第21話 女神祭
「四十年前、わたくしは『影のゴードン』と呼ばれておりました」
深夜の書斎で、老執事は静かに語り始めた。
暖炉の火が、皺の刻まれた横顔を赤く照らしている。机の上には、七つのサイコロが描かれた黒いカード。
「七つの賽は、王国の裏で賭けを支配する七人の加護持ちの集まりでございます。表の賭場も、裏の賭場も、貴族同士の神前勝負でさえも、あの者たちが望めば、望む通りの結果になる。そして、七人の上には――『胴元』と呼ばれる、ただ一人の主がおりました」
「お前は、その七番目だった」
「はい。わたくしの加護は『影歩き』。足音を消し、気配を消し、人の声を写し取る。……賭場で人の手札を盗み見て、主に囁く。それが、わたくしの役目でございました」
鏡の裏の隠し部屋。囁き貝。眼鏡の男の声色。
ドルマンとの勝負の夜、ゴードンが見せた手際の良さ。その理由が、ようやく分かった。
「なぜ、抜けた」
ゴードンは、しばらく黙って炎を見つめていた。
「ある冬、賽の命令で、北の小さな村の領主を賭けで破滅させました。領主は全てを失い、村は借金のかたに売り払われた。……その冬、村の子供たちが何人も、飢えと寒さで死にました」
老執事の声が、かすかに震えた。
「わたくしは、逃げました。賽を裏切った者は、決して許されない。追手に追われ、雪の中で倒れていたわたくしを拾ってくださったのが――坊ちゃまのお祖父様、先々代の伯爵様でございました」
「それから四十年、ラングレー家に仕えてきたのか」
「はい。……ただ一つ、心残りがございます」
ゴードンは、目を閉じた。
「逃げる時、わたくしには妻と、まだ幼い息子がおりました。二人を連れて逃げることは、叶いませんでした。妻はその後すぐに病で亡くなったと、風の噂で聞きました。息子は……賽に、引き取られたと」
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てて崩れた。
「坊ちゃま。賽の者たちは、本物の化け物でございます。……それでも、王冠杯に出られますか」
俺は、黒いカードを手に取った。
辞退すれば、ノエルの正体が王都中に知らされる。出れば、化け物たちと正面から向き合うことになる。
だが、どちらを選んでも、連中はノエルを狙うことをやめない。
「出る」
俺は、カードを懐にしまった。
「逃げても、追いかけてくる相手なら――テーブルの上で、叩き潰すしかない」
ゴードンは、深く、深く頭を下げた。
◆
女神祭の初日、王都は熱に浮かされていた。
大通りという大通りに露店が並び、色とりどりの旗が風にはためいている。広場では楽団が陽気な曲を奏で、大道芸人がサイコロを宙に放っては、見事に受け止めてみせる。
「お兄さま、見て! あのお菓子、サイコロの形してる!」
「伯爵様、あっちで双六の大会やってるぞ! 賞品が肉一年分だってよ!」
リリアとラットが、あちこちの露店を指差しては目を輝かせていた。
「お二人とも、迷子になりませんよう」
ゴードンが、困ったように二人の後を追いかけていく。昨夜の重い告白が嘘のように、穏やかな執事の顔に戻っていた。
俺の隣を、ノエルが歩いていた。いつもの地味な外套ではなく、王冠杯の出場者に配られた濃紺の礼装を着ている。
「……落ち着かない」
ノエルが、自分の袖を見下ろしてぼそりと言った。
「似合ってるぞ」
「そういうことは、言わなくていいの」
ノエルはぷいと顔を背けたが、その耳の先がほんの少しだけ赤くなっていた。
(ノエルが、今の言葉を嬉しく思った確率は?)
【??】
――分かっている。分かっているが、つい聞いてしまう。
◆
王冠杯の開会式は、王宮前の大広場で行われた。
広場の中央には、巨大な女神フォルトゥナの像が据えられている。天秤とサイコロを掲げ、両目を静かに閉じた姿。その足元に、王国中から集まった三十二組の出場者が並んでいた。
立会人席には、白い制服の審問官たちがずらりと並んでいる。その中に、アレンの姿もあった。大審問官の命令で、今年の王冠杯の公式立会人の一人に選ばれたらしい。目が合うと、アレンは小さく頷いてみせた。
王宮のバルコニーに、一人の男が姿を現した。
銀色の髪を後ろに撫でつけた、五十がらみの痩せた男だった。黒い法衣に、金の鎖。穏やかな微笑みを浮かべているが、その目は、まるで盤上の駒を眺めるように冷たかった。
「宰相、ギルベルト閣下だ」
隣の出場者が、畏れるように囁いた。
宰相ギルベルト。病床の国王に代わって、この十年、王国の政を一手に担ってきた男。
「女神フォルトゥナの御名において、今年の王冠杯の開会を宣言する」
ギルベルトの声は、魔道具で拡声されて、広場の隅々まで響き渡った。
「勝者には、国王陛下に一つ、願いを申し出る権利が与えられる。――諸君の健闘を、女神とともに見守ろう」
広場が、歓声に包まれた。
俺は、何気なくギルベルトに問いを立ててみた。
(宰相が、次に右手を上げる確率は?)
【100%】
――百。
ギルベルトは、ゆっくりと右手を上げ、群衆の歓声に応えた。
背筋に、冷たいものが走った。
(宰相が、この後、バルコニーから下がる確率は?)
【100%】
(宰相が、この大会の結末を知っている確率は?)
【100%】
何を問うても、百。揺らぎすらない。
普通の人間の未来は、いつだって揺らいでいる。迷い、気まぐれ、偶然。どんなに決意の固い人間でも、数字は九十九で止まる。百になるのは、ゴードンがコインを掴んだ時のように、誰かが結果そのものを決めてしまった時だけだ。
なのに、この男の未来は――全てが、最初から決まっているかのようだった。
ギルベルトの冷たい目が、ふと、群衆の中の俺を捉えた気がした。
その唇が、ほんのわずかに弧を描いた。
◆
「予選を始める!」
開会式の後、広場の中央に巨大なガラスの瓶が運び込まれた。人の背丈ほどもある瓶の中に、金貨がぎっしりと詰め込まれている。
「予選は『百人競り』! この瓶の中の金貨の枚数を、各組一度だけ紙に書いて提出せよ! 実際の枚数に近い順に、上位十六組が本戦に進む!」
出場者たちが、ざわめいた。
「こんなの、ただの当てずっぽうじゃないか」
「瓶の大きさから計算するしかない」
「いや、金貨の重さから……」
あちこちで、出場者たちが瓶の周りを歩き回り、目を凝らしていた。
ノエルが、俺の袖を引いた。
「あなたの眼で、分かる?」
「……いや」
俺は、瓶を見上げた。
この眼は、今の事実を直接は読めない。瓶の中に金貨が何枚あるかは、もう決まっている「今」の話だ。問いを立てても、数字は出ない。
だが――。
「未来なら、読める」
俺は、瓶に向かって問いを立てた。
(大会の後、この瓶を割って中の金貨を数えたら、千枚以上ある確率は?)
【100%】
(二千枚以上ある確率は?)
【0%】
千から二千の間だ。
(千五百枚以上ある確率は?)
【0%】
(千二百五十枚以上は?)
【100%】
半分、また半分と、範囲を絞り込んでいく。バルトロの隠し財産の在り処を探った時と、同じやり方だ。
ノエルが、隣でじっと俺の横顔を見ていた。
(千二百八十枚以上は?)
【100%】
(千二百九十枚以上は?)
【0%】
十数回の問いの後、数字は一つに収束した。
(千二百八十四枚、ちょうどである確率は?)
【100%】
俺は、紙に『一二八四』と書いて、ノエルに渡した。
「提出してきてくれ」
ノエルは、紙を受け取って、しばらく俺の顔を見つめていた。
「……あなたの眼って、本当に何でも見えるのね」
「何でもじゃない。お前の心は見えない」
ノエルは一瞬だけ目を見開き、それから、何も言わずに提出台へ歩いていった。
◆
一時間後、予選の結果が発表された。
瓶が割られ、審問官たちの手で金貨が数えられていく。広場中が、固唾を呑んで見守った。
「――金貨、千二百八十四枚!」
「一位、ヴィクトル・ラングレー組! 誤差、零!」
広場が、どよめいた。
「ぴったり!?」
「あの放蕩伯爵が?」
「必中のカインを破ったっていう、あいつか……」
本戦に進む十六組の名前が、次々と読み上げられていく。
俺は、その中のいくつかの名前に注意を向けた。
「――ジャック・ルーセル組」
「――クロノス・ヴァイス組」
「――リヒト・ツヴァイ、シャッテン・ツヴァイ組」
「――マリオネッタ組」
ゴードンから聞いた、七つの賽の二つ名と重なる名前ばかりだった。
そして、最後に読み上げられた名前に、広場が一瞬静まり返った。
「――特別招待枠。王家代表、宰相ギルベルト組」
宰相が、自ら出場する。
バルコニーを見上げると、ギルベルトはもういなかった。
本戦の組み合わせ表が、広場の掲示板に張り出された。
一回戦。ヴィクトル・ラングレー組、対――ジャック・ルーセル組。
「……『読心のジャック』」
いつの間にか隣に戻ってきていたゴードンが、低い声で言った。
「相手の頭の中に浮かんだカードの絵柄が、そのまま見える。そういう加護の持ち主でございます」
俺は、掲示板の名前を見つめた。
頭の中を、読まれる相手。
(明日の一回戦で、ジャックが俺の手札を読む確率は?)
【96%】
――なら、読ませてやればいい。
俺の頭の中に、読む価値のあるものがあるかどうかは、別の話だがな。




