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【第2部スタート】ギャンブル中毒で放蕩三昧の悪役貴族、破滅ルートをひっくり返す  作者: 有馬 茶
第一章借金地獄編 〜勝率三パーセントからの取り立て〜

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第8話 立会人と、嘘のつけない賭場


女神フォルトゥナの大神殿は、王都の中心にそびえ立っていた。


白亜の柱が何十本も立ち並び、その奥に巨大な女神像が鎮座している。

片手に天秤を、もう片手に一つのサイコロを掲げ、その両目は静かに閉じられていた。


「神前勝負の申請でございますか」


受付の奥から出てきたのは、でっぷりと肥えた中年の審問官だった。

名前はベネディクト。

黄金の胃袋の担当審問官だと、ラットが調べてくれていた。


その指には、見覚えのある金の指輪がはまっていた。

ドルマンが十本の指にはめているものと、同じ意匠だ。


「相手は、商人のドルマン殿。……ふむ」


ベネディクトは、申請書にろくに目も通さず、鼻を鳴らした。


(この男が、俺の申請を受理する確率は?)


【0%】


ゼロ。


揺らぎすらない。この男は、もう決めているのだ。

ドルマンに不利な申請は、何があっても通さないと。


「根拠のない申し立てですな。

ドルマン殿は、王都に多大な貢献をされている善良な商人です。

伯爵様の借金の腹いせに、神前勝負など……」


「そうか。手間を取らせた」


俺はあっさりと申請書を引っ込め、踵を返した。


ベネディクトが、拍子抜けしたような顔をしているのが背中越しに分かった。


最初から、こいつに期待などしていない。


  ◆


神殿の中庭では、一人の青年が剣を振っていた。


栗色の髪が汗に濡れ、白い審問官の制服の袖がまくり上げられている。

一振りごとに、空気が鋭く裂ける音がした。


「アレン・クロウフォード」


声をかけると、アレンは剣を止めて振り返った。俺の顔を見て、わずかに目を細める。


「……何の用だ」


「神前勝負の立会人を頼みたい」


「相手は」


「ドルマン」


アレンは剣を鞘に収め、しばらく黙って俺を見つめた。


「担当はベネディクト審問官のはずだ」


「断られた。あの男の指には、ドルマンと揃いの指輪がはまっていたよ」


アレンの眉が、ぴくりと動いた。


「なぜ、俺だ」


「お前の前では、誰も嘘をつけない。ドルマンもだ」


俺は、一歩近づいた。


「神前勝負の場では、立会人が不正と認めれば、即座に敗北になる。

だが、買収された審問官は不正を見逃す。

だからドルマンは、今まで一度も負けたことがない」


「…………」


「お前が立ち会う勝負でだけ、あいつは丸裸になる」


鐘は、鳴らない。


アレンは、しばらく黙っていた。


「お前に、何の得がある」


「借金の証文を取り返す。偽造された証文をな」


「偽造?」


「十万枚の借金のうち、七万枚は存在しない。

先日の罰金の二万枚も含めれば、九万枚だ」


鐘は、鳴らない。


「それと、一人の女を自由にする」


「女?」


俺は、懐から羊皮紙の束を取り出した。競売の目録だ。


アレンは、それを受け取って目を走らせた。その顔が、みるみるうちに強張っていく。


「人身売買……」


アレンは、絞り出すように言った。


この国において、人の売買は女神の名のもとに固く禁じられている。

審問官が最も憎むべき罪の一つだ。


「これを、どこで手に入れた」


「俺が盗んだものじゃない」


鐘は、鳴らない。


アレンは、深いため息をついた。

俺の言葉が嘘ではないことは分かる。

だが、全てを話しているわけでもないことも分かっている。

そういう顔だった。


「……一つだけ聞かせろ」


アレンは、まっすぐに俺を見た。


「あの夜。お前は、わざと負けたのか?」


いい質問だ。


さすがは、この物語の主人公だ。


「その質問には、答えない」


アレンは、しばらく俺を睨んでいた。だがやがて、諦めたように肩をすくめた。


「……答えないのは、嘘ではないからな」


「話が早くて助かる」


「条件がある」


アレンは、目録を俺に突き返した。


「お前が負けたら、俺はお前を逮捕する。

神前勝負の濫用と、この目録の窃盗への関与でな」


「構わない」


即答すると、アレンは少しだけ目を見開いた。


それから、小さく笑った。初めて見る、彼の笑みだった。


「お前は、本当に変な男だな」


「よく言われる」


  ◆


その日の夜。黄金の胃袋の一階、大広間。


ルーレットが回り、カードが舞う喧騒の中で、俺は真っ直ぐに二階を見上げた。


「支配人、ドルマン!」


広間中の視線が、俺に集まる。


二階の手すりに、毛皮のガウンをまとった巨体が姿を現した。


「これはこれは、伯爵様。先日の罰金の支払いですかな?」


「いや。神前勝負を申し込みに来た」


広間が、どよめいた。


ドルマンの細い目が、すっと鋭くなった。


「神前勝負、ですと? しかし、担当のベネディクト殿は……」


「立会人は、もう決まっている」


俺の後ろから、白い制服の青年が進み出た。

銀の徽章が、シャンデリアの光を受けて輝く。


「第七審問官、アレン・クロウフォードだ。この勝負、俺が立ち会う」


ドルマンの顔が、一瞬だけ引きつった。


だが、すぐにいつもの笑みが戻る。


「……よろしいでしょう。して、伯爵様は何をお賭けになるので?」


「ラングレー伯爵位。そして、俺自身の身柄だ」


広間の喧騒が、ぴたりと止んだ。


「身柄……と、仰いますと?」


「負けたら、俺は一生お前の言いなりになる。お前の命じることは、何でもしよう」


ドルマンの目が、ぎらりと光った。


伯爵位を持つ貴族を、一生意のままに操れる。

それが何を意味するか、この男には分かっている。

罪をかぶせる身代わりとしても、表の世界への足がかりとしても、これ以上の駒はない。


――原作で、ヴィクトルがそうされたように。


「ふむ。……ついでに、妹君もいかがです?」


「リリアは賭けない」


俺は、静かに、だがはっきりと言った。


「それが呑めないなら、この話はなしだ」


ドルマンは少し考えた後、肩をすくめた。


「よろしい。して、わしは何を賭ければよろしいので?」


「この店の全ての権利。

ラングレー家の借金の証文、全て。

先日の罰金の証文も含めてな。そして――」


俺は、広間の隅のブラックジャック台を振り返った。


銀髪のディーラーが、手を止めてこちらを見ている。


「ディーラー、ノエルの契約書」


ドルマンの笑みが、凍りついた。


(ドルマンが、ノエルを賭けることに同意する確率は?)


【34%】


迷っている。ノエルには、すでに落札予定者がいる。

あの七つのサイコロの紋章の主に、売ることが決まっているのだ。


だが――。


「どうした? 俺の一生と伯爵位を賭けても、女一人の契約書と釣り合わないか?」


【34% → 61%】


「それとも、俺に負けるのが怖いのか? この店の中で」


【61% → 89%】


ドルマンは、喉の奥で低く笑った。


「……いいでしょう。全て、お受けいたします」


  ◆


――ドルマンは、内心で舌なめずりしていた。


(愚か者め。わしの店で、わしに勝負を挑むとは)


この店の中では、全ての勝負が胴元に傾く。そして、あの特別室には鏡と囁き貝がある。


負ける要素など、何一つない。


「場所はいかがいたしましょう?」


ドルマンが尋ねると、小僧は少し考えてから答えた。


「上の特別室でいい。あそこは静かだ」


(――馬鹿め)


ドルマンは、腹の底で笑いを噛み殺した。


先日、あれだけ一方的に負けた部屋を、自分から選ぶとは。

あの部屋の鏡の意味にも気づかず、ただ静かだという理由で。


「では、ディーラーは当店の者を……」


「待て」


審問官の若造が、口を挟んだ。


「立会人として、ディーラーは俺が指名する。

……この店で最も公正だと評判のディーラーは、誰だ」


広間のあちこちから、声が上がった。


「ノエルだ」

「ノエル以外にいねえよ」

「あの子の配るカードだけは、絶対に細工できねえ」


ドルマンは、一瞬だけ顔をしかめた。だが、すぐに思い直す。


(構わん。ノエルはわしの所有物だ。命じれば、どうとでもなる)


「勝負の刻限は?」


「今夜、日付が変わる時刻に」


「ほう。なぜ、わざわざ真夜中に?」


「その方が、俺には都合がいい」


鐘は、鳴らなかった。


ドルマンは鼻で笑った。小僧のことだ。どうせ縁起でも担いでいるのだろう。


「そういえば、伯爵様。いつもお連れの老執事はどうなさいました?」


「置いてきた」


鐘は、鳴らなかった。


(屋敷で、妹の子守りか。哀れなものよ)


  ◆


勝負の刻限までの間、俺は一度だけ屋敷に戻った。


リリアは、ラットが下町で見つけてきた信用のおける宿に、今夜だけ預けることになっている。

ドルマンが、勝負の最中に妹を人質に取らないとも限らない。


「お兄さま、今夜は帰ってこないの?」


宿へ向かう馬車の前で、リリアが不安そうに俺の袖を掴んだ。


「明日の朝には、迎えに行く」


「ほんとう?」


「ああ。約束だ」


リリアは、俺の手首に巻かれたリボンの腕輪をそっと撫でた。


「……お守り、ちゃんとつけてるね」


「当たり前だろ」


馬車が走り去るのを見送ってから、俺は屋敷の門の前に立ち尽くした。


この眼は、俺自身の選択が絡む未来を見せてくれない。

今夜、俺が勝って帰れるのかどうか。

それだけは、どれだけ問いを立てても、砂嵐の向こうにある。


前世の俺は、それが怖かった。だから、自分で決めることから逃げて、酒に溺れた。


だが、今は違う。


数字が見えないなら、決めるしかない。


勝つと、決めるしかない。


  ◆


真夜中。


黄金の胃袋の最上階、特別室。


楕円形のテーブルを挟んで、俺とドルマンが向かい合っていた。

俺の背後には、壁一面の巨大な鏡。


テーブルの端にはディーラーのノエル。

その斜め後ろに、記録係として家令のバルトロが控えている。

ドルマンの紹介によれば、「公正な記録のため」だそうだ。

細い指が、帳面の上でペンを弄んでいた。


そして、テーブルの正面に、立会人のアレン。


壁の時計の針が、真上で重なった。


アレンが、銀の徽章を掲げた。


「女神フォルトゥナの御名において。

ヴィクトル・ラングレーとドルマンによる神前勝負を、ここに開く」


その瞬間、テーブルが光を放った。


緑の羅紗が金色に輝き、天井から光の粒が雪のように降り注ぐ。

背後の鏡に、巨大な女神の姿がぼんやりと浮かび上がった。


天秤とサイコロを掲げ、両目を閉じた女神。


神卓の、降臨だ。


「勝負は、ホールデム。

双方、二百枚のチップから始め、どちらかのチップが尽きるまで続ける」


アレンが、厳かに告げる。


「なお、この神卓の上で口にされた嘘は、全て俺の鐘が暴く。

――口先のハッタリは、通じないと思え」


  ◆


勝負が始まった。


そして、あの夜と同じことが起きた。


強い手で勝負に出れば、ドルマンは降りる。

弱い手で様子を見れば、ドルマンは容赦なく攻め込んでくる。


俺の手札は、全て読まれていた。


ドルマンは、決断の前に必ず左耳に触れた。


ある時、俺はダイヤのエースとクラブのエースを握っていた。最強の手だ。


(このハンドで、俺が勝つ確率は?)


【81%】


「レイズ。四十枚」


ドルマンは左耳に触れ、ほんのわずかに口元を緩めた。


「伯爵様。そのお手、ずいぶんとお強そうですな」


「ああ、強いよ」


鐘は、鳴らない。


この神卓の上では、口先のハッタリは使えない。

だから俺は、本当のことしか言えない。

そしてドルマンも、それを知っている。


「では、降りましょう」


ドルマンは、余裕たっぷりにカードを投げた。

最強の手で、俺が手にしたのは、わずか数枚のチップだけだった。


逆に、手札が弱い時。俺は口を閉ざし、賭け方だけでハッタリを仕掛けた。


ドルマンは左耳に触れ、迷わずコールしてきた。


「伯爵様。黙っていらっしゃるということは、言えないお手なのでしょう?」


ドルマンが、ねっとりと笑う。


鐘は、鳴らない。こいつの言葉も、嘘ではないからだ。


アレンの鐘は、嘘を暴く。だが、イカサマで得た真実を語る者を、裁くことはできない。


二百枚のチップが、百五十枚になり、百枚になり、六十枚になった。


俺は、ちらりと壁の時計に目をやった。


「……遅いな」


「何がですかな?」


「いや、独り言だ」


チップは、三十枚になり――十五枚になった。


【俺がこの勝負に勝つ確率:4%】


ドルマンが、勝ち誇ったように笑う。


「伯爵様。もう、終わりですな」


ノエルの指が、カードの上でかすかに止まった。


アレンが、唇を噛みしめて俺を見ている。


俺は、何も答えなかった。


ただ、ドルマンが次のハンドで左耳に触れるのを、じっと見ていた。


――その時。


背後の鏡の奥で、ごとり、と。


何か重いものが倒れる、小さな音がした。

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