第11話 三つの杯
王立フォルトゥナ学園。
王都の東の丘に建つ、貴族の子弟のための学び舎だ。白い石造りの校舎が連なり、中央には女神フォルトゥナを象った大時計塔がそびえている。
借金地獄を抜け出してから、一週間。
俺は、半年ぶりにその門をくぐっていた。
「おい、見ろよ。ラングレーだ」
「まだ退学になってなかったのか」
「黄金の胃袋で、イカサマして勝ったって噂だぜ。審問官まで抱き込んだとか」
廊下を歩くだけで、ひそひそ声が背中に突き刺さる。
ヴィクトルの記憶によれば、こいつはこの学園でも札付きの問題児だった。授業には出ない。出れば寝ている。賭け事の借金を同級生に踏み倒したことも一度や二度ではない。
(……評判は、地の底からのスタートか)
まあいい。前世でも、追放された後は似たようなものだった。
俺は、三年生の教室の扉を開けた。
◆
一限目は、『確率学』だった。
この世界では、賭けと運命の女神を国教とするだけあって、確率は貴族の必修科目になっている。神前勝負の作法、賭けの理論、そして数の学問。家の命運を賭けの一つで左右される貴族にとって、それは剣術や礼法と同じくらい大事な教養だ。
教壇に立ったのは、銀縁の眼鏡をかけた神経質そうな中年の男だった。
ホフマン教授。ヴィクトルの記憶では、こいつに散々な目に遭わされている。
「――おや。珍しい顔がいますね」
ホフマンは、眼鏡の奥の目を細めた。
「ラングレー君。半年も授業に出ずに、何をしていたのですか? ああ、失礼。賭場で、実地の勉強をしていたのでしたね」
教室中が、くすくすと笑った。
「せっかくです。今日は君に、実地の成果を見せてもらいましょうか」
ホフマンは、教壇の上に三つの銀の杯を伏せて並べた。そして、一枚の金貨をその一つの下に隠し、手早く杯を入れ替えていく。
「簡単な遊びです。三つの杯のどれかに、金貨が入っている。君は一つを選ぶ。その後、私が――金貨の場所を知っている私が、残りの二つのうち、空の杯を一つ開けてみせます」
ホフマンは、指を一本立てた。
「そこで君に、もう一度だけ機会を与えましょう。最初に選んだ杯のままでいるか。それとも、残ったもう一つの杯に乗り換えるか」
教室がざわめいた。
(……モンティ・ホール問題か)
前世では、有名な確率の問題だ。直感と答えがあまりにも食い違うので、数学者ですら間違えたという逸話がある。
「さあ、皆さんに聞きましょう。乗り換えた方が得か、損か、それとも同じか」
「同じです!」
前の席の、真面目そうな男子生徒が手を挙げた。
「杯が一つ開けられたら、残りは二つ。どちらかに金貨がある。なら、確率は二分の一ずつです!」
教室中が、うんうんと頷く。
ホフマンは満足そうに微笑み――それから、わざとらしく俺の方を見た。
「ラングレー君は、どう思いますか?」
「乗り換えた方がいい」
教室が、一瞬静まり返った。
それから、どっと笑いが起きた。
「出たよ、賭場の勘」
「二分の一だって言ってんだろ」
ホフマンも、肩を揺らして笑っていた。
「ほう。根拠は?」
「最初に選んだ杯が当たりである確率は、三分の一。先生が空の杯を開けても、その三分の一は変わらない。だから、残ったもう一つの杯が当たりである確率は――三分の二だ」
「詭弁ですね」
ホフマンは鼻で笑った。
「では、実際にやってみましょう。三十回。君が乗り換え続けて、二十回以上当てられたら、君の言い分を認めましょう。もし当てられなければ――そうですね。この教室の全員の前で、膝をついて謝罪してもらいましょうか。『私は賭場で頭を腐らせた愚か者です』とね」
教室中が、期待に満ちた目で俺を見た。
俺は、肩をすくめた。
「いいですよ」
◆
一回目。
俺は、左の杯を指差した。
ホフマンは、右の杯を開けてみせた。空だ。
(最初に選んだ左の杯に、金貨がある確率は?)
【33%】
(真ん中の杯に、金貨がある確率は?)
【67%】
――ほらな。
この眼は、俺の頭の中の計算と寸分違わない数字を見せてくれる。
「乗り換えます。真ん中」
ホフマンが、真ん中の杯を開けた。金貨が光っていた。
「……一回目は、偶然ですね」
二回目。三回目。四回目。
俺は毎回乗り換えた。当たったり、外れたりする。だが十回を終えた時点で、俺は七回当てていた。
教室のざわめきが、少しずつ変わっていく。
「おい、七回って……」
「たまたまだろ」
「でも、二分の一なら五回くらいのはずじゃ……」
十五回目。十一回当たり。
ホフマンの額に、うっすらと汗が浮かんでいた。
そして、十六回目。
ホフマンが杯を入れ替える手つきが、ほんのわずかに変わった。
杯を伏せる直前、袖口がかすかに揺れる。指が、杯の縁を一瞬だけ持ち上げた。
(右の杯に、金貨がある確率は?)
【0%】
――ゼロ。
それだけじゃない。真ん中も、左も。
【0%】【0%】
三つの杯、全てがゼロだった。
(……なるほどな)
誰かが意志をもって決めてしまった未来は、揺らがない。
金貨は、もうどの杯にも入っていない。袖口の中だ。手品師がよく使う手口だった。俺がどれを選ぼうと、乗り換えようと、絶対に外れる。
「さあ、ラングレー君。選びなさい」
ホフマンが、薄く笑った。
俺は、三つの杯をしばらく眺めた。
そして、杯ではなく、ホフマンの右手を指差した。
「先生の、右の袖口」
教室が、静まり返った。
「……何を言っているのですか?」
「三つの杯のどれかに金貨がある、と先生はおっしゃいました。でも今回は、どの杯にも入っていないように見えます。だから、四つ目の選択肢を選ばせてもらいました」
ホフマンの顔から、血の気が引いていった。
「ば、馬鹿なことを……」
「なら、三つとも開けてみてください」
ホフマンは動かなかった。
前の席の真面目な男子生徒が、おそるおそる立ち上がった。そして、三つの杯を順番に持ち上げた。
空。空。空。
教室中の視線が、ホフマンの右の袖口に集まった。
ちゃりん。
教授が後ずさった拍子に、袖口から一枚の金貨が床に転がり落ちた。
◆
結局、勝負は十五回中十一回の的中で打ち切りになった。
ホフマンは、真っ赤な顔で「本日の講義はここまで!」と叫び、逃げるように教室を出ていった。
膝をついて謝罪する、という約束は、どうやら忘れてしまったらしい。
「……すげえ」
さっき二分の一だと言った男子生徒が、呆然と俺を見ていた。
「なあ、ラングレー。本当に、乗り換えた方が三分の二なのか?」
「ああ。百回でも千回でもやってみればいい。必ずそうなる」
「どうしてだ? 残りは二つしかないのに」
「先生が、どの杯を開けるかを選んでるからだ」
俺は、床に落ちた金貨を拾い上げた。
「先生は、金貨の場所を知っている。だから、絶対に空の杯しか開けない。最初にお前が外れを選んでいたら――三回に二回はそうなる――先生は、残った外れを開けるしかない。つまり、残ったもう一つは必ず当たりになる」
男子生徒は、しばらく考え込んだ。そして、ぱっと顔を上げた。
「……そうか! 開ける杯を選んでるのは先生だから、その選び方に情報が入ってるんだ!」
「そういうことだ」
教室のあちこちから、「なるほど」「本当だ」という声が上がり始めた。
この世界の人間は、確率を女神の気まぐれだと思っている。だが確率は、気まぐれなんかじゃない。そこに誰かの意志が混ざれば、必ず歪む。その歪みを読むことこそが、勝負の本質だ。
「お前、名前は?」
「え? あ、ああ。トビアスだ。トビアス・ミュラー。男爵家の三男で……」
「トビアス。お前、筋がいいな」
トビアスは目を丸くして、それから照れたように頭をかいた。
噂の放蕩伯爵に褒められて、どう反応していいか分からないという顔だった。
◆
昼休み。
中庭のベンチで、ゴードンが持たせてくれた弁当を広げていると、背後から声がかかった。
「相変わらず、目立つことをするな」
振り返ると、見慣れた栗色の髪の青年が立っていた。
ただし、着ているのは審問官の白い制服ではない。この学園の、紺色の制服だった。
「……アレン? なんでお前がここに」
「今日付けで、三年に転入した」
アレンは、無表情のまま俺の隣に腰を下ろした。
「神殿からの命令だ。『監察生』として、ヴィクトル・ラングレーの学園生活を監視せよ、とな」
「監視……」
「先日の神前勝負は、神殿でも大きな騒ぎになった。一介の放蕩貴族が、買収された審問官を出し抜いて、王都最大の裏カジノを潰したんだ。上の連中は、お前をどう扱えばいいのか決めかねている」
アレンは、俺の弁当箱から勝手に卵焼きをつまみ上げた。
「だから、俺が見張る。お前が何者で、何をしようとしているのかをな」
「……それ、俺の卵焼きなんだが」
「監察の一環だ」
鐘は、鳴らなかった。
こいつ、本気で言っている。
俺は、ため息をついて空を見上げた。
ふと、中庭の向こうの回廊に、人影があることに気づいた。
金色の巻き髪を揺らした、華やかな令嬢。その隣に、背の高い黒髪の青年が寄り添っている。
令嬢は、まっすぐに俺を見ていた。扇で口元を隠しているが、その目は笑っていなかった。
ヴィクトルの記憶が、静かに疼く。
セレスティーヌ・ローゼンハイム。侯爵家の令嬢。
――そして、一年前に、大勢の前でヴィクトルとの婚約を破棄した女。
(あの女が、近いうちに俺に何かを仕掛けてくる確率は?)
【94%】
扇の向こうで、セレスティーヌの唇が、ゆっくりと弧を描いた。




