第25話 暴かれた王女
準決勝の朝、王都の空気は一変していた。
大通りの掲示板という掲示板に、同じ貼り紙が貼られていた。
『王冠杯出場者、天秤亭のディーラー・ノエルの正体は、
十年前に滅びた北の王国リュミエールの王女、ノエル・リュミエールである』
その下には、精巧な肖像画まで添えられていた。
銀色の髪、灰色の瞳。間違いなく、ノエルの顔だった。
「……昨夜のうちに、王都中に貼られたらしい」
天秤亭の事務室で、ラットが悔しそうに言った。
手には、剥がしてきた貼り紙が何枚も握られている。
「剥がしても剥がしても、きりがねえ。下町の連中まで、もうみんな知ってる」
「七つの賽の仕業だな」
俺は、貼り紙を握りつぶした。
招待状には、辞退すれば正体を明かすと書いてあった。
俺は辞退していない。なのに、連中は約束を破った。
――いや、最初から、約束を守るつもりなどなかったのだろう。
ノエルは、窓辺に立って、外の通りを見下ろしていた。
通りを行く人々が、天秤亭の看板を見上げては、ひそひそと何かを囁き合っている。
「ノエル」
「……大丈夫よ」
ノエルは、振り返らずに言った。
「いつか、こうなると思ってた。十年間、ずっと」
その声は静かだった。だが、窓枠を握る指先が、白くなっていた。
◆
準決勝の会場は、これまでにない数の観客で埋め尽くされていた。
賭けの勝負を見に来た客だけではない。
滅びた王国の王女を一目見ようという、物見高い野次馬たちだ。
俺とノエルが入場すると、会場中の視線が、一斉にノエルに突き刺さった。
「あれが、リュミエールの王女……」
「本当に、銀色の髪だ」
「賭場のディーラーなんかやってたのか、王女様が」
ノエルは、背筋を伸ばして前を向いていた。表情一つ変えずに。
だが、勝負が始まる前に、それは起きた。
「――待たれよ!」
観客席の最前列から、一人の男が立ち上がった。
鷲鼻の、四十がらみの男だった。
深紅の軍服に、黒い鷲の紋章。
北の大国、ガルディア帝国の紋章だ。
「ガルディア帝国、王都駐在大使、ザイフェルト伯爵である!」
男の声が、会場に響き渡った。
「そこにいる女、ノエル・リュミエールは、十年前、我が帝国に刃を向けたリュミエール王家の生き残りである!
帝国は、この女の身柄の引き渡しを、フォルトゥナ王国に正式に要求する!」
会場が、騒然となった。
衛兵たちが、ざわめきながら顔を見合わせる。
王国の兵が、帝国の大使の要求に従うべきかどうか、判断がつかないのだ。
ザイフェルトの後ろから、帝国の護衛兵が数人、こちらへ向かって歩き出した。
ノエルの体が、こわばった。
俺は、ノエルの前に一歩出た。
「待て」
護衛兵たちの足が、止まった。
「この女性は、王冠杯の出場者だ。勝負の場に、許可なく兵を入れるのか?」
「黙れ、小僧!」
ザイフェルトが、怒鳴った。
「これは国と国の問題だ! 一介の伯爵風情が、口を挟むことではない!」
「――いいや」
静かな、だがよく通る声が、会場に響いた。
立会人席から、アレンが立ち上がっていた。銀の徽章を、高く掲げて。
「女神フォルトゥナの神前法、第七条」
アレンの声は、揺るぎなかった。
「『神前勝負の出場者は、その勝負が終わるまで、女神の客人である。
何人も、王であれ皇帝であれ、女神の客人の身を拘束することはできない』」
会場が、静まり返った。
「ノエル・リュミエールは、王冠杯の出場者だ。
大会が終わるまで、彼女の身柄は、女神フォルトゥナの庇護のもとにある。
――これに逆らう者は、女神に逆らう者とみなす」
ザイフェルトの顔が、引きつった。
帝国もまた、女神フォルトゥナを信仰する国の一つだ。
女神に逆らうと宣言されて、公然と兵を動かせる者はいない。
護衛兵たちが、困惑したようにザイフェルトを振り返った。
◆
ザイフェルトは、ぎりりと歯を噛みしめた。
だが、すぐに表情を取り繕い、会場中に向かって声を張り上げた。
「よかろう! 大会が終わるまでは待とう! だが、王国の民よ、よく聞け!」
ザイフェルトは、ノエルを指差した。
「リュミエール王家は、十年前、我が帝国に宣戦を布告し、自ら滅びの道を選んだのだ!
帝国は、その侵略から自国を守ったに過ぎない!
この女は、戦を起こした罪深き王家の血を引く者なのだ!」
観客席が、ざわめいた。
「宣戦布告……?」
「リュミエールの方から攻めたのか?」
「なら、帝国が怒るのも無理はないか……」
空気が、変わり始めていた。
ノエルの肩が、かすかに震えた。
「……嘘よ」
ノエルが、絞り出すような声で言った。
「リュミエールは、戦なんて望んでいなかった。
帝国が、何の前触れもなく、冬の夜に攻めてきたの。
お父様は、最後まで和平の使者を送ろうとしていた……!」
「女の言うことなど、誰が信じる!」
ザイフェルトが、鼻で笑った。
「十年前、お前はまだ八つの子供だったではないか。何を知っているというのだ!」
観客席の空気は、まだ揺れていた。
帝国の大使と、滅びた国の王女。
どちらの言葉を信じるべきか、人々は迷っている。
(ザイフェルトの言葉を、このまま観客が信じる確率は?)
【58%】
――まずい。
ここで流れを変えなければ、ノエルは「戦を起こした罪人の娘」として、王都中の敵意を浴びることになる。
大会が終わった後、帝国が彼女を引き渡せと迫った時、王国の民はそれを止めようとしないだろう。
だが、こちらには、この世界で一番強い証人がいる。
「大使殿」
俺は、静かに言った。
「今の言葉を、もう一度、立会人の前で言ってもらえないか」
ザイフェルトが、眉をひそめた。
「何だと?」
「ここは、神前勝負の場だ。
そして、そこにいる審問官の前では、誰も嘘をつけない。
嘘をつけば、女神の鐘が鳴る」
俺は、アレンを振り返った。アレンは、黙って頷いた。
「大使殿が本当のことを言っているなら、鐘は鳴らない。
王女の方が嘘をついていることになる。
――さあ、もう一度言ってくれ。
『リュミエール王家が、先に帝国に宣戦を布告した』と」
会場中の視線が、ザイフェルトに集まった。
ザイフェルトの額に、汗が浮かんだ。
(ザイフェルトが、もう一度同じことを言う確率は?)
【23%】
――言えないだろう。
だが、言わなければ、それはそれで「嘘だった」と認めるのと同じだ。
ザイフェルトは、しばらく口をぱくぱくと動かしていた。
やがて、追い詰められた獣のように、叫んだ。
「リュ、リュミエール王家は、帝国に宣戦を――」
――りぃぃん。
澄んだ鐘の音が、会場の隅々まで響き渡った。
◆
静寂の後、会場は怒号に包まれた。
「嘘だったのか!」
「帝国の方から攻めたんじゃないか!」
「王女様を、罪人扱いしやがって!」
ザイフェルトは、顔を真っ赤にして、護衛兵たちと共に逃げるように会場を出ていった。
観客席の空気は、完全にひっくり返っていた。
さっきまで好奇の目でノエルを見ていた人々が、今は同情と、そして敬意の混じった目で彼女を見ている。
ノエルは、まだ呆然と立ち尽くしていた。
「……ノエル」
俺が声をかけると、ノエルははっとしたように俺を見た。
その灰色の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「十年間」
ノエルの声が、震えた。
「十年間、誰も、信じてくれなかった。
奴隷商も、ドルマンも、店の客も。
リュミエールは、愚かな戦を起こして自滅した国だって。
私は、その罪深い王家の生き残りだって。
……誰も、本当のことを聞こうとしなかった」
ノエルは、手の甲で涙を拭った。
「……ありがとう」
それだけ言って、ノエルは顔を伏せた。
俺は何も言わずに、ノエルの頭に、そっと手を置いた。
◆
その時、会場の貴賓席から、ゆったりとした拍手が聞こえてきた。
見上げると、黒い法衣の男が、一人で手を叩いていた。
宰相ギルベルト。
「見事だ、ラングレー伯爵」
ギルベルトは、穏やかに微笑んでいた。
「神前の鐘を使って、帝国の大使に嘘を吐かせるとは。なかなか、面白い手を使う」
「……お褒めにあずかり、光栄です」
「だが、一つだけ忠告しておこう」
ギルベルトは、ノエルに視線を移した。
その目は、まるで、手に入れることが決まっている品物を眺めるような目だった。
「大会は、いずれ終わる。
そして、大会が終わった後――姫の処遇を決めるのは、この私だ」
(宰相が、大会の後、ノエルを手に入れる確率は?)
【100%】
――また、百だ。
この男の未来は、どこまでも揺らがない。
「楽しみにしているよ、伯爵。決勝で会えることを」
ギルベルトは、法衣の裾を翻して、貴賓席を去っていった。
◆
アレンが、準決勝の組み合わせを読み上げた。
「準決勝。
ヴィクトル・ラングレー組、対、マリオネッタ組。
――勝負は、本日の午後とする」
マリオネッタ。七つの賽の一人。
シャッテンの言葉が、頭の中でよみがえる。
――あの女は、勝負の相手を操るんじゃない。勝負の「周り」を操る。
俺は、観客席を見回した。
満員の観客。熱狂する群衆。その中の何人かに、何気なく問いを立ててみた。
(あの男が、次に立ち上がる確率は?)
【100%】
(その隣の女が、次に叫び声を上げる確率は?)
【100%】
(あそこの老人が、手に持った杖を振り上げる確率は?)
【100%】
背筋が、凍った。
観客席のあちこちに、百パーセントの数字が浮かんでいた。
まだ何も起きていない。誰も立ち上がっていないし、叫んでもいない。
だが、この連中が次に何をするかは、もう決まっている。
誰かが、決めている。
「……ノエル」
俺は、ノエルの手を握った。
「今日の勝負、何があっても、俺から離れるな」




