第30話 七番目の賽
決勝から三日が過ぎた夕暮れ時。
ラングレー伯爵家の屋敷の門を、一人の男が叩いた。
黒い外套に、灰色の髪。
歳は四十を少し過ぎたくらいだろうか。
顔には、仮面はつけていなかった。
だが、その声を聞いた瞬間、俺には分かった。
「……ヴィクトル・ラングレーに、会いに来た」
セブンだった。
玄関ホールに通すと、セブンは無言で周りを見回した。
磨かれた床。戻ってきた絵画。
階段の手すりに残る、リリアの落書きの跡。
そして、ホールの奥に立つ、白髪の老執事に目を留めた。
ゴードンは、その場から一歩も動けずにいた。
「……ユリウス」
セブンは、しばらくゴードンを見つめていた。
その目には、決勝前夜の袋小路で見せた、氷のような冷たさはなかった。
代わりに、何か、もっと複雑なものが渦巻いていた。
「話は、後だ」
セブンは、ゴードンから視線を外した。
「まずは、伯爵に伝えなければならないことがある」
◆
書斎に集まったのは、俺とノエル、アレン、ゴードン、そしてセブンの五人だった。
「単刀直入に言う」
セブンは、椅子に座ることもなく、壁にもたれたまま口を開いた。
「七つの賽の主、胴元は、宰相ギルベルトだ」
予想はしていた。だが、本人の口から聞くと、その重さは格別だった。
「二十年前、ギルベルトは先代の胴元を賭けで破り、その座を奪った。
そして十年前、ガルディア帝国の皇帝と密約を結んだ。
帝国にリュミエールを攻めさせる代わりに、自分はリュミエールの宝物庫にある、ただ一つのものを手に入れる、と」
「……女神の賽」
ノエルが、かすれた声で言った。
セブンは、頷いた。
「女神フォルトゥナが、この世界に最初に振ったと言われる賽だ。
あれを握って宣言したことは、全て確定する。
どんな偶然も、どんな加護も、あれの前では意味をなさない」
「なぜ、そんなものが、リュミエールにあった」
アレンが、低い声で尋ねた。
「リュミエール王家は、女神から賽を預かる守り手だった。
賽の力を使わず、ただ守り続けることが、王家の務めだった。
……少なくとも、俺はそう聞いている」
ノエルが、小さく頷いた。
「お父様は、言っていたわ。
賽は、決して振ってはならないものだって。
女神が人に預けたのは、使うためじゃなく、誰にも使わせないためだって」
「だが、ギルベルトは使った」
セブンの声に、苦いものが混じった。
「賽が奪われたあの年から、女神フォルトゥナの目は閉じられた。
大神殿の女神像も、旧神殿の女神像も。
賽を失った女神は、この世界を見ることができなくなったんだ」
十年前に、閉じた。
アレンが持ってきた古文書の記録と、ぴたりと重なる。
「ギルベルトは、この十年、賽の力で王国を思うままに動かしてきた。
病床の国王に代わって政を握り、逆らう者は賭けで破滅させ、七つの賽を手足として使った。
――そして今、次の手を打とうとしている」
◆
「次の手?」
「戦だ」
セブンは、窓の外の、北の空を見やった。
「帝国が、再び動く。
今度の標的は、フォルトゥナ王国の北の国境。
……ラングレー領だ」
書斎の空気が、凍りついた。
「北の丘陵の魔石鉱脈。
ヴェルナー家に買い占めさせようとして、伯爵に阻まれたものだ。
賭けで奪えないなら、戦で奪う。
帝国にラングレー領を攻めさせ、鉱脈を帝国のものにする。
その見返りに、帝国はギルベルトに――」
セブンは、ノエルを見た。
「リュミエールの王女の身柄を、引き渡す」
ノエルの肩が、びくりと跳ねた。
「王冠杯が終わって、姫はもう女神の客人ではない。
神前法の庇護は、なくなった。
戦が始まれば、王国は戦時の法に移る。
宰相が全権を握り、誰を拘束しようと、誰も文句は言えなくなる」
「……なぜ、ギルベルトはそこまでして、ノエルを欲しがる」
俺が尋ねると、セブンは少しだけ黙った。
「詳しいことは、俺にも分からない。
だが、ギルベルトは言っていた。
『賽を完全に私のものにするには、王家の血が要る』と」
ノエルが、自分の胸元をぎゅっと押さえた。
「それと、もう一つ」
セブンは、俺の方を向いた。
「決勝前夜に言ったことだ。ギルベルトにも、確定できないものがある」
俺は、身を乗り出した。
「人の心だ」
セブンは、静かに言った。
「賽は、出来事を確定させる。
コインの裏表も、カードの順番も、剣の当たり外れも。
だが、人が何を選ぶか、何を想うか――それだけは、確定できない。
だからギルベルトは、人を脅し、買収し、マリオネッタのような者に操らせる。
心を直接確定できないから、心の外側を固めるんだ」
人の心は、確定できない。
俺の眼が、ノエルの心だけを映さないように。
「……だが、それは、お前のものじゃない」
セブンは、決勝前夜と同じ言葉を繰り返した。
「伯爵。
お前が確定を破るためには、お前ではない誰かの心が要る。
お前がどれだけ賢くても、それだけは、お前の手札にはない」
◆
話を終えると、セブンは窓から出ていこうとした。
「待ってくれ」
呼び止めたのは、ゴードンだった。
老執事は、深く頭を下げたまま、震える声で言った。
「ユリウス。
……わたくしは、お前と母さんを、置いて逃げた。
それは、どんな言い訳をしても、許されることではない」
セブンの背中が、止まった。
「だが、一つだけ、知っておいてほしい。
わたくしは、あの冬、雪の中で倒れて、ひと月の間、目を覚まさなかった。
目覚めてから、何度も手紙を書いた。
お前たちを迎えに行く、と。
四十年間、毎年、お前の誕生日に……」
「知ってる」
セブンが、振り返らずに言った。
ゴードンが、顔を上げた。
「ひと月前、ギルベルトの書庫で、それを見つけた」
セブンの声が、かすかに揺れた。
「お前の手紙だ。四十年分。
全部、賽が途中で握りつぶしていた。
封も、切られていなかった」
ゴードンが、言葉を失った。
「……それを見つけた夜に、決めたんだ。賽を、裏切ると」
セブンは、窓枠に手をかけた。
「まだ、許したわけじゃない。四十年は、長すぎる」
そして、ほんの一瞬だけ、肩越しに振り返った。
「だが、手紙は、全部読んだ。……字が、相変わらず下手くそだな、親父」
セブンの姿が、夜の闇に消えていった。
ゴードンは、窓辺に立ち尽くしたまま、長い間、動かなかった。
その肩が、静かに震えていた。
俺は、ノエルとアレンに目配せをして、そっと書斎を出た。
この老人には、一人で泣く時間が必要だった。
◆
夕食の席は、いつになく静かだった。
ゴードンは、厨房に下がったまま、なかなか出てこなかった。
リリアは、何かがあったことを察したのか、黙ってスープを口に運んでいた。
「なあ、伯爵様」
ラットが、パンをちぎりながら、ぽつりと言った。
「ゴードンのじいさん、息子がいたんだな」
「ああ」
「……俺さ、親の顔を知らねえって言っただろ」
ラットは、ちぎったパンを見つめた。
「ずっと、親なんかいなくても平気だって思ってた。
でも、さっきのじいさんの顔見てたら、なんか……
もし俺の親もどっかで生きてて、俺のこと探してたらって、ちょっとだけ考えちまった」
リリアが、ラットの袖をそっと引いた。
「ラットくんには、わたしたちがいるよ」
ラットは、一瞬きょとんとして、それから顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……べ、別に、寂しいとか言ってねえし」
俺は、二人の様子を見ながら、少しだけ笑った。
血の繋がりがなくても、家族になれる。四十年離れていた親子が、また言葉を交わせる。
この屋敷には、そういうものが集まってくるのかもしれない。
厨房の扉が開いて、ゴードンが戻ってきた。
目元はまだ少し赤かったが、背筋はいつものようにまっすぐに伸びていた。
「失礼いたしました。食後の紅茶を、お持ちいたします」
「ゴードン」
「はい、坊ちゃま」
「よかったな」
ゴードンは、一瞬だけ動きを止めた。それから、深々と頭を下げた。
「……はい」
◆
その夜遅く。
屋敷の門が、激しく叩かれた。
ゴードンが扉を開けると、泥にまみれた伝令兵が、転がり込むように入ってきた。
肩には、ラングレー領の北の砦の紋章。
「伯爵様! ラングレー伯爵様はおられますか!」
「ここだ。何があった」
伝令兵は、荒い息を吐きながら叫んだ。
「北の国境で、狼煙が上がりました!
ガルディア帝国軍が、国境を越えて侵攻を開始!
その数、およそ一万!
ラングレー領の北の砦に向かって、進軍中です!」
屋敷中が、凍りついた。
リリアが、階段の上で寝間着のまま立ち尽くしていた。ラットが、その肩を抱いている。
ノエルが、俺の隣で、北の空を見上げた。
窓の外、遥か北の地平線が、かすかに赤く染まっていた。
狼煙の、炎の色だった。
(この戦が、宰相の手で仕組まれたものである確率は?)
【100%】
俺は、拳を握りしめた。
――テーブルの上で、勝負をつけるつもりだった。
だが、相手はテーブルごと、ひっくり返しに来た。
なら。
「ゴードン。馬を用意してくれ」
俺は、外套を掴んだ。
「王宮へ行く。――この戦争、俺が賭けの卓に乗せてやる」




