第2話 一日一度の入れ替え
ラングレー伯爵家の屋敷に帰り着いたのは、東の空が白み始めた頃だった。
門をくぐった瞬間、俺は足を止めた。
荒れている。
前庭の噴水は枯れ、生け垣は伸び放題。
窓の半分にはカーテンすらなく、玄関の両脇にあったはずの石像は台座だけが残っていた。
ヴィクトルの記憶が、淡々と教えてくれる。
売ったのだ。
石像も、絵画も、家具も、使用人の給金も。
全部、あの店のテーブルに溶けていった。
重い扉を押し開ける。
がらんとした玄関ホールの階段に、小さな人影がうずくまっていた。
毛布にくるまった、亜麻色の髪の少女。
「……リリア」
名前が、自然と口からこぼれた。
リリア・ラングレー。十一歳。ヴィクトルの、たった一人の妹。
彼女はびくりと肩を震わせて顔を上げた。
眠そうな目をこすり、俺の姿を認めると、ぱっと表情を明るくし――次の瞬間、怯えたように身をすくめた。
「お、お兄さま。ごめんなさい。お部屋で待っていなさいって言われてたのに……」
ヴィクトルの記憶が、胸を刺す。
帰りを待つ妹に、こいつは何を言ってきた。
「邪魔だ」「うるさい」「金の話をしているんだ」。
そんな言葉ばかりだ。
俺は階段に膝をつき、妹の目線に合わせた。
「ただいま、リリア。待っててくれたのか」
「……え?」
リリアが、目を丸くする。
「寒かっただろ。ほら、部屋に戻ろう」
毛布ごと抱き上げると、リリアは驚くほど軽かった。
腕の中で固まっていた小さな体が、少しずつほどけていく。
「お兄さま……今日は、怒ってないの?」
「怒ってない。これからも怒らない」
「ほんとう?」
「ああ。約束だ」
リリアは、何かを確かめるように俺の顔をじっと見つめ――それから、小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、決めた。
この子だけは、何があっても守る。
◆
「坊ちゃま。お茶をお持ちいたしました」
書斎で待っていると、白髪の老執事が湯気の立つカップを運んできた。
ゴードン。六十二歳。
給金が払えなくなり、使用人が次々と去っていった中で、ただ一人この屋敷に残ってくれた男だ。
「ゴードン。少し……昨夜の酒が残っていてな。
頭がはっきりしない。いくつか確認させてくれ」
「何なりと」
ゴードンの説明は簡潔だった。
借金は金貨十万枚。期限は三十日後。
屋敷に残っているのは、自分とリリアの二人だけ。
家の財産の管理は、家令のバルトロに任せきりになっている。
「それと、もう一つ。『神前勝負』について、改めて教えてくれ」
ゴードンは、わずかに眉を上げた。だが何も聞かずに答えてくれた。
「女神フォルトゥナの御前で行う賭けのことでございます。
双方が賭けるものを宣言し、神殿の審問官が立ち会えば、女神の神卓が降臨いたします」
「負けたら?」
「賭けたものは、女神によって強制的に取り立てられます。
金であろうと、土地であろうと、爵位であろうと。
いかなる権力者も、これには逆らえません」
「イカサマは?」
「立会人である審問官が不正と認めれば、その場で敗北となります。
……ただし、女神から授かった『加護』は、不正ではなく正当な力とみなされます」
加護。
この世界には、女神から特別な力を授かった人間がいる。
そして神前勝負において、その力はルールの内側にある。
(……なるほどな)
記憶の断片が、かちりと噛み合った。
俺は、この世界を知っている。
『ロイヤル・ベット・クロニクル』。
前世で、酒浸りになっていた頃に手を出したゲームだ。
賭けと運命の女神が支配する王国で、若き審問官が腐敗した賭博貴族たちを摘発していく物語。
主人公の名前は、確かアレン。
そして、その第一章のボス――
いや、ボスの手下として登場する小悪党が、借金まみれの放蕩伯爵、ヴィクトル・ラングレーだった。
ゲームの中のヴィクトルは、返済期限の日にドルマンから取引を持ちかけられる。
「店の罪を全部かぶれば、借金は帳消しにしてやる」と。
そして愚かにも、その書類にサインする。
数日後、審問官アレンが店に踏み込み、ヴィクトルは全ての罪を背負って逮捕される。
リリアは修道院へ送られ、伯爵家は断絶。
そしてもう一人。
摘発の混乱の中で、銀髪のディーラーが命を落とす。
名前すらまともに語られない脇役。
プレイヤーの間では「救えないヒロイン」と呼ばれていた。
――ノエル。
昨夜、あの疑問符の下にいた女だ。
(三十日後、俺は終わる。リリアも、あの女も)
カップを置く手が、わずかに震えた。
だが、震えはすぐに止まった。
配られた手札が最悪なのは、慣れている。
◆
「ゴードン。コインを持っているか」
「……こちらに」
ゴードンが差し出した銅貨を、俺は指で弾いた。
【表が出る確率:50%】
当然だ。では――。
「ゴードン。俺が、次に表と裏のどちらを言うか、当ててみてくれ」
そう言いながら、自分に問いかける。
(俺が『表』と言う確率は?)
数字は、出なかった。
いや、正確には何かが表示されかけて、砂嵐のようにざらついて消えた。
(……自分の選択は、見えないのか)
試しに、いくつか別の問いも立ててみた。
「昨夜ルッツが手札を知っていたか」――何も出ない。
「この屋敷に金貨が隠されているか」――何も出ない。
だが、「ゴードンが次に右手でカップを持つ確率」には【82%】と浮かんだ。
一時間ほど試した結果、分かったことがある。
一つ。この眼は、俺が問いを立てたことにしか反応しない。
二つ。見えるのは、これから起きることの確率だけ。
過去や今の事実は、直接は読めない。
三つ。自分自身がどう選ぶかは、見えない。
(つまり、使い方次第ってことだ)
事実が読めないなら、事実を未来に置き換えればいい。
昨夜、ルッツの手の内を読んだのと同じように。
「坊ちゃま。もう一度、コインをお貸しいただけますか」
ゴードンが、静かに言った。
彼は銅貨を受け取ると、親指で高く弾き上げた。くるくると回転するコイン。
【表が出る確率:50%】
ゴードンの手が、落ちてくるコインを空中で掴み取り、手の甲に伏せた。
その瞬間。
【表が出る確率:100%】
数字が、跳ね上がった。
ゴードンが手をどける。表だった。
「……ゴードン。お前、今、表を出したな」
老執事は、穏やかに微笑んだ。
「おや。昔取った杵柄でございます」
それ以上、何も言わなかった。
(誰かが意志をもって結果を決めた瞬間、数字は百になる――のか)
もう一つ、大事なことを覚えておく。
◆
その日の午後、リリアがトランプを抱えて書斎にやってきた。
「お兄さま、お仕事のじゃまじゃなかったら……道化抜き、してくれる?」
道化抜き。この世界のババ抜きだ。
二人だけの、ささやかなゲーム。
やがて勝負は、俺の手に二枚、リリアの手に一枚というところまで進んだ。
俺の手には、道化の札と、リリアの持つ札と同じ数字の札。
リリアが、俺の手札に指を伸ばす。右か、左か。
(リリアが道化を引く確率は?)
【80%】
……リリアは、迷った時に右を選ぶ癖がある。そして道化は、俺の右手側にあった。
別に、勝ち負けなんてどうでもいい。
ただ、俺は――この子が笑うところを、もう一度見たかった。
(入れ替われ)
そう念じた瞬間だった。
頭の奥で、何かが軋んだ。
【道化を引く確率:80%】と【当たりを引く確率:20%】。
二つの数字が、まるで回転するスロットのリールのように激しく回り始め、
ガラスの割れるような甲高い音とともに――止まった。
【道化を引く確率:20%】
【当たりを引く確率:80%】
リリアが、右の札を引く。
当たりだった。
「やったぁ! お兄さまに勝った!」
リリアが飛び跳ねる。その笑顔を見ながら、俺は鼻の下に生ぬるいものを感じた。
指で拭う。赤い。
「お兄さま!? 血が!」
「大丈夫だ。ちょっと、のぼせただけだ」
心配するリリアの頭を撫でながら、俺は内心で戦慄していた。
入れ替えた。
見えている二つの確率を、入れ替えることができた。
確率を見るだけでも、ギャンブラーにとっては喉から手が出るほどの力だ。
それを、書き換えることまでできるとしたら――。
◆
その夜、俺はもう一度試した。
ゴードンにコインを弾いてもらい、表と裏の確率を入れ替えようとする。
何も起きなかった。代わりに、頭を殴られたような激痛が走った。
(……回数制限か)
数字は回らない。眼の奥が焼けるように痛むだけだ。
そこで俺は、書斎の時計を睨みながら待った。
針が、真上で重なる。日付が変わった、その瞬間に念じた。
【表:50%】と【裏:50%】――いや、これでは入れ替えても意味がない。
ゴードンに頼んで、少しだけ表が出やすいように弾いてもらう。
【表:64%】【裏:36%】
(入れ替われ)
スロットが回る。ガラスの割れる音。
【表:36%】【裏:64%】
鼻血が、ぽたりと机に落ちた。
「坊ちゃま……」
「大丈夫だ、ゴードン。分かったことがある」
一日に一回。日付が変われば、また使える。そして、使えば体に反動が来る。
最後に、もう一つだけ試した。
次の夜を待って、ゴードンに「結果を決めて」コインを弾いてもらう。
【表が出る確率:100%】
入れ替えようとしても、数字はびくともしなかった。今度は、痛みすら来ない。
(ゼロと百は、動かせない)
誰かが決めてしまった未来は、この眼でも覆せない。
その全てを、俺は頭の中のノートに書き込んだ。
◆
能力の検証に明け暮れた、その数日の間のこと。
ある夜の夕食は、具の少ない野菜のスープと、固くなったパンだけだった。
広すぎる食堂の、長すぎるテーブル。
その端に、俺とリリアが並んで座る。
ゴードンは給仕に回ろうとしたが、俺が無理やり隣に座らせた。
「坊ちゃま、使用人が主人と同じ席に着くなど……」
「使用人は、もうお前しかいない。なら、家族みたいなもんだ」
ゴードンは何か言いかけて、結局黙って座った。その目元が、わずかに赤くなっていた。
リリアは、スープを少しずつ、大事そうに口に運んでいた。
そして、ふと手を止めると、自分のパンを半分にちぎって俺の皿に載せた。
「お兄さま、これあげる」
「いや、いい。お前が食べろ」
「だって、お兄さま、昨日も何も食べてないでしょう? わたし、知ってるもん」
ヴィクトルの記憶をたどる。
確かに、ここ数日、こいつはろくに食事もとらずに賭場に入り浸っていた。
そして、そんな兄のことを、この小さな妹はずっと見ていたのだ。
俺は、半分のパンを受け取った。
「……ありがとな、リリア」
「えへへ」
固いパンを噛みしめながら、俺は考えた。
元のヴィクトルは、なぜあそこまで壊れてしまったのだろう。
父が死に、母が死に、家が傾いていく中で、何かから逃げるように賭場へ通い続けた男。
記憶の底を探っても、その理由だけは、霧がかかったように見えなかった。
ただ一つ確かなのは、こいつが心の底では、この妹を大事に思っていたということだ。
リリアのことを思い出すたびに、胸の奥が軋むように痛むのだから。
(安心しろ。お前の妹は、俺が守る)
誰にともなく、そう誓った。
「ねえ、お兄さま」
リリアが、スプーンをくわえたまま俺を見上げた。
「明日も、道化抜きしてくれる?」
「ああ。明日も、明後日もな」
――ただし、もう入れ替えは使わない。あれは、こんなことに使っていい力じゃない。
明日は、正々堂々と負けてやろう。
◆
深夜。リリアが眠った後、俺は書斎で借金の証文の束を広げていた。
ドルマンの店から借りた金の記録。全部で三十七枚。合計、金貨十万枚。
一枚一枚に、ヴィクトルの署名がある。
ヴィクトルの記憶と照らし合わせながら、日付と金額を確かめていく。
そして、ある一枚で手が止まった。
日付は、去年の秋。金額は、金貨八千枚。
――この日、ヴィクトルは王都にいなかった。
領地の視察で、三日間、北の村に滞在していたはずだ。
記憶は曖昧だが、間違いない。
父の墓参りに行った日だ。
それだけは、ヴィクトルの中にも大事に残っていた。
(この証文を神殿に持ち込んだら、偽造だと判定される確率は?)
【88%】
背筋が冷えた。
俺は、残りの三十六枚にも同じ問いを立てていった。
一枚、また一枚。
全てを確かめ終えた時、窓の外はまた白み始めていた。
偽造の可能性が高い証文は、二十一枚。その合計は――金貨、約七万枚。
借金十万枚のうち、七万枚は。
存在しない借金だった。




