第12話 元婚約者
セレスティーヌ・ローゼンハイムとの婚約が決まったのは、ヴィクトルが十歳の時だった。
ラングレー伯爵家とローゼンハイム侯爵家。
家格の釣り合いと、北の領地同士の付き合い。
どこにでもある、親同士が決めた婚約だ。
子供の頃の二人は、それなりに仲が良かったらしい。
ヴィクトルの記憶の底には、庭園で一緒に花冠を編んだ金髪の少女の姿が、ぼんやりと残っている。
だが、ヴィクトルの両親が相次いで亡くなり、こいつが賭場に入り浸るようになってから、全ては変わった。
一年前。王都のとある夜会で、セレスティーヌは大勢の貴族の前でこう言い放った。
『賭博に狂って家を潰すような方とは、結婚できませんわ』
そして、ヴィクトルの胸元に婚約の指輪を投げつけた。
……正直に言えば、あの時のセレスティーヌは間違っていなかったと思う。
当時のヴィクトルは、誰が見ても救いようのないクズだったのだから。
だが――。
◆
「あら、ヴィクトル様。ごきげんよう」
放課後の回廊で、その声は降ってきた。
金色の巻き髪。宝石のような碧の瞳。手には、孔雀の羽をあしらった扇。
セレスティーヌは、取り巻きの令嬢たちを引き連れて、優雅に微笑んでいた。
その隣には、背の高い黒髪の青年が立っている。
鋭い目つきに、鍛え上げられた体。
腰には、装飾の施された細身の剣を佩いていた。
カイン・ヴェルナー。ヴェルナー侯爵家の嫡男で、学園一の剣の使い手。
そして、セレスティーヌの新しい婚約者だ。
「学園に戻っていらしたのね。てっきり、もう退学なさったものと思っていましたわ」
「ごきげんよう、セレスティーヌ嬢。おかげさまで、まだ籍は残っていたよ」
「まあ。黄金の胃袋で、ずいぶんと稼がれたとか」
セレスティーヌは、扇で口元を隠した。
「審問官様と組んで、商人を罠にはめたのでしょう?
さすがは、賭場育ちの方は手口が違いますわね」
取り巻きたちが、くすくすと笑う。
後ろに控えていたアレンの眉が、ぴくりと動いた。
「俺は、ヴィクトルと組んでなど……」
「アレン。いい」
俺は、片手でアレンを制した。
(この女が、俺を怒らせて何かを言わせようとしている確率は?)
【81%】
だろうな。ここで俺が声を荒らげれば、「やはり品のない男」と言いふらす材料になる。
「噂は、噂だよ。セレスティーヌ嬢」
俺は、穏やかに微笑んでみせた。
セレスティーヌの扇が、ほんの一瞬だけ止まった。思っていた反応と違ったのだろう。
「……相変わらず、口だけは達者ですこと」
カインが、一歩前に出た。
「ラングレー。セレスティーヌに近づくな。
お前のような男が、彼女の視界に入ることすら不愉快だ」
「近づいてきたのは、そっちだと思うが」
カインの目が、すっと鋭くなった。剣の柄に、手がかかる。
「――カイン様」
セレスティーヌが、扇でカインの腕に軽く触れた。
「おやめになって。決闘の作法も知らない方と、廊下で争うなんて」
カインは舌打ちをして、剣から手を離した。
二人は、取り巻きを引き連れて去っていった。
去り際、セレスティーヌは一度だけ振り返った。
「来週の、新学期の舞踏会。ヴィクトル様も、いらっしゃるのでしょう?」
「招待されれば」
「招待状は、わたくしがお送りしておきますわ。――楽しみにしていらして」
碧の瞳が、楽しげに細められた。
◆
「……なぜ言い返さなかった」
二人きりになると、アレンが不機嫌そうに言った。
「俺の名誉まで傷つけられたんだぞ」
「言い返したら、あの女の思うつぼだ」
俺は、回廊の窓から外を見下ろした。
中庭の向こうに、剣術の訓練場がある。
さっきの二人が、そこに向かっていくのが見えた。
「それに、気になることがある」
「気になること?」
「あの女、俺を挑発するためだけにわざわざ声をかけてきた。
舞踏会の招待状まで自分で送ると言った。
……何かを、仕掛けるつもりだ」
訓練場では、カインが剣の稽古を始めていた。
取り巻きたちが歓声を上げる中、カインは腰の短剣を抜いた。
訓練場の端では、従者が一人、林檎を一つ頭の上に乗せて立っている。
距離は、二十歩以上。
カインは、林檎を見もしなかった。
背を向けたまま、セレスティーヌと何か言葉を交わしている。
(カインの短剣が、あの林檎に当たる確率は?)
【18%】
当然だ。見てもいない的に、二十歩先から当たるはずがない。
だが次の瞬間、カインの唇がかすかに動いた。何かを呟いたように見えた。
その途端、数字が跳ね上がった。
【18% → 100%】
カインは、振り向きもせずに短剣を後ろへ放った。
短剣は、まるで糸で引かれるように宙を滑り――林檎のど真ん中を、正確に貫いた。
訓練場が、歓声に包まれた。
「……あれが、カイン・ヴェルナーの加護だ」
アレンが、低い声で言った。
「『必中』。狙った一撃が、必ず当たる。
どれだけ距離があろうと、見ていなかろうと関係ない。
あいつは、この学園の剣術大会で三年連続優勝している。
一度も、攻撃を外したことがないそうだ」
「必ず当たる、か」
俺は、窓枠に肘をついた。
さっき、数字が百に跳ね上がったのは、短剣を投げた瞬間じゃない。
カインが何かを呟いた瞬間――おそらく、狙いを「決めた」瞬間だ。
ゴードンのコインと同じだ。
誰かが意志をもって結果を決めた時、未来は百で固定される。
(……覚えておこう)
◆
その夜。
俺は、かつての黄金の胃袋――今は『天秤亭』と名前を変えた賭場を訪れた。
ドルマンから取り上げたこの店を、俺は「公正な賭場」として作り直した。
細工のある台は全て撤去し、ディーラーには新しい誓約をさせた。
客が勝つこともあれば、負けることもある。
それが、当たり前の賭場だ。
驚いたことに、客足はむしろ増えていた。
「あの店なら、イカサマはない」という評判が、王都中に広まったらしい。
「いらっしゃいませ、オーナー」
ブラックジャックの台で、ノエルが無表情に言った。
彼女は今、この店のディーラー長を務めている。契約ではなく、自分の意志で。
「その呼び方は、やめてくれと言っただろう」
「では、伯爵様」
「……もっと嫌だ」
「なら、ヴィクトル」
ノエルは、カードを配る手を止めずに言った。
不意に名前を呼ばれて、俺は一瞬言葉に詰まった。
「……ああ。それでいい」
ノエルの唇の端が、ほんのわずかに上がった気がした。
(ノエルが、今笑った確率は?)
【??】
……過去のことなのに、この眼に聞いてどうする。
しばらく、俺はノエルの台の端に座って、彼女の仕事ぶりを眺めていた。
客の一人は、まだ若い商家の手代のようだった。給金を握りしめてやってきたのだろう。最初は小さく賭けていたが、負けが込むにつれて、張る額がどんどん大きくなっていく。
典型的な、負けを取り返そうとして泥沼にはまる客だ。前世でも、何百人と見てきた。
ノエルは、カードを配る手を止めずに、静かに言った。
「お客様。今夜は、このあたりでおやめになった方がよろしいかと」
手代が、はっと顔を上げた。
「カードの流れが悪い夜は、誰にでもあります。また、別の夜にいらしてください。……今夜の負けは、今夜のうちに忘れた方がいいわ」
手代はしばらく迷っていたが、やがて残ったチップを握りしめて、ぺこりと頭を下げて帰っていった。
「……今のは、お前の考えか?」
「ええ。負けが込んだお客様には、ディーラーから声をかける。新しい天秤亭の決まりにしたの」
ノエルは、次の客にカードを配りながら言った。
「黄金の胃袋は、お客様が全部なくすまで搾り取る店だった。私は、それを毎晩、一番近くで見てきたから」
「店の儲けは減るぞ」
「その代わり、お客様はまた来てくれる。全部なくした人は、二度と来ないもの」
――ああ、そうか。
客足が増えた理由は、イカサマがないからだけじゃなかったのか。
「……いいディーラーだな、お前は」
ノエルは何も答えなかった。ただ、カードを配るその手つきが、ほんの少しだけ、いつもより丁寧になった気がした。
◆
「伯爵様、大変だ!」
店の奥の事務室で帳簿を見ていると、ラットが飛び込んできた。
「ヴェルナー家が、ラングレー領の北の丘陵の周りの土地を、片っ端から買い漁ってる!」
「北の丘陵?」
「ああ。岩だらけで、作物も育たねえ荒れ地だろ?
なのに、ここ一ヶ月で周りの村の土地を、相場の三倍で買ってるんだ」
ゴードンが、静かに口を開いた。
「坊ちゃま。
北の丘陵は、先々代の頃に一度、鉱山の調査が行われたことがございます。
その時は何も出なかったと聞いておりますが……」
「それがさ」
ラットが、にやりと笑った。
「ヴェルナー家に雇われた測量士が、酒場で酔っ払って口を滑らせたんだ。
『あの丘の下には、魔石の鉱脈が眠ってる。
王国で一番でかい鉱脈だ』ってな」
魔石。
この世界の照明や魔道具の動力源になる、貴重な鉱石だ。
大きな鉱脈が一つあれば、それだけで侯爵家が三つは買える。
「周りの土地は、もう買い占めた。残ってるのは――」
「丘陵そのもの。つまり、ラングレー家の土地だけか」
ラットが頷いた。
俺は、帳簿を閉じた。
セレスティーヌの挑発。カインの必中。わざわざ送ると言った、舞踏会の招待状。
点と点が、線で繋がっていく。
(ヴェルナー家が、ラングレー家の丘陵を奪いに来る確率は?)
【97%】
「……来週の舞踏会か」
その時、事務室の扉が控えめに叩かれた。
店の給仕が、一通の封筒を差し出す。
薔薇の香りがする、上質な紙。
封蝋には、ローゼンハイム侯爵家の紋章。
舞踏会の招待状だった。
封を切ると、流麗な筆跡でこう書かれていた。
『ヴィクトル・ラングレー様。新学期の舞踏会にて、あなた様に、ぜひともお伝えしたいことがございます。――あなたの元婚約者、セレスティーヌ』




