第10話 取り立て
百パーセント。
その数字を見つめながら、俺は奇妙なほど冷静になっていく自分に気づいていた。
前世でも、何度もあった。
どう計算しても勝ち目のない局面。
そういう時に頭が真っ白になる奴から、テーブルを去っていく。
考えろ。
ゼロと百は、動かせない。
それは、誰かが意志をもって結果を決めた時に現れる数字だ。
ゴードンがコインを掴んで、表を出すと決めた時のように。
では、なぜ今、このハンドの結果が決まっている?
ノエルが混ぜたデッキなら、めくられる前のカードは誰にも分からない。
どんなに偏っても、ゼロや百にはならない。
この眼は、ここまでの数十ハンドで一度もそんな数字を見せなかった。
なのに今、決まっている。
――決まっているなら、誰かが決めたんだ。
三秒の暗闇。額に汗を浮かべたバルトロ。デッキの端をなぞったノエルの指。
そして、紙の束を、まるでカードのように扇に広げてみせた、あの細く長い指。
(……そういうことか)
俺は、顔を上げた。
「審問官」
アレンが、はっとしたように俺を見た。
「このハンドについて、不正の申し立てをする」
◆
特別室の空気が、凍りついた。
「……分かっているのか、ヴィクトル」
アレンが、低い声で言った。
「神前勝負において、不正の申し立ては重い。
証明できなければ、虚偽の申し立てとして、申し立てた側の敗北になる」
「分かってる」
ドルマンが、鼻で笑った。
「証拠もなしに、何を仰るやら。キングのペアを握って、怖くなりましたかな?」
「証拠なら、これから見せる」
俺は、ノエルの方を向いた。
「ノエル。
このハンドを止めたまま、デッキの上から五枚、順番に表にしてくれ。
――めくる前に、俺が何が出るかを言う」
ノエルの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
「立会人の権限で、検分を認める」
アレンが頷いた。
「ディーラー、始めてくれ」
◆
ノエルの指が、デッキの一番上のカードに触れた。
俺は、問いを立てる。
この眼は、問いを立てたことにしか答えない。だから、問いを重ねて絞り込む。
(次の一枚が、赤い札である確率は?)
【100%】
(ハートである確率は?)
【0%】
ダイヤだ。
(絵札かエースである確率は?)
【100%】
(エースである確率は?)
【100%】
「ダイヤのエース」
ノエルが、カードをめくった。
ダイヤのエース。
アレンが、息を呑む音が聞こえた。
「次。クラブのキング」
めくられる。クラブのキング。
「スペードの五」
スペードの五。
「ハートの九」
ハートの九。
「……最後。クラブのエース」
ノエルの指が、五枚目のカードを返した。
クラブのエース。
特別室が、しんと静まり返った。
テーブルの上に並んだ五枚の共通カード。
ダイヤのエース、クラブのキング、スペードの五、ハートの九、クラブのエース。
俺の手はキングのスリーカードにエースのペア――フルハウスだ。
普通なら、まず負けない手だ。
だが、ドルマンが握っているのは、おそらく残り二枚のエース。
エースが四枚。フォーカード。
フルハウスを握らせて全額を賭けさせ、その上をいくフォーカードで叩き潰す。
賭場で最も古典的な、仕組まれた手だった。
「残り四十八枚のカードから、五枚を順番通りに当てる確率は、およそ二億分の一だ」
俺は、静かに言った。
「公正に混ぜたデッキで、そんなことが起こるはずがない。
このデッキは――誰かが、あらかじめ並べたものだ」
◆
「――だからこそだ!」
ドルマンが、テーブルを叩いて立ち上がった。
「順番を知っているのは、仕込んだ本人だけだろう!
この男が、デッキを積み込んだのだ!」
さすがに、ただの悪党ではない。追い詰められても、瞬時に矛先を返してくる。
だが、ここは神卓の上だ。
「俺は、デッキを積み込んでいない」
鐘は、鳴らない。
ドルマンは、一瞬顔を歪めた。だがすぐに、自分も胸を張った。
「わしも、デッキを積み込んではおらん!」
――鐘は、鳴らない。
当然だ。こいつは、自分の手では何もしていない。
「では、残るは一人ですな」
ドルマンが、ゆっくりとノエルを振り返った。
「このテーブルでカードに触れたのは、ディーラーだけだ。
ノエル、お前が伯爵と組んで、デッキを――」
「私は、デッキを積み込んでいません」
ノエルが、まっすぐにドルマンを見返して言った。
鐘は、鳴らない。
アレンが、眉間に皺を寄せた。
「誰かが積み込んだのは確かだ。だが、鐘は誰も嘘をついていないと言っている……」
「いや」
俺は、ゆっくりと首を振った。
「まだ、一言も喋っていない人間がいる」
全員の視線が、一点に集まった。
ノエルの斜め後ろ。帳面を胸に抱えて、青ざめた顔で立ち尽くしている男。
「記録係殿」
俺は、バルトロに向かって言った。
「あんたは、さっきの暗闇の中で、デッキに触れたか?」
バルトロの喉が、ごくりと鳴った。
ドルマンが、射殺すような目でバルトロを睨みつけた。何も言うな、と。
だが、バルトロは気づいていない。この場で黙ることが、何を意味するか。
「わ……私は、触れておりません」
――りぃぃん。
これまでで一番大きく、澄んだ鐘の音が、特別室に鳴り響いた。
◆
「記録係の懐を改める」
アレンが、有無を言わせぬ声で言った。
バルトロは後ずさったが、アレンの手の方が速かった。
上着の内ポケットから、一組のカードの束が引きずり出される。
アレンは、それをノエルに差し出した。
ノエルは、カードの束を受け取ると、その端を指先でそっとなぞった。
「……私のデッキです」
静かな声だった。
「私は、混ぜ終えたデッキを揃える時、角をほんの少しだけ――
指一本分の厚みもないくらい、ずらしておく癖があるの。
誰にも気づかれないくらいに。でも、私には分かる」
ノエルは、テーブルの上のデッキと、バルトロの懐から出てきたデッキを並べた。
テーブルの上のデッキは、角がぴたりと揃っていた。
バルトロの懐から出てきたデッキは、ほんのわずかに、角がずれていた。
「暗闇の中で、デッキがすり替えられたのよ」
ドルマンが、震える声で叫んだ。
「し、知らん! わしは、そんな男は知らんぞ! こいつが勝手に――」
――りぃん。
ドルマンが、自分の口を両手で押さえた。
アレンは、冷たい目でドルマンを見下ろした。
「ドルマン。お前はこの男に、デッキをすり替えるよう命じたのか?」
ドルマンは、答えなかった。
脂汗を流しながら、ただ唇を引き結んでいる。
答えれば、鐘が鳴る。だから、何も言わない。
アレンは、長い息を吐いた。
「……沈黙は、嘘ではない」
そして、立会人として宣告した。
「記録係バルトロの不正を、ここに認定する。
このハンドは無効とし、バルトロは拘束する。
だが――ドルマンが命じたという証は、まだない。
女神が裁くのは、不正が証明された当人だけだ」
アレンは、俺の方を向いた。
「ヴィクトル。勝負は、続けるか」
ドルマンが、すがるような目で俺を見た。
俺は、迷わず答えた。
「続けよう。――まだ、取り立てが済んでいない」
◆
ノエルが、新しいデッキを混ぜ始めた。
その指の動きは、いつもと同じだった。速く、正確で、一切の無駄がない。
(ノエルが、このデッキを公正に混ぜる確率は?)
【??】
相変わらず、読めない。
だが、もう問う必要もなかった。
俺のチップは二百三十枚。ドルマンは百七十枚。
配られた手札は、スペードのキングとスペードのジャック。
ドルマンの手札は分からない。
最初の三枚の共通カードが開かれた。
スペードのクイーン。ダイヤのクイーン。スペードの九。
ドルマンが、残る百七十枚を全て押し出した。
「オールイン」
(ドルマンが、この勝負に勝つ確率は?)
【96%】
おそらく、クイーンと九を持っている。
クイーンのスリーカードに九のペア。
すでにフルハウスが完成している。
俺の手で、フルハウスに勝てる道は一つしかない。
スペードの十。
それが出れば、スペードの九、十、ジャック、クイーン、キング。
ストレートフラッシュになる。
残りのカードの中に、たった一枚。
(俺が勝つ確率は?)
【4%】
――十分だ。
「コール」
ドルマンの目が、驚きに見開かれた。そして、すぐに嘲るような笑みに変わった。
「血迷いましたかな、伯爵様」
アレンが拳を握りしめる。ノエルの指が、四枚目のカードの上で止まる。
四枚目が、めくられた。
ダイヤの三。
【俺が勝つ確率:1%】
【ドルマンが勝つ確率:99%】
加護に削られ、数字はさらに傾いた。
残り、一枚。
ドルマンの笑い声が、特別室に響いた。
「はっはっは! これで終わりだ、小僧!
お前の伯爵位も、お前の一生も、全てわしのものだ!」
俺は、目を閉じた。
スワップは、数字が一番大きく開いた瞬間に使う。
四パーセントと九十六パーセントを入れ替えても、勝率は九十六パーセント。
だが、一パーセントと九十九パーセントなら――。
今日の分は、まだ一度も使っていない。
そして、目の前にいるのは、イカサマ師だ。
俺は、目を開いた。
【俺が勝つ確率:1%】
【ドルマンが勝つ確率:99%】
(――入れ替われ)
二つの数字が、猛烈な勢いで回転し始めた。
まるで、巨大なスロットマシンのリール。
一と九十九が、光の帯となって入り乱れる。
頭の奥で何かが軋み、眼の奥が焼けるように熱くなる。
ガラスの砕け散る音が、俺の頭の中で響き渡った。
【俺が勝つ確率:99%】
【ドルマンが勝つ確率:1%】
鼻の下を、生ぬるいものが伝った。
「ノエル」
俺は、血を拭いもせずに言った。
「最後の一枚を、頼む」
ノエルは、俺の顔をじっと見つめた。
そして、五枚目のカードに指をかけ――静かに、めくった。
スペードの、十。
「…………は?」
ドルマンの笑い声が、途切れた。
「ストレートフラッシュ」
ノエルが、淡々と告げた。
「ヴィクトル・ラングレー様の、勝ちです」
◆
その瞬間、背後の鏡の中で、女神が目を開いた。
閉じられていた両目が、ゆっくりと開かれ、金色の光が特別室を満たしていく。
「な、なんだ……やめろ……!」
ドルマンの懐から、一枚の羊皮紙が勝手に飛び出した。
黄金の胃袋の権利書だ。
それは金色の炎に包まれながら宙を舞い、俺の目の前にふわりと落ちた。
続いて、部屋の隅の金庫の扉が、ひとりでに弾け飛んだ。
中から、三十七枚の証文と、罰金の書類が、光の帯となって飛び出してくる。
そして最後に、一枚の古い契約書。
ノエルの名前が記された、十年前の羊皮紙。
ドルマンの右手の甲に、天秤の紋章が浮かび上がった。
加護『胴元の領分』の証だ。
だがその紋章は、見る見るうちに光を失い、灰色にくすんでいった。
店を失った胴元に、守るべき領分はもうない。
「わしの……わしの店が……」
ドルマンは、空っぽになった紋章を見つめたまま、その場に崩れ落ちた。
「ドルマン」
アレンが、その前に立った。
「バルトロの証言を待つまでもない。
伯爵から預かった競売の目録と、偽造された証文。
人身売買と文書偽造の罪で、お前を拘束する」
「ま、待ってくれ、審問官殿! わしは何も――」
「口を開くなら、鐘に気をつけろ」
ドルマンは、口をぱくぱくと動かしたまま、何も言えなくなった。
◆
拘束されたバルトロは、全てを白状した。
偽造の証文はドルマンに命じられて作ったこと。
屋敷の家財を売った金を、二人で分けていたこと。
ただ一つ、口を割らなかったことがある。
横領した金の、隠し場所だ。
「言わないなら、それでもいい」
俺は、縛られたバルトロの前にしゃがみ込んだ。
「事実は読めない。だが、未来なら読める」
(今から、王都の銀行の貸金庫を開けたら、金が出てくる確率は?)
【3%】
(バルトロの別邸の床下を掘ったら?)
【9%】
いくつかの場所を問い、最後に一つの問いを立てた時、数字が跳ね上がった。
(ラングレー家の墓所の――母さんの墓を掘ったら?)
【97%】
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
脳裏に浮かんだのは、決戦の前日に見た、母の墓石の根元の土だった。
周りより少しだけ黒く、柔らかかった、あの土。
バルトロの顔から、血の気が失せていった。
「……母さんの墓に、盗んだ金を隠したのか」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「誰も、墓は掘り返さないからな」
バルトロは、震えながら目を逸らした。
「取り立ては、それで最後だ」
◆
三日後。ラングレー伯爵家の屋敷。
戻ってきた家具と絵画が並ぶ応接間で、リリアが窓辺の陽だまりの中を駆け回っていた。
「お兄さま、見て! お母さまの肖像画が帰ってきたよ!」
「ああ。おかえり、って言ってやれ」
ゴードンが、満足そうに目を細めて紅茶を淹れている。
ラットは、ソファに寝転がって焼き菓子を頬張っていた。
そして、俺の向かいには、ノエルが座っていた。
テーブルの上には、一枚の古い羊皮紙。
ノエルの契約書だ。
俺は、それを暖炉の火の中へ放り込んだ。
羊皮紙が、ぱちぱちと音を立てて燃えていく。ノエルは、黙ってそれを見つめていた。
「これで、あんたを縛るものは何もない」
俺は言った。
「出ていくのも、残るのも自由だ。
もし残るなら――黄金の胃袋は、今日から公正な賭場になる。
そこで、対等なディーラーとして雇いたい」
ノエルは、しばらく燃える炎を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……別に、あなたに賭けたわけじゃないわ」
「分かってる」
「ただ」
ノエルは、灰色の瞳で俺を見た。
「あなたの次の勝負を、見届けたいだけ」
(ノエルが、ここに残る確率は?)
【??】
相変わらず、疑問符だ。
だが、その疑問符が、ほんの一瞬だけ――何かの数字に変わりかけたように見えた。
「――邪魔をする」
応接間の扉が開き、白い制服の青年が入ってきた。
アレンだ。
「ドルマンとバルトロの件は、神殿で正式に裁かれることになった。
偽造された証文は全て無効だ」
「わざわざ報告に来てくれたのか」
「違う」
アレンは、腕を組んだ。
「お前を、監視しに来た」
「……は?」
「お前の言葉に、鐘は一度も鳴らなかった。
だが、お前はずいぶんと多くのことを隠している」
「隠すのは、嘘じゃないからな」
アレンは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
そして、一冊の分厚い帳面をテーブルの上に置いた。
「バルトロの裏帳簿だ。……最後のページを見ろ」
俺は帳面を開き、最後のページをめくった。
そこには、見覚えのある赤い封蝋が押されていた。
七つのサイコロを円形に並べた紋章。競売の目録に押されていたものと、同じだ。
そして、その下に、走り書きのような文字があった。
『リュミエールの遺品、引き渡し期日、未定』
ノエルが、息を呑む音が聞こえた。
振り返ると、彼女の顔から血の気が引いていた。
ゴードンもまた、紅茶のポットを持ったまま凍りついている。
「……ノエル?」
「なんでもない」
ノエルは、すぐにいつもの無表情に戻った。
だが、その指先が、かすかに震えていた。
その時、ゴードンが一通の手紙を差し出した。
「坊ちゃま。王立学園から、お手紙が届いております」
封を切ると、中から上質な便箋が出てきた。
復学を命じる通知と、それに添えられた、もう一枚の便箋。
そこには、優雅な筆跡で、こう記されていた。
『学園にお戻りになったら、改めてご挨拶に伺いますわ。あなたの元婚約者として。――セレスティーヌ』
俺は、便箋をそっとテーブルに置いた。
借金地獄は、終わった。
だが、どうやら――次の勝負は、もう始まっているらしい。




