第27話 仮面の第七席
決勝の前夜、王都は女神祭の最後の夜を祝う灯籠で埋め尽くされていた。
大通りの両側に、何千という紙の灯籠が吊るされている。
橙色の柔らかな光が、石畳を、行き交う人々の顔を、ゆらゆらと照らしていた。
「お兄さま、ノエルさん! あっちで、灯籠を川に流せるんだって!」
リリアが、俺とノエルの手を引っ張った。
「願い事を書いて流すと、女神様が叶えてくれるんだって!」
「ラット、リリアから目を離すなよ」
「分かってるって、伯爵様」
ラットが、苦笑しながらリリアの後を追いかけていく。
ゴードンは、少し離れたところから、その様子を目を細めて眺めていた。
決勝の相手が決まってから、二日。
俺は、ほとんど眠らずに、宰相ギルベルトについて調べられることを全て調べた。
アレンに神殿の加護録を当たってもらい、
ラットに裏の情報を集めさせ、ゴードンに七つの賽の古い記憶を思い出してもらった。
だが、何も分からなかった。
神殿の加護録に、宰相ギルベルトの名前はなかった。
七つの賽の誰も、彼の加護について口を割らなかった。
ゴードンが賽を抜けた四十年前には、まだギルベルトは胴元の座についていなかった。
アレンは、神殿の書庫に三晩こもった。
王国中の加護持ちの名前が記された加護録を、一頁ずつめくっていった。
「ない」
三日目の朝、目の下に隈を作ったアレンが、天秤亭の事務室に現れて言った。
「ギルベルトの名前は、加護録のどこにもない。
生まれた年も、生まれた家も、記録が抜け落ちている。
……誰かが、意図的に消したとしか思えない」
ラットも、王都の裏を駆け回ってくれた。
「宰相の屋敷に出入りしてる下働きに、片っ端から当たってみた。
でも、誰も何も知らねえ。
いや、知ってるのかもしれねえけど、宰相の名前を出しただけで、みんな青い顔して逃げてっちまう」
ゴードンは、四十年前の記憶を手繰ってくれた。
「わたくしが賽にいた頃、胴元の座についていたのは、別の男でございました。
ギルベルトという名は、聞いたことがございません。
……ただ」
「ただ?」
「賽の中には、昔から一つの言い伝えがございました。
『いつか、女神そのものを握る者が現れる。
その者が胴元となった時、賽は、王国そのものを賭けの卓に載せるだろう』と」
女神そのものを、握る者。
その言葉が、なぜか耳の奥にこびりついて離れなかった。
分かっているのは、一つだけ。
あの男に関する確率は、全てが百パーセントだということ。
「……ヴィクトル」
隣を歩くノエルが、小さな声で言った。
「眉間に、皺が寄ってる」
「そうか?」
「ずっと、そう。決勝の相手が決まってから」
ノエルは、立ち止まって、俺の顔を見上げた。
「少しだけ、休んだら?」
「……休んでる場合じゃないだろう。明日は――」
「明日のことは、明日考えればいいの」
ノエルは、俺の手を取った。
そして、通りの先の広場を指差した。
広場の中央では、楽団が陽気な曲を奏で、王都の人々が輪になって踊っていた。
貴族も、平民も、関係なく。
「舞踏会には、私は入れなかったけど」
ノエルは、少しだけ視線を逸らした。
「あれなら、誰でも入れるわ」
◆
ノエルの踊りは、驚くほど上手だった。
当然かもしれない。
王女として、幼い頃から宮廷の作法を叩き込まれていたのだろう。
ステップの一つ一つが、軽やかで、正確だった。
俺の方が、何度も足をもつれさせた。
「下手ね」
「舞踏会の時は、もう少しましだったんだがな」
「誰と踊ったの?」
「……元婚約者と」
ノエルの足が、わずかに止まった。
「そう」
それだけ言って、ノエルはくるりと回った。
銀色の髪が、灯籠の光を受けて、きらきらと舞った。
俺は、その姿に、一瞬だけ見とれた。
(ノエルが、今――)
問いを立てかけて、やめた。
どうせ、疑問符しか出ない。
そして、それでいいのだと、この頃は思うようになっていた。
この女の心だけは、数字で知りたくない。
曲が終わると、周りの人々が拍手をした。
リュミエールの王女が、広場で踊っていると気づいた者もいたのだろう。
何人かが、ノエルに向かって、帽子を胸に当てて頭を下げていた。
準決勝の朝の、帝国大使の一件以来、王都の人々のノエルを見る目は、変わっていた。
ノエルは、少し戸惑ったように、小さく会釈を返した。
◆
川辺には、灯籠を流す人々が列を作っていた。
小さな紙の灯籠に、筆で願い事を書く。
それを川面に浮かべると、橙色の光が、ゆっくりと下流へ流れていく。
何百、何千という光の帯が、夜の川を埋め尽くしていた。
リリアは、真剣な顔で筆を握り、小さな字で何かを書いていた。
「何て書いたんだ?」
「ないしょ!」
リリアは灯籠を胸に抱えて、ぷいと顔を背けた。
後ろから覗き込んだラットが、にやりと笑った。
「『お兄さまが、もう悲しい顔をしませんように』だってよ」
「ラットくん!」
リリアが真っ赤になって、ラットの背中をぽかぽかと叩いた。
俺は、思わず目頭が熱くなった。
ノエルも、灯籠に何かを書いていた。筆を持つ手が、何度も止まっては、また動く。
「お前は、何を書いた」
「……教えない」
ノエルは、灯籠をそっと川面に浮かべた。
一瞬だけ、灯籠の側面に書かれた文字が見えた。
リュミエールの古い文字だった。俺には読めない。
「何て書いてあるんだ?」
「読めないなら、それでいいの」
ノエルは、流れていく灯籠を、じっと見送っていた。
(ノエルの願いが、叶う確率は?)
【??】
願いの中身すら分からないのに、問いを立てても仕方がない。
それでも、俺は心のどこかで、その疑問符が少しでも明るく光ってくれることを願っていた。
俺自身は、灯籠に何も書かなかった。
願いは、女神に頼むものじゃない。自分の手で、勝ち取るものだ。
川辺で灯籠を流した後、俺は一人、路地裏に入った。
用を足すため、と言ってきたが、本当は違う。
さっきから、誰かに見られている。
(俺の後をつけている者が、この先の角で姿を現す確率は?)
【94%】
角を曲がると、灯籠の明かりも届かない、暗い袋小路だった。
その奥に、一人の男が立っていた。
黒い外套に、白い仮面。
仮面には、七つの点が刻まれていた。
サイコロの七の目――そんなものは本来存在しないが、七つの賽の第七席を示す印なのだろう。
「ヴィクトル・ラングレー」
仮面の奥から、低い声が響いた。四十代くらいの、落ち着いた男の声だった。
「お前が、七つの賽の第七席か」
「そう呼ばれている。セブン、と」
男は、仮面を外さなかった。
「警告しに来た。……明日の決勝、降りろ」
「降りろ?」
「お前は、宰相に勝てない。誰も、あの男には勝てない。降りれば、命だけは助かる」
(この男が、俺を罠にかけようとしている確率は?)
【8%】
低い。少なくとも、今この場で俺を害するつもりはないらしい。
「なぜ、俺に警告する。お前は、七つの賽の一人だろう」
セブンは、しばらく黙っていた。
「……賽の席に座っているからといって、賽のために生きているとは限らない」
仮面の奥の声が、わずかに揺れた。
「宰相の加護について、教えてやる。
あの男は、ある『もの』を持っている。
それを握って宣言したことは、全て、確定する」
「確定……」
「百パーセントになる、ということだ。
『このコインは表が出る』と宣言すれば、表が出る。
『この者は死ぬ』と宣言すれば――」
セブンは、そこで言葉を切った。
「お前の眼が何を見ているのかは知らない。
だが、宰相の前では、どんな眼も、どんな加護も、意味をなさない。
確定された未来は、誰にも覆せない」
ゼロと百は、動かせない。
それは、この眼に目覚めた最初の日に、俺自身が確かめたことだった。
「……一つだけ、聞かせろ」
俺は、セブンの仮面をまっすぐに見た。
「宰相の確定には、本当に、何の穴もないのか」
セブンは、答えなかった。
長い沈黙の後、仮面の奥から、ぽつりと声が漏れた。
「確定できないものも、ある。……だが、それが何かを知っても、お前には使えない」
「なぜだ」
「それは、お前のものではないからだ」
◆
その時、袋小路の入り口に、足音もなく一つの影が立った。
ゴードンだった。俺の帰りが遅いのを心配して、探しに来たのだろう。
ゴードンは、仮面の男を見て、その場に凍りついた。
「……その、声は」
ゴードンの声が、震えていた。
セブンの肩が、びくりと跳ねた。
「ユリウス……? ユリウスなのか?」
老執事が、一歩、前に踏み出した。
その瞬間、セブンの全身から、氷のような冷気が立ちのぼった。
「――その名で、呼ぶな」
仮面の奥の声が、低く、鋭く変わった。
「お前に、その名で呼ぶ資格はない。母さんと俺を置いて、一人で逃げた男に」
ゴードンの顔から、血の気が引いていった。
「ユリウス、わたくしは……」
「四十年だ」
セブンは、ゴードンに背を向けた。
「四十年間、俺は賽の中で生きてきた。
裏切り者の息子として。
母さんが病で死んだ時も、お前は来なかった。
……今さら、父親面をするな、影のゴードン」
セブンの姿が、袋小路の壁を蹴って、宙に舞い上がった。屋根の上へ。
その身のこなしは、ゴードンにそっくりだった。
「ユリウス!」
ゴードンの叫びは、夜空に吸い込まれていった。
屋根の上に、もう人影はなかった。
◆
ゴードンは、長い間、その場に立ち尽くしていた。
俺は、何も言えずに、その背中を見ていた。
やがて、ゴードンはゆっくりと振り返った。
いつもの、穏やかな執事の顔だった。
だが、その目元が、わずかに濡れていた。
「……お見苦しいところを、お見せいたしました」
「ゴードン」
「坊ちゃま。明日は、決勝でございます。早くお休みにならなければ」
ゴードンは、それ以上何も語らなかった。
屋敷への帰り道、俺は一度だけ、夜空に問いを立てた。
(明日の決勝で、宰相ギルベルトが負ける確率は?)
【0%】
ゼロ。
揺らぎすらない、完全なゼロ。
(……分かってたさ)
俺は、懐の白い石を握りしめた。ノエルと石当てをした、あの夜明けの石だ。
セブンは言った。
宰相にも、確定できないものがあると。
だが、それはお前のものではないから、使えないと。
確定できないもの。俺のものではないもの。
答えは、まだ見えなかった。
前を歩くノエルの銀色の髪が、灯籠の光の中で揺れていた。
その頭上には、いつものように、疑問符が二つ浮かんでいた。




