第5話 数字の読めないディーラー
「支配人の卓に座るには、見せ金が五千枚いる」
翌日の昼。屋敷の書斎で、ラットが報告してくれた。
「黄金の胃袋の最上階に、特別室があるんだ。
ドルマンが自分で相手をする卓で、でかい勝負はみんなそこで決まる。
けど、五千枚の金貨を見せなきゃ、階段も上らせてもらえねえ」
「手持ちは千六百枚。あと三千四百枚か」
「下町の賭場じゃ無理だぜ。ガルドの一件で、あんたの顔はもう知れ渡ってる」
「なら、本丸で稼ぐさ」
ラットが、ぎょっとした顔をした。
「黄金の胃袋でか!? あそこは客が勝てねえようにできてんだぞ!」
「知ってる。だから確かめに行くんだ」
◆
その夜、俺はラットを従者として連れ、再び黄金の胃袋の扉をくぐった。
煌びやかな照明。むせかえるような香水と酒の匂い。数日前と何も変わらない光景。
だが、今の俺には、もう一つの景色が見えていた。
適当なルーレット台に、問いを立ててみる。
(次の一回で、赤に賭けた客が勝つ確率は?)
【42%】
……おかしい。
ルーレットの盤には、赤と黒が十八ずつ、そして店の取り分となる緑のゼロがある。
赤が出る確率は、三十七分の十八。
約四十九パーセントのはずだ。
別の台でも試す。
サイコロ、カードの数当て、ブラックジャック。
どこを見ても、俺が頭の中で計算した確率より、表示される数字の方がきっちり五パーセント前後低い。
数字が、店の側に傾いている。
台の細工じゃない。全部の台が、同じように歪んでいるのだから。
(店そのものに、何かがかかっている)
思い出すのは、ゴードンの言葉だ。
この世界には、女神から授かった「加護」を持つ人間がいる。
ドルマンの加護か。
この店の中では、あらゆる確率が胴元に有利になる――そういう力だとしたら。
(……まともにやれば、絶対に勝てない店ってわけだ)
だが、絶対に勝てないわけじゃない。
五パーセントの不利なら、それを上回る有利を作ればいい。
俺は、ブラックジャックの台へ向かった。
銀髪のディーラーが、静かにカードを配っている台へ。
◆
「いらっしゃいませ」
ノエルは、俺の顔を見ても表情一つ変えなかった。
「数字の書かれたチップを、こちらへ。ミニマムは金貨十枚です」
ブラックジャックは、配られたカードの合計を二十一に近づける勝負だ。
ディーラーより二十一に近ければ勝ち。
超えてしまえば負け。
そして、前世の俺がプロとして最も得意にしていたゲームの一つでもある。
理由は、単純だ。
ブラックジャックは、カードを数えられる。
使われたカードを記憶し、デッキの残りに絵札や十が多いか少ないかを把握する。
残りに大きなカードが多ければ、プレイヤーが有利になる。
そこで大きく張り、不利な時は小さく張る。
いわゆる、カード・カウンティングだ。
イカサマではない。ただの記憶と計算だ。
そして今の俺には、それを補う眼がある。
(次の一枚が、十点の札である確率は?)
【29%】
(次のハンドで、俺が勝つ確率は?)
【41%】
今は不利だ。俺は最低額の十枚だけを張った。
一ハンド、二ハンド。
勝ったり負けたりしながら、出ていくカードを一枚残らず頭に刻んでいく。
小さなカードが立て続けに出た。
残りのデッキに、十と絵札が溜まっていく。
【次の一枚が、十点の札である確率:29% → 37%】
【次のハンドで俺が勝つ確率:41% → 53%】
店の加護で五パーセント削られて、なお五十三パーセント。
――ここだ。
俺は、張る額を一気に二百枚に引き上げた。
配られたのは、エースとキング。ブラックジャックだ。
「ブラックジャック。お客様の勝ちです」
ノエルが淡々と告げ、配当の三百枚をこちらへ滑らせる。
次のハンドも、数字は五十パーセントを超えていた。俺は三百枚を張った。
配られたのは、十と六。合計十六。ノエルの表向きのカードは、十だった。
ブラックジャックで最も嫌われる形だ。
もう一枚引けば、二十一を超えてしまう危険が高い。
引かなければ、ディーラーの十七以上にまず勝てない。
どちらを選んでも分が悪い。
教科書通りなら、「引く」が正解とされている。
だが、今の俺には教科書以上のものが見える。
(次の一枚が、五以下の札である確率は?)
【22%】
小さな札は、もうほとんど出尽くしている。引けば、八割近くの確率でバーストする。
では、引かずに止まったら?
ノエルの伏せ札が何なのか、この眼で直接読むことはできない。
だが、これから起きることなら問える。
(ディーラーが、このハンドでバーストする確率は?)
【38%】
伏せ札が小さければ、ディーラーはもう一枚引かなければならない。
そしてデッキには、大きな札ばかりが残っている。
引けば七十八パーセントで死ぬ。引かなければ、三十八パーセントで生き残る。
「……スタンド」
俺は、カードの上で手を水平に振った。
周囲の客が、呆れたように笑う。十六で止まるなど、素人のやることだと。
ノエルが、伏せ札をめくった。四。合計十四。
ディーラーは、十七に届くまで引かなければならない。
ノエルの指が、次のカードをめくる。
キング。合計二十四。
「ディーラー、バースト。お客様の勝ちです」
笑っていた客たちが、黙り込んだ。
ノエルは配当を滑らせながら、ほんの一瞬だけ俺の顔を見た。
「……教科書通りじゃないのね」
「教科書は、全員に同じことを教える。だから、全員が同じところで負ける」
ノエルは何も答えなかった。
だが、カードを集めるその指先が、ほんの少しだけ、楽しそうに見えた。
その後も、俺は同じことを繰り返した。
不利な時は十枚。有利な時は、二百枚、三百枚。
張る額の幅を見れば、分かる人間にはカウンティングだと一目で分かる。
案の定、台の後ろで腕を組んでいた現場監督の男が、眉をひそめた。
そしてノエルに向かって、小さく顎をしゃくる。
――シャッフルしろ、という合図だ。
カウンターに気づいた店は、デッキを混ぜ直してカウントをリセットさせる。
それが、カジノの常套手段だ。
ノエルの手が、一瞬止まった。
(ノエルが、今ここでデッキを混ぜ直す確率は?)
【??】
また、あの疑問符だ。
ノエルは、ちらりと監督の方を見た。
そして、何事もなかったかのように、次のカードを配り始めた。
「……まだ、カットカードが出ていませんので」
監督が顔をしかめる。
だが、ディーラーの手順に間違いはない。
シャッフルは、デッキの途中に差し込まれた区切りの札が出た時に行う決まりだ。
俺は思わず、ノエルの横顔を見つめた。
彼女は、俺の方を見なかった。灰色の瞳は、ただ手元のカードだけを映している。
【次のハンドで俺が勝つ確率:58%】
俺は、五百枚を張った。
◆
カットカードが出る頃には、俺の前の金貨は五千二百枚に膨れ上がっていた。
周囲に、いつの間にか人だかりができている。
「おい、あれ、ラングレー伯爵だろ」
「最近、妙に勝ってるって噂の……」
「ガルドの賭場を潰したのも、あいつだって話だぜ」
俺の隣の席には、いつの間にか、一人の青年が座っていた。
栗色の髪に、まっすぐな青い瞳。
地味な平民の服を着ているが、背筋の伸び方がやけに綺麗だ。
彼は小さく賭けては負け、また小さく賭けては負けている。
だが、その目はカードではなく――ずっと、俺の手元を見ていた。
(店の回し者か?)
そう思った時だった。
「おい、そこのガキ」
店の用心棒が、俺の後ろに立つラットに声をかけた。
「ここは子供の来るところじゃねえ。何者だ」
「お、俺は、伯爵様の弟だ!」
ラットが、とっさに胸を張った。
――りぃん。
澄んだ鐘の音が、どこからともなく響いた。
ガラスの鈴を、金のばちで叩いたような音。
賭場の喧騒の中でも、不思議なほどくっきりと耳に届く。
ラットが、びくりと肩を跳ねさせた。
用心棒も、周囲の客も、きょろきょろと辺りを見回している。
「子供が、嘘をつくものではない」
隣の青年が、カードに目を落としたまま静かに言った。
「……その子は、俺の従者だ」
俺は用心棒に言った。今度は、鐘は鳴らなかった。
用心棒は首を傾げながらも、引き下がっていった。
◆
最後のハンドを終え、チップをまとめ始めた時だった。
ノエルが、デッキを片付ける手を止めずに、小さな声で言った。
「支配人が、伯爵様を明日の夜、上の部屋にお招きしたいそうです」
――来た。
五千枚の見せ金を作ったその日に、向こうから招待状が来た。
ガルドの件で、ドルマンは俺に目をつけている。
好都合だ。
「分かった。伺うと伝えてくれ」
ノエルは小さく頷いた。
そして、使い終わったカードを揃えながら、ほとんど聞き取れないほどの声で付け加えた。
「……あの部屋の鏡は、よく磨かれているわ。身だしなみには、気をつけて」
俺は、思わず顔を上げた。
ノエルは、もう次の客にカードを配り始めていた。
(ノエルが、俺に何かを伝えようとしている確率は?)
【??】
――本当に、何者なんだ、あんたは。
◆
換金を済ませ、店の外に出たところで、背後から足音がついてきた。
さっきの栗色の髪の青年だ。
「少し、話がある。ヴィクトル・ラングレー」
人気のない路地に入ったところで、青年は足を止めた。
「お前は、この一週間で急に勝ち始めた。
ルッツを降ろし、ガルドの賭場で千六百枚を巻き上げ、今夜はこの店で五千枚。
……一ヶ月前まで、負け続けていた男がだ」
「よく調べてるな」
「お前は、ドルマンの手先か?」
まっすぐな問いだった。
「違う。俺はドルマンの手先じゃない」
鐘は、鳴らない。
青年の眉が、わずかに動いた。
「では、何をしている。イカサマか?」
「イカサマはしていない。カードを数えている。それと、少しばかり目がいい」
鐘は、鳴らない。
「……何者だ、お前は」
「借金取りに追われてる、ただの放蕩貴族さ」
――りん。
小さく、控えめに、鐘が鳴った。
青年が、目を細める。
「『ただの』が、嘘らしいな」
俺は、思わず吹き出した。
なるほど。
この男の前では、言葉の一つ一つが試される。
厄介な力だ。
だが――使いようによっては、これほど頼もしい力もない。
「そっちこそ、何者だ。その鐘、ただの平民の持ち物じゃないだろう」
青年は少し迷った後、外套の内側から、小さな銀の徽章を取り出した。
鐘と天秤を組み合わせた紋章。女神フォルトゥナの神殿の印だ。
「女神神殿、第七審問官。アレン・クロウフォード」
その名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
アレン。
『ロイヤル・ベット・クロニクル』の主人公。
三十日後――いや、あと二十五日後。
この店に踏み込み、全ての罪を背負わされたヴィクトル・ラングレーに、手錠をかける男。
「この店には、俺が用がある。そしてヴィクトル・ラングレー、お前もその一部だ」
アレンは、徽章をしまいながら言った。
「お前が何をしようとしているのかは知らない。
だが、もし法を犯せば、その時は俺がお前を捕らえる」
「ああ、覚えておくよ」
俺は、少し考えてから付け加えた。
「なあ、審問官殿。明日の夜、もし暇なら――この店の最上階を覗いてみるといい」
「……何がある?」
「さあな。面白いものが見られる、かもしれない」
鐘は、鳴らなかった。
アレンは、まっすぐな青い瞳で、じっと俺を見つめていた。




