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【第2部スタート】ギャンブル中毒で放蕩三昧の悪役貴族、破滅ルートをひっくり返す  作者: 有馬 茶
第一章借金地獄編 〜勝率三パーセントからの取り立て〜

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第4話 イカサマ師の賽は、イカサマ師を裏切る


王都の下町は、昼間から酒と汗の匂いがした。


石畳はひび割れ、軒先には洗濯物と怪しげな看板がひしめき合っている。

俺は目立たないよう、ゴードンが用意してくれた古い外套を羽織っていた。


路地の入り口で、ふと問いを立ててみる。


(ここを歩いて、財布をすられる確率は?)


【87%】


……治安が悪いにもほどがある。


だが、悪くない数字だ。

俺は少し考えてから、懐から財布を取り出した。

中身の金貨を抜いて別の隠しポケットに移し、代わりに銅貨を数枚と、折りたたんだ紙切れを一枚入れる。


そして、財布を外套の一番取りやすい場所にしまい直した。


路地を三本ほど抜けたところで、小さな影が俺の脇をすり抜けていった。


ぶつかった感触すらない。見事な腕前だ。


懐を確かめる。財布は、きれいに消えていた。


(さて、来てくれるかな)


  ◆


目的の賭場は、下町の奥、潰れた酒蔵を改装した建物の地下にあった。


『片目のガルド』の賭場。下町で一番大きな賭場で、黄金の胃袋の傘下にあると噂されている。


薄暗い地下室には、むっとするような熱気が立ち込めていた。

木の椀の周りに男たちが群がり、サイコロが転がるたびに歓声と怒号が上がる。


遊ばれているのは『三賽』という博打だった。


親が三つのサイコロを椀に振り、出た目で勝負を決める。

子は親の目に対して金を張る。

ルールは単純だが、特別な目がいくつかある。


四・五・六が揃えば『シゴロ』。親の総取りで、子は張った額の倍を払う。


一・二・三が揃えば『ヒフミ』。親の負けで、親が子に倍を払う。


「さあ張った張った! 親はこの俺、ガルド様だ!」


椀の前で吠えているのは、左目に黒い眼帯をした大男だった。

こいつが、片目のガルドか。


俺は人だかりの後ろから、しばらく勝負を眺めた。


(ガルドが、次にシゴロを出す確率は?)


【3%】


まともなサイコロなら、四・五・六が揃う確率はそんなものだ。

ガルドは小さな勝負では、勝ったり負けたりを繰り返していた。


だが、ある時。羽振りのいい商人風の男が、金貨五十枚を張った。


ガルドは「おう、豪気だねえ」と笑いながら、椀を布で一拭きした。


その瞬間、数字が跳ね上がった。


【3% → 83%】


結果は、四・五・六。シゴロだ。商人は張った額の倍、金貨百枚を失って青ざめた。


(……なるほど)


布で椀を拭く、その一瞬。サイコロをすり替えている。

おそらく、四・五・六が出やすいように重心をいじった細工物だ。


大きな勝負の時だけ、イカサマの賽を使う。

小さな勝負では、まともな賽で負けてみせる。

客は「今日はたまたま運が悪かった」と思って帰っていく。


「……あんた、見えてんのか」


不意に、背後から声がした。


振り返ると、薄汚れた服を着た少年が立っていた。

歳は十四、五だろうか。

痩せっぽちで、目つきだけがやけに鋭い。


その手には、俺の財布と、広げられた紙切れが握られていた。


紙切れには、こう書いてある。


『中身が欲しけりゃ、片目のガルドの賭場まで返しに来い。もっといい仕事をやる。――ヴィクトル』


「すられるのを分かってて、財布に手紙を入れとく馬鹿がどこにいるんだよ」


「ここにいるな」


「……変な貴族」


少年は、ふてくされたように財布を突き出した。


「俺はラット。で、いい仕事ってなんだよ」


「情報屋だ。下町と、黄金の胃袋のことを調べてほしい。報酬は一日に金貨一枚」


「い、一枚!?」


ラットの目が見開かれた。下町の子供にとっては、ひと月は食いつなげる額だ。


「その代わり、手始めに一つ教えてくれ。ガルドのイカサマ、知ってるか?」


ラットは周囲を窺い、声を潜めた。


「……みんな薄々気づいてるよ。

でかい勝負になると、ガルドは絶対にシゴロを出す。

でも、誰も証拠を掴めねえ。

あいつの手は、目で追えねえんだ」


「十分だ」


  ◆


俺は、人だかりをかき分けて椀の前に進み出た。


「親分。一勝負、いいかな」


「おう、見ねえ顔だな。張りな」


卓に出した元手は、金貨三十枚。

残りの七十枚は、隠しポケットに入れたままにしておく。


俺はまず、金貨を五枚だけ張った。


【ガルドがシゴロを出す確率:3%】


小さな勝負だ。

ガルドはまともな賽で振り、普通の目が出て、俺が勝った。

次も、その次も、小さく張る。

勝ったり負けたりを繰り返しながら、俺は少しずつ張る額を増やしていった。


十枚。二十枚。そして、四十枚。


ガルドは布で椀を拭った。


【83%】


――来た。


結果はシゴロ。俺は四十枚の倍、八十枚を払わされた。

小さな勝ちで九十枚まで増やしていた卓上の金貨は、たった一振りで十枚に減った。


「へっへっへ、残念だったな、兄ちゃん」


ガルドが、下卑た笑みを浮かべる。


周囲の客も、俺を哀れむように見ていた。また一人、カモが溶けたと。


「ああ、残念だ」


俺は、肩をすくめた。


「なあ、親分。次で取り返したい。張りを十倍にしてくれないか」


「……十倍だぁ?」


「ああ。

シゴロが出たら、俺は張った額の十倍の倍を払う。

ヒフミが出たら、親分が十倍の倍を払う」


賭場が、ざわめいた。


十倍張り。この賭場でも滅多に見ない大勝負だ。


「兄ちゃん、手持ちはいくらだ」


「これだけだ」


俺は、卓に残った金貨十枚と、隠しポケットの七十枚を合わせて、八十枚を椀の前に置いた。


「八十枚の十倍の倍……千六百枚だぞ。払えんのか」


「払えなかったら、これを渡す」


俺は、指から母の形見の指輪を外し、金貨の山の上に置いた。


サファイアが、薄暗い明かりの中で静かに光る。


「……ほう」


ガルドの片目が、ぎらりと光った。商売人の目だ。

この指輪が、本物の貴族の持ち物であることを見抜いている。


「おい、兄ちゃん、やめとけって!」


ラットが、俺の袖を引っ張った。


「でかい勝負になったら、あいつは絶対に――」


「知ってる」


俺は、ラットにだけ聞こえる声で言った。


「だから、張るんだ」


  ◆


「いいだろう、受けてやる!」


ガルドが吠えた。賭場中の客が、椀の周りに群がってくる。


ガルドは、いつものように布で椀を一拭きした。


【ガルドがシゴロを出す確率:83%】


予想通りだ。すり替えた。


ここで、普通ならこう考えるだろう。


――入れ替えるなら、ガルドの勝つ確率と、俺の勝つ確率だ、と。


だが、三賽は親が振った目で決まる。

俺が振るわけじゃない。親がシゴロを出せば親の勝ち。

ヒフミを出せば、親の負け。

勝負の行方は、全てガルドの手の中にある。


なら――。


俺は、椀を構えるガルドの手元に、二つ目の問いを立てた。


(ガルドがヒフミを出す確率は?)


【2%】


重心をいじられた賽だ。四・五・六が出やすく、一・二・三は出にくくなっている。


二つの数字が、ガルドの手元に並んで浮かんでいる。


【シゴロ:83%】

【ヒフミ:2%】


俺は、静かに息を吸った。


自分の確率と、相手の確率を入れ替えるんじゃない。


相手の確率と、相手の確率を入れ替える。


(入れ替われ)


頭の奥が、軋む。


二つの数字がスロットのリールのように猛烈に回転し、ガラスの砕ける音が、俺の頭の中にだけ響き渡った。


【シゴロ:2%】

【ヒフミ:83%】


「そらよっ!」


ガルドが、椀の中にサイコロを叩きつけた。


からん、からからから――。


三つの賽が、椀の中を狂ったように跳ね回る。賭場中の視線が、その一点に注がれた。


やがて、賽が止まる。


一。


二。


三。


――ヒフミ。


「…………は?」


ガルドの口が、ぽかんと開いた。


一瞬の静寂の後、賭場が割れんばかりの歓声に包まれた。


「ヒ、ヒフミだぁ!」

「十倍張りで、親がヒフミ!?」

「千六百枚だぞ! ガルドが千六百枚払うのか!」


ガルドは、震える手で椀の中のサイコロを掴み上げた。

目を剥いて、一つ一つを確かめる。


間違いない。自分がすり替えた、細工物の賽だ。


だからこそ――ガルドは、何も言えない。


「この賽はおかしい」と叫べば、それは自分の賽に細工があったと認めることになる。

大勢の客の前で、自分のイカサマを白状することになるのだ。


「……っ、くそ……っ!」


ガルドは、血管が浮き出るほど拳を握りしめた。


「払ってもらおうか、親分」


俺は、鼻の下から垂れてきた血を、外套の袖でぬぐった。


「イカサマ師の賽は、イカサマ師を裏切る。……覚えておくといい」


  ◆


金貨千六百枚。


ずしりと重い革袋を抱えて賭場を出ると、ラットが呆然とした顔で俺を見上げてきた。


「あんた……いったい、何したんだよ」


「何も。あいつが、自分の賽に裏切られただけだ」


嘘じゃない。サイコロを振ったのも、細工をしたのも、ガルド自身だ。


だが、俺は胸の奥にざらついたものを感じていた。


確率を入れ替える力。


これは、ある意味ではイカサマよりもずっとたちの悪い力だ。

前世の俺は、イカサマの濡れ衣を着せられて全てを失った。

それがどれほど理不尽で、どれほど悔しいことか、誰よりも知っている。


だからこそ、自分に誓う。


「ラット。一つ、覚えておいてくれ」


「なんだよ」


「俺はイカサマが嫌いだ。だから、この力は――イカサマ師相手にしか使わない」


ラットは、よく分からないという顔をした。

それでいい。これは、俺が俺自身にかける縛りだ。


「……なあ、あんた」


しばらく並んで歩いた後、ラットがぽつりと言った。


「なんで、俺なんか雇うんだ。スリだぞ、俺。あんたの財布をすったんだぞ」


「腕がいいからだ」


「は?」


「すられた瞬間、俺は何も感じなかった。

あの距離で、あの速さで、気配を消して財布を抜ける奴は、そうそういない。

……それに」


俺は、ラットの手元を見た。痩せた手。指先には、いくつもの古い傷がある。


「お前は、財布の中の手紙を読んで、ちゃんと返しに来た。

中身を持って逃げることもできたのにな」


ラットは、ぷいと顔を背けた。


「……一日金貨一枚のほうが、銅貨数枚より得だと思っただけだよ」


「そういうことにしておく」


ラットは、しばらく黙って歩いていた。それから、ぶっきらぼうに口を開いた。


「俺さ、親の顔知らねえんだ。

物心ついた時から、下町のスリの元締めのところにいた。

仕事をしくじったら飯抜き。

しくじらなくても、稼ぎはほとんど元締めに取られる」


「今は?」


「元締めは去年、ガルドの賭場で有り金溶かして、どっかに消えちまった。

……ガルドのイカサマでな」


ラットは、拳を握りしめた。


「だから、今日はちょっとだけ、すっとした」


「ちょっとだけか」


「……けっこう、すっとした」


俺は思わず笑った。ラットも、照れたように鼻をこすった。


「明日から、屋敷に来い。飯くらいは食わせてやる。

――まあ、スープとパンだけだがな」


「贅沢言わねえよ」


ラットは、初めて年相応の顔で笑った。


  ◆


その夜。黄金の胃袋の最上階、支配人室。


「――で、のこのこ千六百枚を払ったと」


ドルマンは、ソファに巨体を沈めたまま、目の前で縮こまるガルドを見下ろしていた。


「も、申し訳ありません! ですが、あの賽で、ヒフミなんて出るはずが……」


「出たのだろう?」


ドルマンは、左耳の巻き貝の飾りを、太い指で撫でた。考え事をする時の癖だった。


「その男、外套を着た若い男だったと言ったな。指輪を担保にした、と」


「は、はい。サファイアの、古い指輪で……」


ドルマンの細い目が、ゆっくりと開かれた。


昨夜、ルッツを降ろした男。そして今日、ガルドの賽を狂わせた男。


母の形見の、サファイアの指輪。


「ラングレーの小僧か」


ドルマンは、喉の奥で低く笑った。


「面白い。……実に、面白い」

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