第22話 読心のジャック
王冠杯の本戦は、王宮の大回廊を改装した特設の会場で行われた。
高い天井に、無数の魔石の燭台。
中央に置かれた一つの賭博台を、階段状の観客席がぐるりと取り囲んでいる。
王都中から集まった観客で、席は一つ残らず埋まっていた。
「一回戦! ヴィクトル・ラングレー組、対、ジャック・ルーセル組!」
司会の声に、観客席がどっと沸いた。
台の向こう側に、一人の男が座っていた。
片眼鏡をかけた、三十代半ばの伊達男だった。
派手な紫のベストに、金の懐中時計の鎖。
整えた口髭の下で、薄い唇がにやにやと笑っている。
ジャック・ルーセル。七つの賽の一人、『読心のジャック』。
その後ろには、黒いドレスの女が無言で控えていた。ジャックの相棒らしい。
俺の後ろには、ノエルが立っている。
「やあ、伯爵殿。噂はかねがね」
ジャックが、片眼鏡を指で押し上げた。
「ドルマンの店を潰し、必中のカインを破った男。
どんな頭の中をしているのか、楽しみにしていたよ」
「期待外れでも、文句は言わないでくれ」
「はは。それは、覗いてみてのお楽しみだ」
立会人席から、アレンが進み出た。
「勝負はホールデム。
双方、百枚のチップから始め、どちらかが尽きるまで続ける。
なお、打ち手の相棒は、打ち手の後ろに立つことのみ許される。
助言は禁ずる」
アレンが徽章を掲げると、台の上に金色の光が満ちた。神卓の降臨だ。
勝負が、始まった。
◆
最初の十ハンドで、俺は三十枚を失った。
理由は、すぐに分かった。
俺が手札を見る。その瞬間、ジャックの口元がわずかに緩む。
(ジャックが、このハンドで勝負に出る確率は?)
手札を見る前は、【45%】。
手札を見た直後は、【88%】――俺の手が弱い時。
あるいは【7%】――俺の手が強い時。
ドルマンとの勝負の時と、同じだ。俺が手札を見た瞬間、ジャックの判断が跳ねる。
だが、ドルマンの時とは違って、ここには鏡もなければ、囁き貝もない。
後ろに立っているのは、ノエルだけだ。
ゴードンの言葉が、頭の中でよみがえる。
――相手の頭の中に浮かんだカードの絵柄が、そのまま見える。
「どうしたのかね、伯爵殿」
ジャックが、楽しそうに言った。
「スペードの四とハートの九。それでは、なかなか勝負に出られないねえ」
観客席が、ざわめいた。
俺は、伏せていた二枚のカードを、ゆっくりと表に返した。
スペードの四。ハートの九。
「……おいおい、当てたぞ」
「あれが、読心の加護……」
ジャックは、肩をすくめた。
「おっと、失礼。つい口が滑った。
だが、隠しても無駄だということは、分かってもらえたかな?
君が手札を見た瞬間、その絵柄は、君の頭の中に鮮やかに浮かび上がる。
私には、それが手に取るように見えるのさ」
アレンが、眉をひそめてジャックを見た。だが、何も言わなかった。
加護は、正当な力だ。ジャックは何も不正をしていない。
「……なるほどな」
俺は、カードをディーラーに返した。
(頭の中に浮かんだ、カードの絵柄、か)
ジャックが見ているのは、俺の頭の中の「絵」だ。
なら、確かめておきたいことがある。
(このハンドで、俺が勝つ確率は?)
心の中で、そう問いを立てた。まだ、手札は見ていない。
【52%】
数字が浮かぶ。
俺は、ジャックの顔を見た。片眼鏡の奥の目は、つまらなそうに俺を眺めていた。
(ジャックが、このハンドで勝負に出る確率は?)
【45%】
――動かない。
俺の頭の中には、今、「五十二」という数字が浮かんでいる。
だが、ジャックの判断は、まったく変わらなかった。
ジャックに見えるのは、カードの絵柄だけだ。数字は、見えていない。
◆
次のハンドから、俺は手札を見るのをやめた。
二枚のカードが配られても、伏せたまま、指一本触れない。
「……伯爵殿?」
ジャックが、怪訝そうに眉を上げた。
「手札を、見ないのかね?」
「ああ。今日はもう、見ないことにした」
観客席が、ざわめいた。
「手札を見ないで、どうやって勝負するんだ?」
「ついに諦めたか?」
俺は、伏せたままの二枚に、問いを立てた。
(この手札で、このハンドに勝つ確率は?)
【61%】
これからめくられる未来の確率なら、手札を見なくても読める。
「レイズ。十枚」
ジャックの片眼鏡の奥で、目が細くなった。
俺の頭の中を覗いているのだろう。
だが、そこにカードの絵柄はない。
俺自身が、自分の手札を知らないのだから。
(ジャックが、コールする確率は?)
【38%】
迷っている。
「……降りよう」
ジャックは、カードを放り投げた。
俺は、伏せたままの手札を、見もせずにディーラーに返した。
「伯爵殿。君、本当に何も見ていないのかね?」
「見てない」
鐘は、鳴らない。
ジャックの顔から、余裕の笑みが少しずつ消えていった。
◆
それから二十ハンドほど、勝負は一進一退になった。
俺は、手札を見ずに、眼の数字だけを頼りに賭けた。
勝率が高い時は攻め、低い時は降りる。
ジャックの読心は、もう何の役にも立たない。
だが、それだけでは、ジャックを倒すには足りなかった。
ジャックは、伊達に七つの賽の一席に座っているわけではない。
読心がなくても、カードの技術は一流だった。
俺が攻めれば受け流し、俺が引けば踏み込んでくる。
チップは、俺が七十枚。ジャックが百三十枚。
「なかなか面白い手を使うね、伯爵殿」
ジャックが、片眼鏡を拭きながら言った。
「だが、手札を見ないということは、君自身も自分の手を知らないということだ。
いずれ、どこかで破綻する」
その通りだ。
この眼は、勝率は教えてくれる。
だが、手札そのものは教えてくれない。
どんな役ができているのか分からないまま、俺は戦っている。
どこかで、勝負所を見誤るかもしれない。
だから――次の一手で、決める。
新しいハンドが配られた。俺は、伏せたままの二枚に問いを立てた。
(この手札で、このハンドに勝つ確率は?)
【89%】
――来た。
俺は、目を閉じた。
そして、頭の中に、鮮やかに一枚の絵を思い浮かべた。
クラブの七。
もう一枚。
ダイヤの二。
この世界で目覚めた最初の夜、俺の手の中にあった、最弱の二枚。
ドルマンとの決戦でも、なぜか二度も巡ってきた、因縁の手札。
何度も見たカードだ。
その絵柄は、目を閉じても細部まで思い描ける。
クラブの模様の数。ダイヤの角の丸み。
端に刷られた小さな数字。
「――オールイン」
俺は、目を開けて、七十枚のチップを全て前に押し出した。
観客席が、どよめいた。
ジャックが、片眼鏡の奥で、俺の頭の中を覗き込む。
そして、その顔に、ゆっくりと笑みが広がっていった。
「……ほう。クラブの七と、ダイヤの二か」
ジャックは、喉の奥で笑った。
「見ないふりをして、こっそり覗いたのかね?
それとも、やけになったか。
どちらにせよ――最弱の手でオールインとは、君もずいぶんと追い詰められたものだ」
(ジャックが、コールする確率は?)
【97%】
「コールだ」
ジャックは、残りのチップを押し出した。
「私の手は、クイーンのペア。最弱の手に負けるはずがない」
共通カードが、五枚、順番に開かれていく。
ディーラーが、最後の一枚をめくり終えた。
ジャックは、勝ち誇ったように自分のクイーンのペアを表に返した。
「さあ、伯爵殿。君の七と二を、見せてもらおうか」
俺は、伏せたままの二枚のカードに、初めて手を伸ばした。
そして、表に返した。
スペードのエース。ハートのエース。
エースのペア。共通カードのエースと合わせて、エースのスリーカード。
ジャックの笑みが、凍りついた。
「…………は?」
片眼鏡が、ジャックの目からぽろりと落ちた。
「ば、馬鹿な……君の頭の中には、確かにクラブの七と、ダイヤの二が……!」
「ああ。浮かべてたよ。思いっきりな」
俺は、肩をすくめた。
「だが、俺は一度も、それが俺の手札だなんて言ってない。
俺は、自分の手札を見てすらいないんだ。
――今、初めて見た」
鐘は、鳴らなかった。
◆
観客席が、爆発した。
「エースだぁ!」
「七と二じゃなかったのか!?」
「読心のジャックが、読み違えた……!」
ジャックは、呆然と自分の手札を見つめていた。
「……私の読心を、逆に利用したというのか」
「お前の加護は、頭の中の絵柄を読む。
だが、その絵柄が本物かどうかまでは、教えてくれない」
俺は、エースの二枚をディーラーに返した。
「頭の中を覗かれるなら、見せたい絵を見せればいい。それだけのことだ」
ジャックは、しばらく黙っていた。
それから、乾いた声で笑い出した。
「はは……はははは! 面白い! 実に面白い男だ、君は!」
ジャックは、床に落ちた片眼鏡を拾い上げ、ハンカチで拭いた。
その手が、わずかに震えていた。
「十二年だ。
私はこの加護で、十二年間、カードの勝負で一度も負けたことがなかった。
……伯爵殿、君は一体、何が見えているんだね?」
「さあな」
俺は、席を立った。
「少なくとも、お前の頭の中よりは、面白いものが見えてるよ」
アレンが、静かに右手を挙げた。
「勝者、ヴィクトル・ラングレー組」
台の上の金色の光が、ゆっくりと消えていく。
ジャックの後ろに控えていた黒いドレスの女が、無言で一枚のカードを台の上に置いた。
七つのサイコロの紋章が描かれた、黒いカード。
その中の一つのサイコロに、赤いインクで、大きな×印がつけられていた。
「……一つ目だ」
ジャックが、自嘲するように呟いた。
「伯爵殿。次の相手は、私ほど甘くはないよ。
クロノスは、時間そのものを相手にする男だ」
◆
控え室に戻ると、ノエルが、何か言いたそうな顔で俺を見ていた。
「どうした」
「……クラブの七と、ダイヤの二」
ノエルは、小さな声で言った。
「あなたが、最初に私の店で負けかけた夜の手札でしょう?」
「よく覚えてるな」
「ディーラーは、テーブルの上のことは全部覚えてるもの」
ノエルは、少しだけ視線を逸らした。
「……あの夜のあなたを、私、ずっと見てたから」
(ノエルが、今、照れている確率は?)
【??】
俺は、聞くのをやめて、天井を見上げた。
――この眼が見えなくて、よかったのかもしれない。




