失う。

そして次のハンドも、その次のハンドも、同じことが繰り返されるだけだ。


アレンが、息を詰めて俺を見ている。


ノエルが、灰色の瞳で俺を見ている。


ドルマンが、勝ち誇った笑みで俺を見ている。


「さあ、伯爵様。コールなさいますか? それとも――」


【俺が勝つ確率:0%】

【ドルマンが勝つ確率:100%】


百パーセント。


それは、この眼が初めて俺に見せた――絶望の数字だった。

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