第6話 完敗
屋敷を出る前、玄関ホールでリリアが待っていた。
「お兄さま、これ」
小さな手のひらに載っていたのは、色褪せたリボンを編んで作った、不格好な腕輪だった。
「お守り。お母さまのリボンで作ったの。お兄さまが、勝てますようにって」
俺は膝をつき、リリアに腕輪を結んでもらった。
「ありがとう。大事にする」
「今日も、勝ってくる?」
(俺が、今夜勝って帰ってくる確率は?)
問いを立てても、数字は砂嵐のようにざらついて消えた。
自分の選択が絡むことは、この眼には見えない。
「……今夜は、少し負けてくるかもしれない」
「えっ」
「でも、大丈夫だ。最後には、ちゃんと勝つ」
リリアは、きょとんとした顔で首を傾げた。
その後ろで、ゴードンが静かに頭を下げた。
「ゴードン。今夜、俺がどんな顔で帰ってきても、驚かないでくれ」
「承知いたしました、坊ちゃま」
老執事は、何も聞かなかった。
◆
「ラット。今夜、一つ頼みがある」
黄金の胃袋へ向かう馬車の中で、俺は向かいに座る少年に言った。
「俺が上の部屋に入ったら、お前は店の外に出て、裏の従業員口を見張っていてくれ」
「見張って、どうすんだよ」
「勝負が終わった後、あそこから従業員が何人か出てくるはずだ。
その中で――一番最後に出てきた奴を、尾けろ」
ラットは、怪訝そうに眉を寄せた。
「なんで一番最後なんだ?」
「一番最後まで残って仕事をしてる奴が、一番大事な仕事をしてるもんだ」
「……よく分かんねえけど、分かった」
ラットは頷き、窓の外に目をやった。
「なあ。あんた、勝てんのか? ドルマンの卓で」
俺は、答えなかった。
◆
黄金の胃袋の最上階。
重厚な扉の向こうは、まるで王宮の一室のようだった。
深紅の絨毯。金の燭台。
天井には、一階のものよりさらに豪奢なシャンデリアが吊るされている。
部屋の中央に、緑の羅紗を張った楕円形のテーブルが一つ。
そして、何より目を引くのは――壁一面の、巨大な鏡だった。
金の額縁に縁取られた、床から天井までの姿見。
部屋の明かりを照り返して、空間を倍の広さに見せている。
「ようこそ、伯爵様」
テーブルの奥で、ドルマンが両手を広げた。
今夜も十本の指に金の指輪を光らせ、左耳には巻き貝の飾りが揺れている。
「どうぞ、そちらへ」
案内された席は、鏡を背にする位置だった。
ドルマンは、俺と鏡の両方を正面に見る位置に座っている。
……あの部屋の鏡は、よく磨かれているわ。
ノエルの言葉が、頭の奥でよみがえった。
「勝負は、ホールデムでよろしいかな?」
「ああ」
ディーラーは、ドルマンの店の男だった。
ノエルではない。
部屋の隅には、ワインの瓶を抱えたウェイターが一人控えている。
俺は、五千二百枚分のチップを卓に積み上げた。
部屋に満ちる数字が、一階よりもはっきりと、赤く染まって見えた。
◆
最初の一時間は、悪くなかった。
勝ったり負けたりを繰り返しながら、俺はドルマンの打ち方を観察した。
強い手では大きく張り、弱い手ではすぐに降りる。
教科書通りの、隙のない打ち方だ。
いや――隙が、なさすぎる。
(ドルマンが、この手をコールしてくる確率は?)
【94%】
俺が強い手を持っている時に限って、ドルマンはあっさり降りる。
弱い手の時に限って、迷わず勝負してくる。
まるで、俺の手札が見えているかのように。
ドルマンは、大きな決断をする前に、必ず左耳の飾りに指を触れた。癖なのだろう。
俺は、カードの持ち方を変えてみた。
テーブルに伏せたまま、端だけをめくって覗く。
次のハンドでは、胸の前まで持ち上げて、少し左に傾ける。
その次は、右に傾ける。
「伯爵様、落ち着きがありませんな」
ドルマンが、喉の奥で笑った。
「いや、どうも手札がしっくり来なくてね」
俺は、背後の鏡を振り返った。襟元が少し曲がっている気がして、指で直す。
「失礼。身だしなみには、気をつけろと言われたもので」
「ほう。誰にですかな」
「さあ、誰だったかな」
俺は、ウェイターに空のグラスを掲げてみせた。
「ワインをもう一杯もらえるか」
◆
――ドルマンは、心の中でほくそ笑んでいた。
(小僧め。完全に呑まれておるわ)
カードを何度も持ち直し、鏡で襟を気にし、ワインをがぶ飲みする。
数日前、ルッツを降ろした時の不気味な冷静さは、見る影もない。
所詮は、運が向いていただけの放蕩貴族か。
ドルマンは、左耳の巻き貝に指を添えた。
耳の奥で、かすかな囁き声がする。
『……ハートの八と、クラブの三。ゴミ手です、旦那』
鏡の向こう側から、自分の部下が見ているのだ。
この部屋の鏡は、裏から覗けば素通しのガラスになる。
伯爵の手札は、隠し部屋からは丸見えだった。
そして囁き貝。
一対の貝殻の片方に語りかければ、もう片方の持ち主の耳にだけ声が届く。
百年前の遺跡から掘り出された魔道具を、ドルマンは大金を払って手に入れていた。
(女神の加護に、魔道具。この卓で、わしが負けることはない)
「レイズ」
ドルマンは、余裕たっぷりにチップを積み上げた。
◆
一時間半が過ぎた頃、その手が来た。
俺の手札は、ハートのクイーンとハートのジャック。
場に開かれた三枚は、ハートの十、スペードの十、クラブの四。
(このハンドで、俺が勝つ確率は?)
【58%】
悪くない。
十のペアに、ストレートとフラッシュの両方の芽がある。
加護に削られてなお、六割近い。
俺はカードを胸の前に持ち上げ、鏡の方へわずかに傾けた。
「レイズ。三百枚」
ドルマンが、左耳に指を添えた。
(ドルマンが、ここで降りる確率は?)
【12% → 81%】
数字が跳ねた。耳に触れた、その直後に。
ドルマンは、あっさりとカードを投げた。
「降りましょう。伯爵様の手は、どうも良さそうだ」
俺は、場の小さなチップを引き寄せた。
次のハンド。
今度は、手札をテーブルに伏せたまま、端だけをめくって覗いた。
スペードの二とダイヤの八。ゴミ手だ。
「レイズ。三百枚」
ドルマンは、また左耳に指を添えた。
(ドルマンが、ここで降りる確率は?)
【34% → 35%】
――動かない。
ドルマンは、しばらく迷うように俺の顔とチップを見比べ、それから降りた。
俺の手を読み切れていない、普通の迷い方だった。
その次のハンドも、カードを伏せたまま覗いた。数字は、ほとんど動かなかった。
そしてまた、カードを胸の高さに持ち上げた。
数字は、跳ねた。
「伯爵様。カードの持ち方を、ずいぶんお変えになりますな」
「験担ぎだよ。勝てる持ち方を探してるんだ」
鐘の鳴らない部屋で、俺は肩をすくめてみせた。
二時間が過ぎた。
俺のチップは、五千二百枚から二千二百枚まで減っていた。
勝てない。
何をしても、読まれている。
強い手で勝負に出れば降りられ、ハッタリを仕掛ければ必ずコールされる。
「どうなさいました、伯爵様。顔色が優れませんな」
「……少し、酔ったかな」
ウェイターが、三杯目のワインを注ぎに近づいてくる。
(このウェイターが、ワインを注ぐ時に俺の袖に触れる確率は?)
【64%】
俺は、黙ってグラスを差し出した。
ウェイターは恭しく一礼し、ワインを注いだ。
その時、彼の手がほんの一瞬、俺の左の袖口をかすめた。
次のハンド。
俺は、チップを取ろうとして左手を伸ばした。
その瞬間、袖口から、一枚のカードがはらりと滑り落ちた。
スペードのエース。
テーブルの上に、表向きで。
「――イカサマだッ!」
ドルマンが、巨体に似合わぬ速さで立ち上がった。
「伯爵様、これはどういうことですかな! 袖の中にエースを隠すとは!」
部屋の扉が開き、用心棒たちがなだれ込んでくる。あっという間に、両腕を掴まれた。
「待て」
静かな、だがよく通る声が響いた。
用心棒たちの後ろから、栗色の髪の青年が姿を現した。
アレン・クロウフォード。
銀の徽章を掲げ、彼はまっすぐにテーブルへ歩み寄ってきた。
「女神神殿、第七審問官だ。この場で何があった」
「これはこれは、審問官殿」
ドルマンは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに愛想のいい笑みを貼りつけた。
「ご覧の通りです。この男が、袖にカードを隠しておりましてな」
アレンは、俺を見た。
「ヴィクトル・ラングレー。お前は、イカサマをしたのか」
「俺はイカサマをしていない」
俺は、まっすぐにアレンの目を見て答えた。
鐘は、鳴らなかった。
アレンの青い瞳が、わずかに揺れた。
そして彼は、ワインの瓶を抱えたウェイターの方を振り返った。
「お前が、そのカードを仕込んだのか?」
ウェイターは、口を引き結んだまま答えなかった。
「審問官殿」
ドルマンが、二人の間に割って入った。
「うちの従業員に、お答えする義務はございません。
そしてここは、神前勝負の場でもない。
店の中の揉め事は、店の掟で裁かせていただくのが筋でしょう」
「鐘は鳴らなかった」
「鐘が、何を保証してくださるのです?」
ドルマンは、テーブルの上のスペードのエースを、太い指でとんと叩いた。
「証拠は、ここにある」
アレンは、唇を噛んだ。
神前勝負の場でなければ、審問官の鐘はただの「参考」に過ぎない。
ここで物を言うのは、目に見える証拠だ。
「伯爵様。当店の掟では、イカサマの罰金は金貨二万枚と決まっております」
ドルマンは、懐から一枚の書類を取り出した。
「借金に上乗せさせていただきます。こちらに、ご署名を」
用心棒たちの腕に力がこもる。
俺は、差し出されたペンを取った。
そして、署名した。
◆
黄金の胃袋の外に放り出された時、夜風が妙に冷たく感じられた。
俺は負けた。
完膚なきまでに。
五千二百枚あったチップは、二千二百枚。借金は、十万枚から十二万枚に膨れ上がった。
イカサマ師に勝つと誓ったその店で、イカサマ師の汚名を着せられて。
「……なぜ、反論しなかった」
背後から、アレンの声がした。
「お前は、イカサマをしていなかった。
鐘がそう言っていた。なのに、なぜ黙って署名した」
「反論したら、勝てたか?」
アレンは、答えなかった。答えられなかったのだろう。
俺は、夜空を見上げた。
「なあ、審問官殿。一つ聞きたい」
「……何だ」
「神前勝負の場なら、お前の鐘は――神の声になるんだろう?」
アレンが、眉をひそめた。
「何が言いたい」
「いずれ分かる」
俺は外套の襟を立て、屋敷へと歩き出した。
店の裏手の方角で、小さな影が一つ、闇の中へ駆けていくのが見えた。
◆
――その頃。黄金の胃袋の最上階。
客のいなくなった特別室で、ドルマンはワインを傾けていた。
左耳の巻き貝から、部下の声が響く。
『旦那。あの小僧、最後まで何も気づいてませんでしたぜ』
「当然だ」
ドルマンは、満足げに腹をさすった。
「あの小僧には、あと二十日ほど泳いでもらう。どうせ、最後には全て頂くのだからな」
『へい。……それと旦那、例の競売の件ですが』
「ああ、目録はできている」
ドルマンは、机の上の羊皮紙の束を手に取った。一番上に記された名前を、指でなぞる。
「今回の目玉は――あの銀髪のディーラーだ」
ドルマンは、ねっとりと笑った。
「あの小僧、ずいぶんとノエルを気にしていたようだからな。
目の前で売られていくのを見せてやれば、さぞかし良い見世物になるだろう」




