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【第3部スタート】ギャンブル中毒で放蕩三昧の悪役貴族、破滅ルートをひっくり返す  作者: 有馬 茶
第三章 女神祭編 〜七つの賽と百の壁〜

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第23話 三秒の時計師


二回戦の相手、クロノス・ヴァイスは、驚くほど若い男だった。


歳は、俺と同じくらいだろうか。

艶のある黒髪に、白い手袋。

胸元には、銀の懐中時計がいくつも鎖でぶら下がっている。

整った顔立ちに、どこか人を見下したような冷たい笑みを浮かべていた。


『時計師クロノス』。七つの賽の一人。


「よろしく、伯爵」


クロノスは、懐中時計の一つを指で弾いた。


「ジャックを倒したそうだね。

でも、僕はジャックほど甘くないよ。

……もっとも、君には分からないだろうけど」


「どういう意味だ」


「さあね」


クロノスは、くすくすと笑った。


今日の勝負は、ルーレットだった。


台の中央に、赤と黒の数字が並んだ円盤。その前に、俺とクロノスが並んで座る。


「勝負の作法を説明する」


立会人のアレンが、進み出た。


「毎回、ディーラーが球を投げ入れる。

球が回っている間に、双方は赤か黒かを紙に書き、伏せて台に置く。

締め切りの鐘が鳴った後は、書き換えは許されない」


アレンは、指を一本立てた。


「球が止まった時、自分だけが色を当てていれば、一点。

双方が当てた場合、あるいは双方が外した場合は、点は動かない。

先に五点を取った方の勝ちとする」


単純な勝負だ。純粋に、運だけの勝負。


赤か黒か。どちらを書いても、当たる確率は二分の一。

そして、相手だけが外れる確率は、四分の一。


――普通なら、な。


「始め」


神卓が、金色に輝いた。


  ◆


一回目。


ディーラーが、球を円盤に投げ入れた。からからと、白い球が縁を回り始める。


(球が、赤に止まる確率は?)


【49%】


赤と黒が十八ずつ。緑の零が一つ。まともな数字だ。


俺は、赤と書いて伏せた。クロノスも、何かを書いて伏せた。


締め切りの鐘が鳴る。


球が減速し、数字の溝の上で跳ね――黒の十一に落ちた。


クロノスが、紙を表に返した。黒。


俺は、赤。外れた。


「クロノス・ヴァイス、一点」


クロノスが、楽しそうに微笑んだ。


二回目。俺は黒、クロノスは黒。球は黒に落ちた。双方的中、点は動かない。


三回目。俺は黒、クロノスは赤。球は赤に落ちた。


「クロノス・ヴァイス、二点」


四回目。俺は赤、クロノスは赤。赤に落ちた。点は動かない。


五回目。俺は黒、クロノスは赤。赤。


「クロノス・ヴァイス、三点」


観客席が、ざわめき始めた。


「おい、クロノスの奴、一度も外してないぞ」

「五回連続で当ててる……」


その通りだ。クロノスは、五回全て当てている。


赤か黒か、二分の一の勝負を、五回連続で当てる確率は――三十二分の一。

ありえないとは言わないが、偶然と片付けるには少し出来すぎている。


そして、俺は気づいていた。


クロノスの黒髪の、こめかみのあたり。一回目には、なかったものがある。


白髪が、一筋。


いや、よく見ると、三筋に増えていた。


  ◆


六回目。


ディーラーが、球を投げ入れた。


(球が赤に止まる確率は?)


【49%】


俺は、赤と書いた。クロノスも、何かを書いて伏せた。


締め切りの鐘が鳴る。


その瞬間だった。


【球が赤に止まる確率:49% → 0%】

【球が黒に止まる確率:49% → 100%】


数字が、跳ねた。


同時に、クロノスのこめかみに、新しい白髪が一筋、すっと現れた。

まるで、目の前で一瞬にして色が抜けたかのように。


球は、黒に落ちた。


クロノスが紙を返すと、黒と書いてあった。


「クロノス・ヴァイス、四点」


(……そういうことか)


俺は、伏せた自分の紙を見下ろした。赤と書いてある。


なぜ、締め切りの鐘が鳴った瞬間に、数字が百に跳ねたのか。


ゼロと百は、誰かが結果を「決めた」時、あるいは結果を「知っている」時にしか現れない。

ゴードンがコインを掴んだ時のように。

ドルマンの手下が、デッキを並べた時のように。


クロノスは、球がどこに落ちるかを、もう知っている。


なぜ、知っているのか。


――一度、見たからだ。


「伯爵」


クロノスが、懐中時計の蓋を、ぱちんと閉じた。


「顔色が悪いよ。……もしかして、何か気づいた?」


「お前の加護は、時間を戻す力だな」


クロノスの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。


「三秒か、五秒か。

毎回、球がどこに落ちるかを一度見てから、時間を巻き戻す。

そして、締め切りの鐘が鳴る前に戻って、紙を書き換える。

……お前だけは、球がどこに落ちたかを覚えている」


アレンが、眉をひそめてクロノスを見た。


「本当か、クロノス・ヴァイス」


クロノスは、しばらく黙っていた。


それから、肩をすくめた。


「隠すつもりもないよ。

僕の加護は『三秒の巻き戻し』。

神殿の加護録にも、ちゃんと載っている。正当な力さ。

毎回、一度だけ未来を覗いて、答えを書く。

それだけのことだよ」


鐘は、鳴らなかった。


「ただし、三秒だけだ。それより前には戻れない。

だから、球が締め切りから三秒以内に落ちる、このルーレットは――僕のための勝負なんだよ」


クロノスは、白髪の混じり始めた前髪をかき上げた。


「時を戻すたびに、少しずつ老ける。それが代償だ。

でも、たかが数年の寿命で、王冠杯の優勝が買えるなら、安いものだろう?」


観客席が、ざわめいた。


あと一点で、クロノスの勝ちだ。


そして、クロノスは毎回、答えを見てから時間を巻き戻す。

俺がどれだけ当てても、クロノスが外れない限り、俺には点が入らない。


――絶対に、負けない男。


普通なら、そう思うだろう。


  ◆


七回目。


ディーラーが、球を投げ入れた。


(球が赤に止まる確率は?)


【49%】


俺は、紙とペンを手に取ったまま、何も書かずに待った。


クロノスが、何かを書いて伏せる。


締め切りの鐘が、鳴りかけた。


その瞬間。


【球が黒に止まる確率:100%】


――戻したな。


クロノスのこめかみに、また一筋、白髪が増えた。


クロノスは、いつものように球の行方を一度見てから、時間を三秒巻き戻したのだろう。

今はもう、球が黒に落ちることを知っている。


だが、クロノスが知っているということは――。


俺は、締め切りの鐘が鳴り終わる直前に、紙に「黒」と書いて伏せた。


球は、黒に落ちた。


クロノスは黒。俺も黒。


「双方的中。点は動かない」


クロノスの眉が、ぴくりと動いた。


八回目。


締め切りの直前に、数字が百に跳ねる。

クロノスの白髪が増える。

俺は、百になった方の色を書く。


双方的中。点は動かない。


九回目。十回目。十一回目。


同じことが、繰り返された。


クロノスが時を戻すたびに、未来は百に固定される。

そして、固定された未来は、俺の眼にも見える。

クロノスが知っている答えを、俺も知ることができる。


――時を戻すたびに、こいつは俺に答えを教えてくれているんだ。


  ◆


十五回目を過ぎたあたりで、クロノスの顔から余裕が消えた。


「……なぜだ」


クロノスの声が、わずかに上ずっていた。


「なぜ、お前は外さない。お前は時を戻せないはずだ。

なのに、なぜ毎回、僕と同じ色を……」


「さあな。運がいいんだろう」


鐘は、鳴らない。運がいいのは本当だ。

この眼を持って生まれ変わったことが、運でなくて何だというのか。


クロノスの唇が、震えた。


そして、俺は見た。


十六回目。

締め切りの鐘が鳴る直前、クロノスの髪から、ごそりと色が抜けた。

一筋どころではない。

前髪の半分ほどが、一瞬にして真っ白になったのだ。


観客席から、悲鳴が上がった。


(……何度、戻した)


一度や二度ではない。十回か、二十回か。


俺が同じ色を書いている限り、クロノスに点は入らない。

だからクロノスは、俺が外れる時間の流れを探して、何度も何度も時を戻しているのだ。

だが、時を戻すたびに未来は固定され、俺はその色を書く。

何度繰り返しても、結果は同じだ。


それでも、クロノスはやめられない。


自分が勝つ未来が、どこかにあるはずだと信じて。


「クロノス」


俺は、静かに言った。


「もう一度、やり直してみるか?」


クロノスの目が、恐怖に見開かれた。


その目尻に、深い皺が刻まれていた。

さっきまで俺と同じくらいに見えた顔が、今は四十を過ぎた男のように見える。


「ば、化け物め……」


十七回目。


ディーラーが球を投げ入れる。クロノスの手が、震えながらペンを握った。


締め切りの鐘が鳴る直前、数字が百に跳ねた。


クロノスの黒髪が、根元から全て、雪のように白く染まった。


そして、クロノスの体が、ぐらりと傾いた。


椅子から崩れ落ち、床に倒れ込む。

胸元の懐中時計が、じゃらじゃらと音を立てて散らばった。


「クロノス!」


相棒の男が駆け寄り、その体を抱き起こした。

クロノスは、浅い息を繰り返しながら、虚ろな目で天井を見上げていた。


その顔は、もう六十を過ぎた老人のそれだった。


  ◆


「クロノス・ヴァイス、勝負の続行は不可能と判断する」


アレンが、静かに宣言した。


「よって、勝者――ヴィクトル・ラングレー組」


観客席は、歓声というよりも、どよめきに包まれていた。

誰も、目の前で起きたことを、うまく呑み込めていないようだった。


俺は、席を立って、床に倒れたクロノスの前にしゃがみ込んだ。


「……なぜだ」


クロノスが、かすれた声で言った。


「僕は、何度も、何度も戻した。百回以上だ。なのに、お前は、一度も……」


「お前が時を戻すたびに、未来は決まる。決まった未来は、俺には見える」


俺は、床に散らばった懐中時計の一つを拾い上げ、クロノスの手に握らせた。


「お前は、俺に勝つためにやり直したつもりだったんだろう。

だが、実際には――やり直すたびに、俺に答えを教えていたんだ」


クロノスの目から、一筋の涙がこぼれた。


「……たかが、数年の寿命だと思ってたんだ」


「数年じゃ済まなかったな」


俺は、立ち上がった。


「勝てない勝負から降りられない奴は、いつか全部を失う。……前の俺も、そうだった」


相棒の男が、無言で一枚の黒いカードを台の上に置いた。

七つのサイコロの紋章。その二つ目に、赤い×印。


控え室への通路で、ノエルが待っていた。


「……少し、顔色が悪いわ」


「大丈夫だ」


本当は、少しだけ気分が悪かった。


クロノスは、自分で選んで時を戻し続けた。

俺は、何もしていない。ただ、見ていただけだ。


それでも、一人の若い男が、目の前で四十年分の人生を失った。


ノエルは、何も言わずに、俺の手を一瞬だけ握った。


冷たくて、細い指だった。


「次は、双子よ」


ノエルが、組み合わせ表を見上げて言った。


「リヒトとシャッテン。二人で一つの運を分け合う、七つの賽の三席目」

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