第3話 帳簿は嘘をつかない
前世の俺には、あまり人に話したくない経歴がある。
業界を追放された後、場末のカードルームで帳簿をつけていたことだ。
表の帳簿と裏の帳簿。
売上をごまかす手口、架空の経費、ありもしない貸し付け。
そういうものを、嫌というほど見てきた。
だから、分かる。
ラングレー伯爵家の帳簿は、腐っていた。
「ゴードン。この帳簿は、全部バルトロが付けているんだな」
「はい。
旦那様がお亡くなりになってから、家の財務は全てバルトロ殿にお任せしております」
書斎の机に、帳簿の山が積み上がっている。
ゴードンに頼んで、バルトロの執務室から運び出してもらったものだ。
一冊目をめくった時点で、違和感はあった。二冊目で、確信に変わった。
例えば、去年の春に売却した風景画。
帳簿には「金貨三百枚で売却」とある。
だがヴィクトルの記憶では、あれは祖父が王宮の画家に描かせたものだ。
売った時の額は金貨千枚を超えていたはずだ。
差額の七百枚は、どこに消えた?
それだけじゃない。
ドルマンの店への「返済」として、毎月まとまった金が支払われている。
なのに、借金の総額は一向に減っていない。
(売却額を低く書いて、差額を抜く。返済したことにして、金を抜く。……古典的だな)
古典的だが、効果的だ。当主が帳簿に一度も目を通さない馬鹿なら、なおさら。
「坊ちゃま。……顔つきが、変わられましたな」
ゴードンが、静かに言った。
「そうか?」
「はい。旦那様に、よく似ておられる」
俺は答えずに、帳簿を閉じた。
そして、昨夜見つけた二十一枚の偽造証文と並べてみる。
偽造証文の日付と、帳簿上の「返済」の日付が、いくつも重なっていた。
つまり――。
バルトロとドルマンは、手を組んでいる。
ありもしない借金を作り、ありもしない返済で家の金を抜く。
二人がかりで、ラングレー家を骨までしゃぶっていたのだ。
◆
その日の昼過ぎ、バルトロがやってきた。
痩せぎすの、四十がらみの男だった。
撫でつけた黒髪に、薄い唇。
品のいい服を着ているが、その布地はどう見ても、主家の伯爵家の当主である俺の服より上等だった。
後ろには、荷車を引いた男たちを五人ほど従えている。
「これはこれは、伯爵様。お目覚めでしたか」
バルトロは、慇懃に頭を下げた。だが、その目は笑っていない。
「返済期限が迫っておりますので、残っている家財を整理させていただこうと思いまして。
こちらが目録でございます」
そう言って、バルトロは紙の束を取り出した。
その手つきに、俺は目を留めた。
細く、長い指。
紙の束を、まるでカードを扱うように、片手でするりと扇形に広げてみせる。
一枚一枚が、寸分の狂いもなく等間隔に並んでいた。
家令にしては、紙を捌く手つきが滑らかすぎる。
前世で、何人も見てきた。
ああいう指をしている人間は――大抵、カードの裏で何かをしている。
「……ああ。全部任せるよ、バルトロ」
俺は、いつものヴィクトルらしく、だらしなく椅子に沈み込んでみせた。
「俺には難しいことは分からないからな。お前だけが頼りだ」
「恐縮でございます」
バルトロの唇の端が、わずかに吊り上がる。
(こいつが、今日この屋敷から何かを盗み出す確率は?)
【96%】
だろうな。
男たちが、屋敷の中を物色し始めた。燭台。食器。
わずかに残っていた絨毯。
目録に書かれていない物まで、次々と荷車に積まれていく。
俺は黙って見ていた。
今、こいつを問い詰めても意味がない。
金は戻らないし、証拠もまだ足りない。
だが、男たちが二人がかりで一枚の大きな絵を運び出してきた時、廊下の奥から小さな悲鳴が上がった。
「だめっ! それは、お母さまの……!」
リリアだった。亜麻色の髪を振り乱して駆け寄り、額縁にしがみつく。
金色の額縁の中で、栗色の髪の女性が穏やかに微笑んでいた。
サファイアの指輪をはめた手を、膝の上で重ねている。
母の肖像画だ。
「お嬢様、お離しください。これも借金の返済に充てるものですので」
バルトロは、うんざりしたように言った。
男の一人が、リリアの細い腕を乱暴に掴んで引き剥がそうとする。
俺は、椅子から立ち上がっていた。
男の手首を掴む。ほんの少し力を込めただけで、男は顔をしかめて手を離した。
「……乱暴はよせ。子供相手に」
バルトロが、意外そうに眉を上げた。
俺はリリアの前にしゃがみ込み、その涙で濡れた顔を両手で包んだ。
「リリア。今は、行かせてやれ」
「でも、お兄さま……!」
「必ず、取り返す」
リリアにだけ聞こえる声で、俺は言った。
「約束しただろ。俺はもう、お前との約束は破らない」
リリアは、しゃくりあげながら俺の顔を見つめた。
そして、ゆっくりと額縁から手を離した。
運ばれていく母の微笑みを、俺は目に焼き付けた。
(この絵が、二度とこの屋敷に戻らない確率は?)
【71%】
――上等だ。その数字ごと、ひっくり返してやる。
だが、次の一言で、さすがに奥歯を噛みしめた。
「それと、伯爵様。リリアお嬢様のことですが」
バルトロは、まるで天気の話でもするように言った。
「さる子爵様が、お嬢様を婚約者としてお迎えしたいと仰っております。
支度金として、金貨三千枚を出してくださるそうで」
「……子爵?」
「ええ。
少々ご年配の方ですが、なに、お嬢様のような方なら、可愛がっていただけるでしょう」
ヴィクトルの記憶が、その子爵の名前を浮かび上がらせた。
六十を過ぎた好色家。
若い妻を何人も迎えては、すぐに「病死」させていると噂の男だ。
(落ち着け)
拳を、膝の上で握りしめる。
ここで怒鳴れば、こいつは警戒する。
泳がせて、全部まとめて取り立てる。
そう決めたはずだ。
「……考えておく」
「良いお返事を、お待ちしております」
バルトロは満足そうに頷いた。
◆
だが、ただ見送るつもりはなかった。
バルトロが帰り支度を始めた時、俺は何気なく声をかけた。
「なあ、バルトロ」
「はい、伯爵様」
今のうちに、確かめておきたいことがある。
この眼は、事実を直接は読めない。
「バルトロとドルマンが手を組んでいるか」と問いを立てても、数字は出ない。
それは、すでに決まっている「今」の話だからだ。
だが、未来なら見える。
(バルトロが、今夜ドルマンに会いに行く確率は?)
【15%】
低い。
もし二人が手を組んでいるなら、普段から頻繁に会っているわけではないということだ。
なら――会いに行かざるを得ない状況を作ればいい。
「そういえば、昨夜ドルマンの店で、あいつがお前の話をしていたぞ」
バルトロの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
【15% → 38%】
「……ほう。私の、ですか」
「ああ。『あの家令はよく働く』ってな」
もちろん、嘘だ。ドルマンはバルトロの名前など一度も口にしていない。
だが、もし二人が無関係なら、この言葉に意味はない。ただの世間話で終わる。
【38% → 52%】
数字が上がり続けている。
もう一押しだ。
「それと、俺がいくら借りているのかって聞いたら、あいつ、妙なことを言っていたな。
『帳簿を確かめてみるといい』だったか。
……何のことだろうな?」
俺はあくびをしながら、首を傾げてみせた。
バルトロの顔から、表情が消えた。
【52% → 78%】
――決まりだ。
無関係な人間なら、こんな数字にはならない。
ドルマンが自分の名前を出した。帳簿の話をした。
それを聞いて、今夜のうちに確かめに行かずにはいられない。
それは、後ろ暗い繋がりを持つ人間だけだ。
「さあ……ドルマン殿も、酔っておられたのでしょう」
バルトロは、取り繕うように微笑んだ。
だが、その細い指が、目録の束の端を何度も何度も揃え直しているのを、俺は見逃さなかった。
◆
その夜。
俺とゴードンは、黄金の胃袋の裏手、路地の暗がりに身を潜めていた。
「坊ちゃま。本当に、バルトロ殿は来るのでしょうか」
「来る確率は、七十八パーセントだ」
「……は?」
「勘だよ」
路地の暗がりで待つ間、俺はふと、隣のゴードンの気配が妙に薄いことに気づいた。
六十を過ぎた老人だ。
なのに、石畳の上を歩いても足音一つ立てない。
呼吸の音すら、夜の闇に溶け込んでいる。
俺が身じろぎするたびに外套が衣擦れの音を立てるのに、
ゴードンの周りだけ、まるで時間が止まっているかのようだった。
「……ゴードン。お前、昔は何をしていたんだ」
「執事でございます」
「その前は」
「さて。年寄りは、昔のことをすぐ忘れてしまうもので」
(ゴードンが、この質問に正直に答える確率は?)
【2%】
俺は、それ以上聞くのをやめた。
この老人は、ヴィクトルが生まれる前からラングレー家に仕えている。
そして、給金が出なくなっても、ただ一人この家に残ってくれた。
それだけ分かっていれば、十分だ。
月が雲に隠れた頃、路地の向こうから足音が近づいてきた。
フードを目深にかぶった、痩せた男。だが、その歩き方は間違いなくバルトロだった。
バルトロは店の裏口を三度叩いた。
中から出てきたのは、ドルマンの手下と思しき大柄な男だ。
「伯爵の様子がおかしい。ドルマン様に、至急お伝えしたいことが……」
「声がでけえよ。ほら、今月の分は」
バルトロが、懐から重そうな革袋を取り出し、男に渡した。
じゃらり、と金貨の音がした。
今日、うちの屋敷から運び出した家財を売った金だろう。
「ドルマン様は、例の件で手が離せねえ。伝言なら聞いとく」
「……伯爵が、帳簿のことを口にした。偶然かもしれんが、念のためだ」
「へっ、あの馬鹿伯爵が? 考えすぎだろ」
男は鼻で笑い、扉を閉めた。
バルトロはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて舌打ちを一つ残して、闇の中へ消えていった。
◆
屋敷への帰り道。
「……坊ちゃま」
ゴードンが、低い声で言った。その横顔には、静かな怒りが滲んでいた。
「バルトロ殿は、旦那様の代から仕えていた男です。まさか、このような……」
「親父が死んでから、変わったのかもな。それとも、最初からそういう男だったのか」
どちらでもいい。
大事なのは、これからどうするかだ。
俺は夜空を見上げながら、頭の中で状況を整理した。
借金は、金貨十万枚。うち七万枚は偽造。
だが、偽造だと証明するには、神殿の審問官に訴え出る必要がある。
そしてドルマンは、間違いなく審問官を買収している。
訴えたところで、握りつぶされるのがオチだ。
なら、残りの三万枚を返すか?
無理だ。一ヶ月で三万枚など、まともな方法では稼げない。
「ゴードン。十万枚は、稼げない」
「……はい」
「だから、稼がない」
ゴードンが、怪訝そうに俺を見た。
「証文ごと、奪い返す」
借金の証文。偽造の証拠。屋敷から盗まれた家財。
そして、バルトロとドルマンが溜め込んだ金。
それら全てを、一度に取り返す方法が、この世界には一つだけある。
――神前勝負。
女神の名のもとに行われる賭けなら、ドルマンが賭けたものは、女神によって強制的に取り立てられる。
買収された審問官も、権力も、関係ない。
「だが、そのためには三つ必要だ」
俺は指を一本ずつ立てた。
「一つ。ドルマンが勝負に乗ってくるだけの『餌』。
あいつのテーブルに座るための種銭もいる」
「二つ。ドルマンの手の内。
あいつがどんなイカサマを使っているのか、全部知っておく必要がある」
「三つ。買収されていない審問官」
ゴードンは、しばらく黙って俺の指を見つめていた。
「……一つ目から、参りましょうか」
「ああ。まずは種銭だ」
懐には、昨夜ルッツから巻き上げた金貨が八十枚。
十万枚には、程遠い。
だが、ポーカーのトーナメントでは、もっと少ないチップから優勝した奴もいる。
「明日は、下町に行く」
俺は、母の形見の指輪を握りしめた。
「イカサマ師の賭場で、少しばかり稼がせてもらおう」




