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【第3部スタート】ギャンブル中毒で放蕩三昧の悪役貴族、破滅ルートをひっくり返す  作者: 有馬 茶
第三章 女神祭編 〜七つの賽と百の壁〜

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第29話 完敗、ふたたび


「では、問おう」


宰相ギルベルトは、女神の賽を左手に握り込んだまま、穏やかに言った。


大広間の喧騒が、いつの間にか静まっていた。

決勝の勝敗は決した。

だが、観客たちは、二人の間で交わされた私的な賭けの行方に、興味津々で耳を傾けている。


アレンが、立会人として俺の隣に立った。

その手の中で、銀の徽章が光を帯びている。

この先、俺が口にすることは、全て女神の鐘に試される。


「ヴィクトル・ラングレー」


ギルベルトの冷たい目が、まっすぐに俺を射抜いた。


「その眼を得るために、君は、何を差し出した?」


――大広間が、ざわめいた。


その眼。観客たちには、何のことか分からないだろう。

だが、ギルベルトは知っている。

俺が、確率を見る眼を持っていることを。


そして、その眼が、何かと引き換えに得たものだということも。


(……何を、差し出した?)


俺は、自分の記憶を探った。


前世の俺――黒崎透は、雨の交差点でトラックに撥ねられて死んだ。

そして、目覚めたら、この世界のヴィクトル・ラングレーになっていた。

この眼は、その時から、ただそこにあった。


何かを差し出した覚えは、ない。


だが、ヴィクトルの記憶の奥には、あの霧がある。

ノエルに関わる記憶が、すっぽりと抜け落ちた、厚い霧が。


その霧の向こうに、答えがあるのかもしれない。


「……知らない」


俺は、正直に答えた。


大広間が、しんと静まり返った。


鐘は、鳴らなかった。


ギルベルトは、しばらく黙って俺を見ていた。それから、ふっと口元を緩めた。


「ほう。本当に、知らないのか」


その声には、驚きと、それ以上に、愉快そうな響きがあった。


「なるほど。

器は代わっても、中身は何も聞かされていないというわけか。

……女神も、残酷なことをする」


「何の話だ」


「賭けは、一つの問いに一つの答え。君は答えた。清算は済んだよ」


ギルベルトは、席を立った。


だが、去り際に、もう一度振り返った。


「ああ、そうだ。

賭けとは関係なく、一つだけ試してみたまえ、伯爵。

……立会人の前で、こう言ってごらん」


ギルベルトの唇が、ゆっくりと弧を描いた。


「『俺の魂は、俺のものだ』と」


  ◆


意味が、分からなかった。


俺の魂が、俺のものでなくて、誰のものだというのか。


だが、ギルベルトの目は、確信に満ちていた。

百パーセントの確信。

この男は、俺がその言葉を口にした時に何が起きるかを、知っている。


言うべきではない。直感が、そう告げていた。


だが――言わなければ、俺は一生、その答えから逃げ続けることになる。


「……俺の魂は」


アレンが、はっとしたように俺を見た。


「俺のものだ」


――りぃぃん。


大広間に、鐘の音が響き渡った。


これまで聞いた中で、一番大きく、一番澄んだ、そして一番残酷な鐘の音だった。


俺は、その場に凍りついた。


嘘を、ついた。


俺は今、嘘をついたことになっている。


俺の魂は、俺のものじゃない。


アレンの顔が、蒼白になっていた。

立会人として、鐘の音を誰よりも信じてきた男が、

信じられないものを見るような目で、自分の手の中の徽章を見つめている。


ノエルが、俺の袖を、ぎゅっと掴んだ。


「……やはりな」


ギルベルトは、満足そうに頷いた。


「君の魂は、もう女神の賭け金だよ、伯爵。君が知ろうと知るまいと、ね」


「……どういう、意味だ」


「いずれ、思い出すだろう。

あるいは、思い出さないまま、全てを取り立てられるかもしれない。

それもまた、一興だ」


ギルベルトは、法衣の裾を翻した。


そして、大広間中に聞こえる声で宣言した。


「王冠杯の優勝者として、国王陛下への願いの権利は――しかるべき時に、使わせていただこう」


(宰相が、その願いを、ノエルに関わることに使う確率は?)


【100%】


ギルベルトの姿が、大広間の奥の扉の向こうに消えていった。


  ◆


屋敷に戻ったのは、夜も更けてからだった。


誰も、ほとんど口をきかなかった。


リリアは、何があったのか分からないまま、皆の沈んだ顔を不安そうに見回していた。

ラットは、珍しく黙りこくって、俺の後ろをついてきた。

ゴードンは、昨夜のセブンとの一件から、まだ立ち直れていないようだった。


皆が部屋に下がった後も、ノエルだけは、屋敷に残っていた。


天秤亭には戻らず、客間に泊まると言ったのだ。

大会が終わり、もう女神の客人ではなくなったノエルを、一人で帰すわけにはいかなかった。


廊下の窓辺で、ノエルは夜空を見上げていた。


「……眠れないのか」


「あなたこそ」


ノエルは、振り返らずに言った。


「さっきの鐘のこと、考えてた。あなたの魂が、あなたのものじゃないって」


「俺にも、さっぱり分からない」


「怖くないの?」


俺は、少し考えた。


怖くないと言えば、嘘になる。

自分の魂が、知らないうちに誰かの賭け金になっている。

いつ取り立てられるのかも、分からない。


だが――。


「前の俺は、何もかもを失って死んだ。

賭けに負けて、仲間に見捨てられて、酒に溺れて、雨の交差点で」


俺は、窓の外の星空を見上げた。


「だから、今こうしてここにいるだけで、もう十分すぎるくらいの配当をもらってるんだ。

リリアがいて、ゴードンがいて、ラットがいて、アレンがいて……」


「……私は?」


ノエルが、小さな声で言った。


俺は、ノエルの横顔を見た。


灯籠の残り火のような、淡い月明かりが、その頬を照らしていた。


「お前がいるから、怖くないんだ」


ノエルは、何も言わなかった。


ただ、窓枠に置いた俺の手の上に、自分の手を、そっと重ねた。


冷たくて、細い指だった。でも、その指は、かすかに温かかった。


「……おやすみなさい、ヴィクトル」


ノエルは、客間の方へ歩いていった。


俺は、重ねられた手の温もりが消えるまで、窓辺に立ち尽くしていた。


  ◆


書斎で一人、暖炉の火を見つめていると、扉が叩かれた。


「入るぞ」


アレンだった。手には、古びた書物を抱えている。


「神殿の書庫から、持ち出してきた。……許可は取っていない」


「審問官が、規則違反か」


「監察対象が、魂を担保に取られているらしいのでな。非常時だ」


アレンは、書物を机の上に広げた。

黄ばんだ羊皮紙に、古い文字がびっしりと書かれている。


「『女神との賭け』についての記録だ。数百年前の神学者が書き残したものらしい」


アレンは、ある頁を指差した。


「……王都の北のはずれに、今は使われていない旧神殿がある。

数百年前、女神フォルトゥナの神託が下された場所だ。

言い伝えでは、そこでは、人が直接、女神と賭けをすることができたという」


「女神と、直接……」


「賭けに勝てば、女神は一つ、どんな願いでも叶える。だが、負ければ――」


アレンは、言葉を切った。


「――賭けたものは、必ず取り立てられる。たとえそれが、魂であっても」


暖炉の薪が、ぱちりと崩れた。


「二百年前を最後に、その旧神殿で女神と賭けをした者の記録はない。

女神の目が閉じられてからは、旧神殿の扉も開かなくなったと言われている」


「女神の目が、閉じられてから?」


「ああ。

大神殿の女神像の目は、昔は開いていたそうだ。

今は閉じているがな。……十年前に、閉じた」


十年前。


リュミエールが滅び、女神の賽が奪われた年。


  ◆


アレンが帰った後、俺は書斎の椅子にもたれかかって、目を閉じた。


魂を、賭けた。


元のヴィクトルが、旧神殿で、女神と賭けをしたのだろうか。

だが、十年前から旧神殿の扉は開かないはずだ。

それに、何のために。


――どうしても、助けたい人がいるんだ。


リリアが聞いた、二年前のヴィクトルの言葉。母の肖像画の前で、泣きながら。


――そのためなら、俺は何を賭けてもいい。


そして、破り取られた契約書の一文。


『ただし、身柄の引き渡しの後、ヴィクトル・ラングレーは、直ちに……』


断片が、霧の中で揺れていた。


意識が、少しずつ遠のいていく。


夢うつつの中で、俺は、見たことのない場所に立っていた。


崩れかけた石の柱。蔦に覆われた天井。雪が吹き込む床。


その奥に、一体の女神像が立っていた。大神殿のものよりずっと古く、ずっと小さな像。


その目が、開いていた。


そして、その足元に、一人の少年が膝をついていた。


亜麻色の髪。痩せた背中。十七歳くらいだろうか。


少年は、女神像を見上げて、何かを叫んでいた。

声は聞こえない。

だが、その唇の動きだけは、はっきりと見えた。


――俺の、魂を、賭ける。


少年が、振り返った。


その顔は――。


「……っ!」


俺は、椅子から跳ね起きた。


暖炉の火は、もう熾火になっていた。窓の外が、白み始めている。


額に、びっしりと汗をかいていた。


夢の中の少年の顔は、霧に溶けて、もう思い出せなかった。


だが、一つだけ、確かなことがあった。


あの少年の頭上には、数字が浮かんでいた。


【0%】


――勝てない賭けだと、知っていて。


それでも、あいつは賭けたのだ。

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