第1話 勝率三パーセント
勝率、三パーセント。
それが、この世界で俺が最初に「見た」数字だった。
◆
頭が割れるように痛い。
視界がぐらりと揺れ、緑の羅紗を張ったテーブルが目の前に迫ってくる。
積み上げられたチップ。
グラスの中で揺れる琥珀色の酒。
天井の巨大なシャンデリアが、無数の光を撒き散らしている。
そして、耳障りな笑い声。
「おいおい、ラングレー伯爵様が固まっちまったぞ」
「手札が悪すぎて泣きそうなんだろ」
「今夜はいくら溶かすのかねえ。あの屋敷、もう売るもんも残ってねえだろうに」
……誰のことだ。
いや、分かっている。分かってしまう。
俺の名前は、ヴィクトル・ラングレー。十九歳。
ラングレー伯爵家の当主代理。
王都で知らぬ者のいない放蕩貴族で、賭場に入り浸っては家の財産を溶かし続けている――クズだ。
そして同時に、俺の名前は黒崎透。三十二歳。元プロのポーカープレイヤー。
二つの記憶が、頭の中で濁流のように混ざり合っていく。
ラスベガスの照明。マカオの喧騒。
賞金百万ドルのファイナルテーブル。
そして――「あいつはイカサマをしている」という、身に覚えのない告発。
業界を追われ、安アパートで酒に溺れた最後の数年。
最後に覚えているのは、雨の交差点と、迫ってくるトラックのライトだった。
(……ああ、そうか。俺は死んだのか)
妙に冷静な自分がいた。修羅場には慣れている。
カードを配られたら、まず手札を確認する。
それがギャンブラーの鉄則だ。
俺は、テーブルに伏せられた二枚のカードをそっとめくった。
クラブの七。ダイヤの二。
……最悪の手だ。ポーカーで最も弱いとされる組み合わせ。
場に開かれた三枚の共通カードは、スペードのキング、ハートのキング、クラブの九。
役どころか、かすりもしていない。
そして、テーブルの中央。チップの山の上に、銀の指輪が一つ置かれていた。
小さなサファイアがはめ込まれた、古い指輪。
ヴィクトルの記憶が教えてくれる。
亡くなった母親の形見だ。
こいつは――元の俺は、母の形見を賭けて、こんなクズ手で勝負に出ていたのだ。
(馬鹿か、お前は)
思わず心の中で毒づいた、その時だった。
自分の手札の上に、淡く光る文字が浮かんでいる。
【この勝負に勝つ確率:3%】
「…………は?」
瞬きをする。消えない。目をこする。消えない。
数字は、まるでネオンサインのように、俺の手札の上にふわりと浮かんでいた。
◆
落ち着け、黒崎透。
分からないことがあるなら、分かることから潰していけ。
俺は向かいの男を見た。
金髪を撫でつけた若い貴族風の男。名前はルッツ。
ヴィクトルの記憶では、最近この店でよく顔を合わせる「気の合う遊び仲間」だ。
(こいつが、この勝負に勝つ確率は?)
心の中で問いかけた瞬間、ルッツの頭上にも数字が浮かんだ。
【ルッツがこの勝負に勝つ確率:97%】
……なるほど。
どうやらこの数字は、俺が「問いを立てたこと」の確率を表示しているらしい。
では、これはどうだ。
(ルッツが、この勝負を降りる確率は?)
【1%】
ほとんどゼロ。当然だ。九十七パーセントで勝てる手を降りる馬鹿はいない。
――だが、引っかかる。
ルッツは、俺の手札を知らないはずだ。
そしてヴィクトルは、毎回強気に賭けてくるタイプのプレイヤーだった。
場にキングが二枚。
俺がキングを持っている可能性だって十分にある。
普通なら、少しは警戒するはずだ。
なのに、一パーセント。
迷いが、ない。
俺はルッツの手元を観察した。指先が落ち着いている。
そして視線が、俺の顔ではなく、俺の手元――伏せた二枚のカードの「裏」に向いている。
前世で、何百回と見てきた目だ。
(こいつ、俺の手札が見えているな)
カードの裏に、印がついている。
いわゆるマークド・カード。
おそらく、ディーラーもグルだ。
ここは王都の裏カジノ「黄金の胃袋」。
王都で最も金払いがよく、そして最も評判の悪い賭場。
ヴィクトルは、この店で何度も、何度も負けてきた。
当然だ。最初から勝てるようにできていなかったのだから。
(……ふざけやがって)
腹の底から、冷たい怒りが湧き上がってくる。
前世の俺は、イカサマの濡れ衣を着せられて全てを失った。
そして今世の俺は、本物のイカサマで全てを奪われかけている。
いいだろう。
カードの勝負では、もう勝てない。三パーセントの手札で、相手は全てを見通している。
だが――ポーカーは、手札だけで決まるゲームじゃない。
◆
「伯爵様、どうなさいました? チェックですか、それとも……降りますか?」
ルッツがにやにやと笑う。野次馬たちも、俺が無様に降りるのを期待していた。
「いや」
俺はゆっくりと、テーブルに肘をついた。
「少し、カードの裏を眺めていた。いい柄だな、この店のカードは。凝ってる」
ルッツの頭上の数字が、ぴくりと揺れた。
【ルッツが降りる確率:1% → 6%】
――動いた。
この数字は、固定されたものじゃない。状況や、人の心の動きに合わせて変化する。
なら、これはただの占いじゃない。
ソナーだ。
言葉を投げる。数字の揺れを見る。その揺れで、相手の内側を測る。
(面白い)
前世でも、相手の表情や仕草から手札を読む技術――テル読みは得意だった。
だが、この眼があれば、その精度は桁違いになる。
俺は、ディーラーに視線を移した。
「なあ、ディーラー。この店の担当審問官は、どなただったかな」
「……は、はい?」
ディーラーの手が止まる。ルッツの数字が跳ねる。
【ルッツが降りる確率:6% → 23%】
この世界には「審問官」という役人がいる。
賭けと運命の女神フォルトゥナに仕える神殿の人間で、賭場の不正を取り締まる権限を持つ。
カードに印をつけるような悪質なイカサマが露見すれば、店は営業停止。
関わった人間は、最悪の場合、首が飛ぶ。
もちろん、こんな店のことだ。担当の審問官なんてとっくに買収済みだろう。
だが、問題はそこじゃない。
――今夜、この大勢の客の前で、カードの裏を調べられること。
それ自体が、この店にとっては致命傷になる。
「いや、なに。最近、物忘れがひどくてね」
俺はわざとらしく額を押さえた。
「ところで、この勝負が終わったら、使ったカードを記念にもらって帰ってもいいかな?
裏の柄が気に入ったんだ。
屋敷で、じっくり眺めたい」
周囲がざわめく。何を言っているのか分からない、という顔だ。
だが、分かる人間には分かる。
【ルッツが降りる確率:23% → 41%】
ルッツの額に汗が浮かぶ。視線が、ちらりと上へ泳いだ。
俺もつられたふりをして、視線を上げる。
吹き抜けになった二階の手すり。
そこに、でっぷりと太った男が立っていた。
十本の指すべてに金の指輪をはめ、毛皮のガウンを羽織っている。
この店の支配人、ドルマン。
ヴィクトルに多額の金を貸し付け、屋敷の財産を少しずつ吸い上げてきた男だ。
(ドルマンが、ルッツに『降りろ』と合図を出す確率は?)
【18%】
まだ足りない。
もう一押しだ。
俺は、手元に残った全てのチップを両手でつかみ、テーブルの中央へ押し出した。
「オールインだ」
店内が、どよめいた。
「正気か?」
「場にキングが二枚だぞ。まさか、キングを持ってるのか?」
「いや、ヴィクトルだぞ? どうせまたハッタリだろ」
俺は野次を無視して、ルッツをまっすぐに見据えた。
「さあ、コールしてくれ、ルッツ。
そうしたら、お互いのカードを全部表にして見せ合おう」
一呼吸置いて、付け加える。
「――ついでに、デッキの残りのカードも全部ひっくり返してな。表も、裏も」
◆
静寂が落ちた。
ルッツの顔から、血の気が引いていく。
【ルッツが降りる確率:41% → 67%】
ルッツは知っている。俺の手札がクズであることを。
コールすれば、九十七パーセントで勝てることを。
だが、コールした瞬間、俺はカードを調べると宣言している。
拒否はできる。
だが大勢の客の前で「カードを見せられない」と言えば、それはもう、イカサマを認めたのと同じだ。
勝てば、店が死ぬ。
降りれば、たかが一勝負を落とすだけ。
計算するまでもない。
俺は、もう一度だけ二階を見上げた。
【ドルマンが降りろと合図を出す確率:18% → 92%】
ドルマンは、表情一つ変えなかった。
ただ、手すりに置いた太い指で、とん、とん、と二回、木を叩いた。
それだけだった。
「……降りる」
ルッツが、絞り出すような声で言った。
二枚のカードを伏せたまま、テーブルの中央へ放り投げる。
一瞬の静寂。
そして、店内が爆発した。
「降りたぁ!?」
「キングが二枚の場で、ルッツが降りたぞ!」
「まさかヴィクトルの手、キングのスリーカードかよ!」
勝手な憶測が飛び交う中、俺は表情を変えずにチップの山を引き寄せた。
その一番上から、銀の指輪をそっと拾い上げる。
サファイアが、シャンデリアの光を受けてきらりと光った。
(ごめんな。あんたの息子は、大馬鹿だったよ)
顔も知らないはずの母親に、心の中で謝る。
不思議なことに、胸の奥がずきりと痛んだ。
たぶん、これはヴィクトルの痛みだ。
俺は指輪を自分の指にはめると、伏せたままの手札――
クラブの七とダイヤの二を、誰にも見せずにディーラーへ返した。
勝率三パーセントの手で、俺は勝った。
カードの勝率と、勝負の勝率は、違う。
この眼が見せる数字は、絶対の真実じゃない。
あくまで「その瞬間」の確率だ。
そして、その確率は――人の手で、言葉で、動かせる。
◆
チップを換金し、店を出ようとした時だった。
「ずいぶんと冴えていらっしゃいますな、伯爵様」
ねっとりとした声が、背後からかかった。
振り返ると、ドルマンがいた。
近くで見ると、その巨体は小山のようだった。
左耳に、小さな巻き貝のような飾りをつけている。
「いつもの伯爵様なら、あそこで勝負を投げることはあっても、相手を降ろすことなど決してなさらない。
……今夜は、別人のようですな」
「たまには、運が向く夜もあるさ」
「運、ですか。ふふ」
ドルマンは、細い目をさらに細めた。
「では、その運が尽きる前に、改めてお伝えしておきましょう。
伯爵様が当店に負っている借金――金貨十万枚。
返済期限は、今日から三十日後です」
十万枚。
ヴィクトルの記憶が、その数字の重さを教えてくれる。
ラングレー伯爵家の領地収入、十年分以上。
到底、返せる額ではない。
「期限までにお返しいただけない場合は……そうですな。
伯爵家の爵位と、お屋敷と――ああ、可愛い妹君もいらっしゃいましたな」
ドルマンの笑みが、深くなった。
「担保として、全て頂戴いたします。どうか、お忘れなきよう」
(この男が、俺から全てを奪いに来る確率は?)
【99%】
ああ、そうだろうな。
俺は何も言わず、ドルマンに背を向けた。
出口へ向かう途中、ふと、一つのテーブルが目に入った。
ブラックジャックの台。
カードを配っているのは、銀色の髪を肩で切りそろえた、若い女のディーラーだった。
灰色の瞳。人形のように整った、感情の読めない横顔。
カードを配る指先は、驚くほど美しく、一切の無駄がない。
ヴィクトルの記憶にも、彼女の名前があった。
ノエル。この店で一番の腕を持つ、看板ディーラー。
(この女が、イカサマをする確率は?)
何気なく、そう問いかけた。
そして、俺は息を呑んだ。
【??】
数字が、なかった。
どれだけ目を凝らしても、彼女の上に浮かぶのは、揺らめく二つの疑問符だけ。
ノエルが、ふと顔を上げた。
灰色の瞳と、目が合う。
ほんの一瞬。
彼女は何かを確かめるように俺を見つめ――何事もなかったかのように、次のカードを配り始めた。
【??】
疑問符は、まだそこにある。
「……何者だ、あんた」
誰にも聞こえない声で、俺は呟いた。
三十日後、俺は全てを失う。
だが、その前に――。
この店のイカサマ師どもから、一枚残らず取り立ててやる。




