第28話 百パーセントの男
女神祭の最終日。
王冠杯の決勝は、王宮の大広間で行われた。
玉座の間を改装した会場には、王国中の貴族と、各国の大使と、選ばれた市民たちが詰めかけていた。
高い天井から下がる無数のシャンデリアが、大理石の床を眩しく照らしている。
玉座には、誰も座っていなかった。病床の国王は、今年も姿を見せないらしい。
中央に置かれた黒檀の台の向こうに、宰相ギルベルトが座っていた。
黒い法衣。後ろに撫でつけた銀髪。穏やかな微笑み。
その後ろには、相棒として、全身を銀の鎧で固めた大柄な騎士が控えている。
近衛騎士団長、ヴォルフ。
そして、ギルベルトの左手は、膝の上で軽く握られたままだった。
「よく来たね、ラングレー伯爵」
ギルベルトは、まるで旧知の友人を迎えるように言った。
「ジャック、クロノス、ツヴァイの双子、マリオネッタ。
七つの賽の四人を退けて、ここまで来た。
見事な腕前だ。
……もっとも、私には最初から分かっていたがね。
君が、ここまで来ることは」
(宰相が、この決勝の結果を知っている確率は?)
【100%】
「立会人」
ギルベルトが、アレンの方を見た。
「勝負の前に、賭けるものを決めたい。
王冠杯の優勝者には、国王陛下への願いの権利が与えられる。
それとは別に、我々二人の間で、一つ賭けをしようじゃないか」
「……何を賭ける」
俺が尋ねると、ギルベルトは穏やかに微笑んだ。
「負けた方は、勝った方の問いに一つ、真実で答える。
立会人の鐘の前でね。それだけだ」
拍子抜けするほど、軽い賭けだった。
「伯爵位でも、領地でも、命でもない。
たった一つの問いと、たった一つの答え。
……どうかね?」
(この賭けを受けて、俺が不利になる確率は――)
問いを立てかけて、やめた。俺自身の選択が絡むことは、この眼には見えない。
「なぜ、そんなものを賭ける」
「私はね、伯爵。もう、欲しいものは全て手に入れる予定なのだよ」
ギルベルトは、ノエルの方に、ちらりと視線を向けた。
「だから、君からは、一つだけ教えてもらえればいい。……君が、何者なのかをね」
鐘は、鳴らなかった。
◆
「ヴィクトル」
台につく直前、ノエルが俺の袖を引いた。
「勝てなくても、いいから」
「……何を言ってる」
「あの人は、普通じゃない。
準決勝の時から、ずっと嫌な予感がしてるの。
だから、勝てなくても、無事に戻ってきて」
ノエルの灰色の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
俺は、ノエルの頭に、ぽんと手を置いた。
「心配するな。賭けるのは、たった一つの問いだけだ。命までは取られない」
「……約束よ」
観客席では、大掛かりな賭けが行われていた。
掲示板には、決勝の倍率が大きく書き出されている。
『宰相ギルベルト組勝利 一・〇一倍』
『ヴィクトル・ラングレー組勝利 三十倍』
王冠杯を勝ち上がってきた俺でさえ、三十倍。
王都の誰もが、宰相の勝利を疑っていなかった。
まるで、最初から結果が決まっている勝負のように。
「勝負は、コインで」
ギルベルトが、法衣の懐から一枚の金貨を取り出した。
表には女神の横顔、裏には天秤が刻まれている。
「五回勝負。
交互にコインを弾き、もう一方が表か裏かを言い当てる。
三回当てた方の勝ちだ。
……単純な方が、分かりやすいだろう?」
アレンが徽章を掲げ、神卓が降臨した。
大広間が、金色の光に包まれる。
「一回目。弾くのは、ラングレー伯爵。言い当てるのは、宰相閣下」
俺は、金貨を親指に乗せた。
この勝負、俺が弾く時は、ギルベルトが言い当てる。
ギルベルトが弾く時は、俺が言い当てる。
前世で、コイン投げを何千回とやってきた。
ゴードンほどではないが、狙った面を出す技術もある。
だが、それはイカサマだ。俺は使わない。
普通に、弾く。
金貨が、くるくると回転しながら宙に舞い上がった。
(表が出る確率は?)
【50%】
当然だ。
「表」
ギルベルトが、静かに言った。
その瞬間。
【表が出る確率:100%】
――跳ねた。
金貨が、台の上に落ちる。からん、と音を立てて、表を上にして止まった。
女神の横顔が、シャンデリアの光を受けて輝いていた。
「宰相閣下、一点」
大広間が、拍手に包まれた。
俺は、ギルベルトの左手を見ていた。膝の上で、軽く握られたまま。一度も開かれない。
(あの左手の中に、何かがある確率は――)
違う。それは、今の事実だ。読めない。
◆
「二回目。弾くのは、宰相閣下。言い当てるのは、ラングレー伯爵」
ギルベルトが、右手の親指で金貨を弾いた。
(表が出る確率は?)
【50%】
まだ、揺らいでいる。
俺は、口を開きかけて――止めた。
一回目、ギルベルトが「表」と言った瞬間に、数字は百に跳ねた。
セブンの言葉が正しいなら、ギルベルトは宣言したことを確定させられる。
なら、俺が言い当てる側の時は、どうなる?
俺が「表」と言った後に、ギルベルトが心の中で「裏」と宣言すれば――。
試してみるしかない。
「表」
俺が言った瞬間、数字が動いた。
【表が出る確率:0%】
【裏が出る確率:100%】
――やはりか。
金貨が落ちる。裏。天秤の紋様が、上を向いていた。
「宰相閣下、二点」
ギルベルトは、声にも出していない。唇すら動かしていない。
ただ、膝の上の左手が、ほんのわずかに、力を込めて握られただけだった。
声に出さなくても、宣言できる。あの左手の中の何かを握るだけで。
「……一つ、提案がある」
俺は、ギルベルトを見た。
「次の回から、言い当てる側は、コインが台に落ちて、手で覆われてから答えることにしたい。
宙に浮いている間は、答えない」
コインが台に落ちて止まった後なら、結果はもう決まっている。
今の事実だ。確定させる余地は、もうない。
ギルベルトが、目を細めた。
「ほう。面白い。……構わんよ」
◆
「三回目。弾くのは、ラングレー伯爵。言い当てるのは、宰相閣下」
俺は、金貨を弾いた。
宙に舞う金貨を、台の上で受け止め、手のひらで覆う。結果は、まだ誰も見ていない。
(表が出ている確率は――)
問いを立てる前に、数字が見えた。
【表:100%】
コインが宙を舞っている間に、すでに確定されていたのだ。
「表」
ギルベルトが、俺の手が覆いかぶさった瞬間に、悠々と答えた。
手をどける。表だった。
「宰相閣下、三点。――勝者、宰相ギルベルト組」
大広間が、割れんばかりの拍手に包まれた。
あっけなかった。
ジャックとの読み合いも、クロノスとの持久戦も、双子との心理戦も、何もない。
ただ三回、コインが弾かれ、三回とも、ギルベルトの言う通りの面が出た。
それだけで、王冠杯は終わった。
俺は、自分の手のひらを見下ろした。さっきまで金貨を覆っていた手。
ギルベルトは、俺が金貨を弾いた瞬間に、宣言していたのだ。
宙に浮いている間に、「表で落ちる」と。
そして、手で覆った時には、もう結果は決まっていた。
コインが落ちてから答える、という俺の提案など、何の意味もなかった。
言い当てる側が答えるより前に、弾いた瞬間に確定させればいい。
ギルベルトは、そうしただけだ。
「――悪くない提案だったよ、伯爵」
ギルベルトが、穏やかに言った。
「普通の相手なら、それで勝負になっただろう。
だが、私の前では、未来は宣言した時点で決まる。
君がいつ答えようと、関係ない」
ギルベルトの左手が、台の陰で、ゆっくりと開かれた。
観客席からは見えない角度。
俺とノエルにだけ見せるように。
その手のひらの上に、一つのサイコロが載っていた。
象牙のように白い、だが、どこか透き通った、不思議な輝きを放つサイコロ。
六つの面には、目の代わりに、見たことのない古い文字が刻まれていた。
ノエルが、息を呑んだ。
「……女神の、賽」
かすれた声だった。
「リュミエール王家が守ってきた……女神フォルトゥナが、この世界に最初に振ったという、サイコロ……」
ギルベルトは、愛おしそうに、その賽を指で撫でた。
「よく覚えていたね、姫」
俺たち二人にしか聞こえないほどの、低い声だった。
「十年前、君の父上の宝物庫から、私が頂いたものだ」
ノエルの顔から、血の気が引いていった。
大広間の観客たちは、何も気づかずに、新しい王冠杯の覇者に拍手を送り続けていた。
ギルベルトは、賽を再び左手に握り込み、俺を見た。
「さて、伯爵。賭けの清算をしようか」




