第8話 立会人と、嘘のつけない賭場
女神フォルトゥナの大神殿は、王都の中心にそびえ立っていた。
白亜の柱が何十本も立ち並び、その奥に巨大な女神像が鎮座している。
片手に天秤を、もう片手に一つのサイコロを掲げ、その両目は静かに閉じられていた。
「神前勝負の申請でございますか」
受付の奥から出てきたのは、でっぷりと肥えた中年の審問官だった。
名前はベネディクト。
黄金の胃袋の担当審問官だと、ラットが調べてくれていた。
その指には、見覚えのある金の指輪がはまっていた。
ドルマンが十本の指にはめているものと、同じ意匠だ。
「相手は、商人のドルマン殿。……ふむ」
ベネディクトは、申請書にろくに目も通さず、鼻を鳴らした。
(この男が、俺の申請を受理する確率は?)
【0%】
ゼロ。
揺らぎすらない。この男は、もう決めているのだ。
ドルマンに不利な申請は、何があっても通さないと。
「根拠のない申し立てですな。
ドルマン殿は、王都に多大な貢献をされている善良な商人です。
伯爵様の借金の腹いせに、神前勝負など……」
「そうか。手間を取らせた」
俺はあっさりと申請書を引っ込め、踵を返した。
ベネディクトが、拍子抜けしたような顔をしているのが背中越しに分かった。
最初から、こいつに期待などしていない。
◆
神殿の中庭では、一人の青年が剣を振っていた。
栗色の髪が汗に濡れ、白い審問官の制服の袖がまくり上げられている。
一振りごとに、空気が鋭く裂ける音がした。
「アレン・クロウフォード」
声をかけると、アレンは剣を止めて振り返った。俺の顔を見て、わずかに目を細める。
「……何の用だ」
「神前勝負の立会人を頼みたい」
「相手は」
「ドルマン」
アレンは剣を鞘に収め、しばらく黙って俺を見つめた。
「担当はベネディクト審問官のはずだ」
「断られた。あの男の指には、ドルマンと揃いの指輪がはまっていたよ」
アレンの眉が、ぴくりと動いた。
「なぜ、俺だ」
「お前の前では、誰も嘘をつけない。ドルマンもだ」
俺は、一歩近づいた。
「神前勝負の場では、立会人が不正と認めれば、即座に敗北になる。
だが、買収された審問官は不正を見逃す。
だからドルマンは、今まで一度も負けたことがない」
「…………」
「お前が立ち会う勝負でだけ、あいつは丸裸になる」
鐘は、鳴らない。
アレンは、しばらく黙っていた。
「お前に、何の得がある」
「借金の証文を取り返す。偽造された証文をな」
「偽造?」
「十万枚の借金のうち、七万枚は存在しない。
先日の罰金の二万枚も含めれば、九万枚だ」
鐘は、鳴らない。
「それと、一人の女を自由にする」
「女?」
俺は、懐から羊皮紙の束を取り出した。競売の目録だ。
アレンは、それを受け取って目を走らせた。その顔が、みるみるうちに強張っていく。
「人身売買……」
アレンは、絞り出すように言った。
この国において、人の売買は女神の名のもとに固く禁じられている。
審問官が最も憎むべき罪の一つだ。
「これを、どこで手に入れた」
「俺が盗んだものじゃない」
鐘は、鳴らない。
アレンは、深いため息をついた。
俺の言葉が嘘ではないことは分かる。
だが、全てを話しているわけでもないことも分かっている。
そういう顔だった。
「……一つだけ聞かせろ」
アレンは、まっすぐに俺を見た。
「あの夜。お前は、わざと負けたのか?」
いい質問だ。
さすがは、この物語の主人公だ。
「その質問には、答えない」
アレンは、しばらく俺を睨んでいた。だがやがて、諦めたように肩をすくめた。
「……答えないのは、嘘ではないからな」
「話が早くて助かる」
「条件がある」
アレンは、目録を俺に突き返した。
「お前が負けたら、俺はお前を逮捕する。
神前勝負の濫用と、この目録の窃盗への関与でな」
「構わない」
即答すると、アレンは少しだけ目を見開いた。
それから、小さく笑った。初めて見る、彼の笑みだった。
「お前は、本当に変な男だな」
「よく言われる」
◆
その日の夜。黄金の胃袋の一階、大広間。
ルーレットが回り、カードが舞う喧騒の中で、俺は真っ直ぐに二階を見上げた。
「支配人、ドルマン!」
広間中の視線が、俺に集まる。
二階の手すりに、毛皮のガウンをまとった巨体が姿を現した。
「これはこれは、伯爵様。先日の罰金の支払いですかな?」
「いや。神前勝負を申し込みに来た」
広間が、どよめいた。
ドルマンの細い目が、すっと鋭くなった。
「神前勝負、ですと? しかし、担当のベネディクト殿は……」
「立会人は、もう決まっている」
俺の後ろから、白い制服の青年が進み出た。
銀の徽章が、シャンデリアの光を受けて輝く。
「第七審問官、アレン・クロウフォードだ。この勝負、俺が立ち会う」
ドルマンの顔が、一瞬だけ引きつった。
だが、すぐにいつもの笑みが戻る。
「……よろしいでしょう。して、伯爵様は何をお賭けになるので?」
「ラングレー伯爵位。そして、俺自身の身柄だ」
広間の喧騒が、ぴたりと止んだ。
「身柄……と、仰いますと?」
「負けたら、俺は一生お前の言いなりになる。お前の命じることは、何でもしよう」
ドルマンの目が、ぎらりと光った。
伯爵位を持つ貴族を、一生意のままに操れる。
それが何を意味するか、この男には分かっている。
罪をかぶせる身代わりとしても、表の世界への足がかりとしても、これ以上の駒はない。
――原作で、ヴィクトルがそうされたように。
「ふむ。……ついでに、妹君もいかがです?」
「リリアは賭けない」
俺は、静かに、だがはっきりと言った。
「それが呑めないなら、この話はなしだ」
ドルマンは少し考えた後、肩をすくめた。
「よろしい。して、わしは何を賭ければよろしいので?」
「この店の全ての権利。
ラングレー家の借金の証文、全て。
先日の罰金の証文も含めてな。そして――」
俺は、広間の隅のブラックジャック台を振り返った。
銀髪のディーラーが、手を止めてこちらを見ている。
「ディーラー、ノエルの契約書」
ドルマンの笑みが、凍りついた。
(ドルマンが、ノエルを賭けることに同意する確率は?)
【34%】
迷っている。ノエルには、すでに落札予定者がいる。
あの七つのサイコロの紋章の主に、売ることが決まっているのだ。
だが――。
「どうした? 俺の一生と伯爵位を賭けても、女一人の契約書と釣り合わないか?」
【34% → 61%】
「それとも、俺に負けるのが怖いのか? この店の中で」
【61% → 89%】
ドルマンは、喉の奥で低く笑った。
「……いいでしょう。全て、お受けいたします」
◆
――ドルマンは、内心で舌なめずりしていた。
(愚か者め。わしの店で、わしに勝負を挑むとは)
この店の中では、全ての勝負が胴元に傾く。そして、あの特別室には鏡と囁き貝がある。
負ける要素など、何一つない。
「場所はいかがいたしましょう?」
ドルマンが尋ねると、小僧は少し考えてから答えた。
「上の特別室でいい。あそこは静かだ」
(――馬鹿め)
ドルマンは、腹の底で笑いを噛み殺した。
先日、あれだけ一方的に負けた部屋を、自分から選ぶとは。
あの部屋の鏡の意味にも気づかず、ただ静かだという理由で。
「では、ディーラーは当店の者を……」
「待て」
審問官の若造が、口を挟んだ。
「立会人として、ディーラーは俺が指名する。
……この店で最も公正だと評判のディーラーは、誰だ」
広間のあちこちから、声が上がった。
「ノエルだ」
「ノエル以外にいねえよ」
「あの子の配るカードだけは、絶対に細工できねえ」
ドルマンは、一瞬だけ顔をしかめた。だが、すぐに思い直す。
(構わん。ノエルはわしの所有物だ。命じれば、どうとでもなる)
「勝負の刻限は?」
「今夜、日付が変わる時刻に」
「ほう。なぜ、わざわざ真夜中に?」
「その方が、俺には都合がいい」
鐘は、鳴らなかった。
ドルマンは鼻で笑った。小僧のことだ。どうせ縁起でも担いでいるのだろう。
「そういえば、伯爵様。いつもお連れの老執事はどうなさいました?」
「置いてきた」
鐘は、鳴らなかった。
(屋敷で、妹の子守りか。哀れなものよ)
◆
勝負の刻限までの間、俺は一度だけ屋敷に戻った。
リリアは、ラットが下町で見つけてきた信用のおける宿に、今夜だけ預けることになっている。
ドルマンが、勝負の最中に妹を人質に取らないとも限らない。
「お兄さま、今夜は帰ってこないの?」
宿へ向かう馬車の前で、リリアが不安そうに俺の袖を掴んだ。
「明日の朝には、迎えに行く」
「ほんとう?」
「ああ。約束だ」
リリアは、俺の手首に巻かれたリボンの腕輪をそっと撫でた。
「……お守り、ちゃんとつけてるね」
「当たり前だろ」
馬車が走り去るのを見送ってから、俺は屋敷の門の前に立ち尽くした。
この眼は、俺自身の選択が絡む未来を見せてくれない。
今夜、俺が勝って帰れるのかどうか。
それだけは、どれだけ問いを立てても、砂嵐の向こうにある。
前世の俺は、それが怖かった。だから、自分で決めることから逃げて、酒に溺れた。
だが、今は違う。
数字が見えないなら、決めるしかない。
勝つと、決めるしかない。
◆
真夜中。
黄金の胃袋の最上階、特別室。
楕円形のテーブルを挟んで、俺とドルマンが向かい合っていた。
俺の背後には、壁一面の巨大な鏡。
テーブルの端にはディーラーのノエル。
その斜め後ろに、記録係として家令のバルトロが控えている。
ドルマンの紹介によれば、「公正な記録のため」だそうだ。
細い指が、帳面の上でペンを弄んでいた。
そして、テーブルの正面に、立会人のアレン。
壁の時計の針が、真上で重なった。
アレンが、銀の徽章を掲げた。
「女神フォルトゥナの御名において。
ヴィクトル・ラングレーとドルマンによる神前勝負を、ここに開く」
その瞬間、テーブルが光を放った。
緑の羅紗が金色に輝き、天井から光の粒が雪のように降り注ぐ。
背後の鏡に、巨大な女神の姿がぼんやりと浮かび上がった。
天秤とサイコロを掲げ、両目を閉じた女神。
神卓の、降臨だ。
「勝負は、ホールデム。
双方、二百枚のチップから始め、どちらかのチップが尽きるまで続ける」
アレンが、厳かに告げる。
「なお、この神卓の上で口にされた嘘は、全て俺の鐘が暴く。
――口先のハッタリは、通じないと思え」
◆
勝負が始まった。
そして、あの夜と同じことが起きた。
強い手で勝負に出れば、ドルマンは降りる。
弱い手で様子を見れば、ドルマンは容赦なく攻め込んでくる。
俺の手札は、全て読まれていた。
ドルマンは、決断の前に必ず左耳に触れた。
ある時、俺はダイヤのエースとクラブのエースを握っていた。最強の手だ。
(このハンドで、俺が勝つ確率は?)
【81%】
「レイズ。四十枚」
ドルマンは左耳に触れ、ほんのわずかに口元を緩めた。
「伯爵様。そのお手、ずいぶんとお強そうですな」
「ああ、強いよ」
鐘は、鳴らない。
この神卓の上では、口先のハッタリは使えない。
だから俺は、本当のことしか言えない。
そしてドルマンも、それを知っている。
「では、降りましょう」
ドルマンは、余裕たっぷりにカードを投げた。
最強の手で、俺が手にしたのは、わずか数枚のチップだけだった。
逆に、手札が弱い時。俺は口を閉ざし、賭け方だけでハッタリを仕掛けた。
ドルマンは左耳に触れ、迷わずコールしてきた。
「伯爵様。黙っていらっしゃるということは、言えないお手なのでしょう?」
ドルマンが、ねっとりと笑う。
鐘は、鳴らない。こいつの言葉も、嘘ではないからだ。
アレンの鐘は、嘘を暴く。だが、イカサマで得た真実を語る者を、裁くことはできない。
二百枚のチップが、百五十枚になり、百枚になり、六十枚になった。
俺は、ちらりと壁の時計に目をやった。
「……遅いな」
「何がですかな?」
「いや、独り言だ」
チップは、三十枚になり――十五枚になった。
【俺がこの勝負に勝つ確率:4%】
ドルマンが、勝ち誇ったように笑う。
「伯爵様。もう、終わりですな」
ノエルの指が、カードの上でかすかに止まった。
アレンが、唇を噛みしめて俺を見ている。
俺は、何も答えなかった。
ただ、ドルマンが次のハンドで左耳に触れるのを、じっと見ていた。
――その時。
背後の鏡の奥で、ごとり、と。
何か重いものが倒れる、小さな音がした。




