第4話 イカサマ師の賽は、イカサマ師を裏切る
王都の下町は、昼間から酒と汗の匂いがした。
石畳はひび割れ、軒先には洗濯物と怪しげな看板がひしめき合っている。
俺は目立たないよう、ゴードンが用意してくれた古い外套を羽織っていた。
路地の入り口で、ふと問いを立ててみる。
(ここを歩いて、財布をすられる確率は?)
【87%】
……治安が悪いにもほどがある。
だが、悪くない数字だ。
俺は少し考えてから、懐から財布を取り出した。
中身の金貨を抜いて別の隠しポケットに移し、代わりに銅貨を数枚と、折りたたんだ紙切れを一枚入れる。
そして、財布を外套の一番取りやすい場所にしまい直した。
路地を三本ほど抜けたところで、小さな影が俺の脇をすり抜けていった。
ぶつかった感触すらない。見事な腕前だ。
懐を確かめる。財布は、きれいに消えていた。
(さて、来てくれるかな)
◆
目的の賭場は、下町の奥、潰れた酒蔵を改装した建物の地下にあった。
『片目のガルド』の賭場。下町で一番大きな賭場で、黄金の胃袋の傘下にあると噂されている。
薄暗い地下室には、むっとするような熱気が立ち込めていた。
木の椀の周りに男たちが群がり、サイコロが転がるたびに歓声と怒号が上がる。
遊ばれているのは『三賽』という博打だった。
親が三つのサイコロを椀に振り、出た目で勝負を決める。
子は親の目に対して金を張る。
ルールは単純だが、特別な目がいくつかある。
四・五・六が揃えば『シゴロ』。親の総取りで、子は張った額の倍を払う。
一・二・三が揃えば『ヒフミ』。親の負けで、親が子に倍を払う。
「さあ張った張った! 親はこの俺、ガルド様だ!」
椀の前で吠えているのは、左目に黒い眼帯をした大男だった。
こいつが、片目のガルドか。
俺は人だかりの後ろから、しばらく勝負を眺めた。
(ガルドが、次にシゴロを出す確率は?)
【3%】
まともなサイコロなら、四・五・六が揃う確率はそんなものだ。
ガルドは小さな勝負では、勝ったり負けたりを繰り返していた。
だが、ある時。羽振りのいい商人風の男が、金貨五十枚を張った。
ガルドは「おう、豪気だねえ」と笑いながら、椀を布で一拭きした。
その瞬間、数字が跳ね上がった。
【3% → 83%】
結果は、四・五・六。シゴロだ。商人は張った額の倍、金貨百枚を失って青ざめた。
(……なるほど)
布で椀を拭く、その一瞬。サイコロをすり替えている。
おそらく、四・五・六が出やすいように重心をいじった細工物だ。
大きな勝負の時だけ、イカサマの賽を使う。
小さな勝負では、まともな賽で負けてみせる。
客は「今日はたまたま運が悪かった」と思って帰っていく。
「……あんた、見えてんのか」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、薄汚れた服を着た少年が立っていた。
歳は十四、五だろうか。
痩せっぽちで、目つきだけがやけに鋭い。
その手には、俺の財布と、広げられた紙切れが握られていた。
紙切れには、こう書いてある。
『中身が欲しけりゃ、片目のガルドの賭場まで返しに来い。もっといい仕事をやる。――ヴィクトル』
「すられるのを分かってて、財布に手紙を入れとく馬鹿がどこにいるんだよ」
「ここにいるな」
「……変な貴族」
少年は、ふてくされたように財布を突き出した。
「俺はラット。で、いい仕事ってなんだよ」
「情報屋だ。下町と、黄金の胃袋のことを調べてほしい。報酬は一日に金貨一枚」
「い、一枚!?」
ラットの目が見開かれた。下町の子供にとっては、ひと月は食いつなげる額だ。
「その代わり、手始めに一つ教えてくれ。ガルドのイカサマ、知ってるか?」
ラットは周囲を窺い、声を潜めた。
「……みんな薄々気づいてるよ。
でかい勝負になると、ガルドは絶対にシゴロを出す。
でも、誰も証拠を掴めねえ。
あいつの手は、目で追えねえんだ」
「十分だ」
◆
俺は、人だかりをかき分けて椀の前に進み出た。
「親分。一勝負、いいかな」
「おう、見ねえ顔だな。張りな」
卓に出した元手は、金貨三十枚。
残りの七十枚は、隠しポケットに入れたままにしておく。
俺はまず、金貨を五枚だけ張った。
【ガルドがシゴロを出す確率:3%】
小さな勝負だ。
ガルドはまともな賽で振り、普通の目が出て、俺が勝った。
次も、その次も、小さく張る。
勝ったり負けたりを繰り返しながら、俺は少しずつ張る額を増やしていった。
十枚。二十枚。そして、四十枚。
ガルドは布で椀を拭った。
【83%】
――来た。
結果はシゴロ。俺は四十枚の倍、八十枚を払わされた。
小さな勝ちで九十枚まで増やしていた卓上の金貨は、たった一振りで十枚に減った。
「へっへっへ、残念だったな、兄ちゃん」
ガルドが、下卑た笑みを浮かべる。
周囲の客も、俺を哀れむように見ていた。また一人、カモが溶けたと。
「ああ、残念だ」
俺は、肩をすくめた。
「なあ、親分。次で取り返したい。張りを十倍にしてくれないか」
「……十倍だぁ?」
「ああ。
シゴロが出たら、俺は張った額の十倍の倍を払う。
ヒフミが出たら、親分が十倍の倍を払う」
賭場が、ざわめいた。
十倍張り。この賭場でも滅多に見ない大勝負だ。
「兄ちゃん、手持ちはいくらだ」
「これだけだ」
俺は、卓に残った金貨十枚と、隠しポケットの七十枚を合わせて、八十枚を椀の前に置いた。
「八十枚の十倍の倍……千六百枚だぞ。払えんのか」
「払えなかったら、これを渡す」
俺は、指から母の形見の指輪を外し、金貨の山の上に置いた。
サファイアが、薄暗い明かりの中で静かに光る。
「……ほう」
ガルドの片目が、ぎらりと光った。商売人の目だ。
この指輪が、本物の貴族の持ち物であることを見抜いている。
「おい、兄ちゃん、やめとけって!」
ラットが、俺の袖を引っ張った。
「でかい勝負になったら、あいつは絶対に――」
「知ってる」
俺は、ラットにだけ聞こえる声で言った。
「だから、張るんだ」
◆
「いいだろう、受けてやる!」
ガルドが吠えた。賭場中の客が、椀の周りに群がってくる。
ガルドは、いつものように布で椀を一拭きした。
【ガルドがシゴロを出す確率:83%】
予想通りだ。すり替えた。
ここで、普通ならこう考えるだろう。
――入れ替えるなら、ガルドの勝つ確率と、俺の勝つ確率だ、と。
だが、三賽は親が振った目で決まる。
俺が振るわけじゃない。親がシゴロを出せば親の勝ち。
ヒフミを出せば、親の負け。
勝負の行方は、全てガルドの手の中にある。
なら――。
俺は、椀を構えるガルドの手元に、二つ目の問いを立てた。
(ガルドがヒフミを出す確率は?)
【2%】
重心をいじられた賽だ。四・五・六が出やすく、一・二・三は出にくくなっている。
二つの数字が、ガルドの手元に並んで浮かんでいる。
【シゴロ:83%】
【ヒフミ:2%】
俺は、静かに息を吸った。
自分の確率と、相手の確率を入れ替えるんじゃない。
相手の確率と、相手の確率を入れ替える。
(入れ替われ)
頭の奥が、軋む。
二つの数字がスロットのリールのように猛烈に回転し、ガラスの砕ける音が、俺の頭の中にだけ響き渡った。
【シゴロ:2%】
【ヒフミ:83%】
「そらよっ!」
ガルドが、椀の中にサイコロを叩きつけた。
からん、からからから――。
三つの賽が、椀の中を狂ったように跳ね回る。賭場中の視線が、その一点に注がれた。
やがて、賽が止まる。
一。
二。
三。
――ヒフミ。
「…………は?」
ガルドの口が、ぽかんと開いた。
一瞬の静寂の後、賭場が割れんばかりの歓声に包まれた。
「ヒ、ヒフミだぁ!」
「十倍張りで、親がヒフミ!?」
「千六百枚だぞ! ガルドが千六百枚払うのか!」
ガルドは、震える手で椀の中のサイコロを掴み上げた。
目を剥いて、一つ一つを確かめる。
間違いない。自分がすり替えた、細工物の賽だ。
だからこそ――ガルドは、何も言えない。
「この賽はおかしい」と叫べば、それは自分の賽に細工があったと認めることになる。
大勢の客の前で、自分のイカサマを白状することになるのだ。
「……っ、くそ……っ!」
ガルドは、血管が浮き出るほど拳を握りしめた。
「払ってもらおうか、親分」
俺は、鼻の下から垂れてきた血を、外套の袖でぬぐった。
「イカサマ師の賽は、イカサマ師を裏切る。……覚えておくといい」
◆
金貨千六百枚。
ずしりと重い革袋を抱えて賭場を出ると、ラットが呆然とした顔で俺を見上げてきた。
「あんた……いったい、何したんだよ」
「何も。あいつが、自分の賽に裏切られただけだ」
嘘じゃない。サイコロを振ったのも、細工をしたのも、ガルド自身だ。
だが、俺は胸の奥にざらついたものを感じていた。
確率を入れ替える力。
これは、ある意味ではイカサマよりもずっとたちの悪い力だ。
前世の俺は、イカサマの濡れ衣を着せられて全てを失った。
それがどれほど理不尽で、どれほど悔しいことか、誰よりも知っている。
だからこそ、自分に誓う。
「ラット。一つ、覚えておいてくれ」
「なんだよ」
「俺はイカサマが嫌いだ。だから、この力は――イカサマ師相手にしか使わない」
ラットは、よく分からないという顔をした。
それでいい。これは、俺が俺自身にかける縛りだ。
「……なあ、あんた」
しばらく並んで歩いた後、ラットがぽつりと言った。
「なんで、俺なんか雇うんだ。スリだぞ、俺。あんたの財布をすったんだぞ」
「腕がいいからだ」
「は?」
「すられた瞬間、俺は何も感じなかった。
あの距離で、あの速さで、気配を消して財布を抜ける奴は、そうそういない。
……それに」
俺は、ラットの手元を見た。痩せた手。指先には、いくつもの古い傷がある。
「お前は、財布の中の手紙を読んで、ちゃんと返しに来た。
中身を持って逃げることもできたのにな」
ラットは、ぷいと顔を背けた。
「……一日金貨一枚のほうが、銅貨数枚より得だと思っただけだよ」
「そういうことにしておく」
ラットは、しばらく黙って歩いていた。それから、ぶっきらぼうに口を開いた。
「俺さ、親の顔知らねえんだ。
物心ついた時から、下町のスリの元締めのところにいた。
仕事をしくじったら飯抜き。
しくじらなくても、稼ぎはほとんど元締めに取られる」
「今は?」
「元締めは去年、ガルドの賭場で有り金溶かして、どっかに消えちまった。
……ガルドのイカサマでな」
ラットは、拳を握りしめた。
「だから、今日はちょっとだけ、すっとした」
「ちょっとだけか」
「……けっこう、すっとした」
俺は思わず笑った。ラットも、照れたように鼻をこすった。
「明日から、屋敷に来い。飯くらいは食わせてやる。
――まあ、スープとパンだけだがな」
「贅沢言わねえよ」
ラットは、初めて年相応の顔で笑った。
◆
その夜。黄金の胃袋の最上階、支配人室。
「――で、のこのこ千六百枚を払ったと」
ドルマンは、ソファに巨体を沈めたまま、目の前で縮こまるガルドを見下ろしていた。
「も、申し訳ありません! ですが、あの賽で、ヒフミなんて出るはずが……」
「出たのだろう?」
ドルマンは、左耳の巻き貝の飾りを、太い指で撫でた。考え事をする時の癖だった。
「その男、外套を着た若い男だったと言ったな。指輪を担保にした、と」
「は、はい。サファイアの、古い指輪で……」
ドルマンの細い目が、ゆっくりと開かれた。
昨夜、ルッツを降ろした男。そして今日、ガルドの賽を狂わせた男。
母の形見の、サファイアの指輪。
「ラングレーの小僧か」
ドルマンは、喉の奥で低く笑った。
「面白い。……実に、面白い」




