第20話 眼を使わない勝負
夜明け前の天秤亭の屋上に、ノエルはいた。
ひと月前、初めて言葉を交わしたあの夜と同じように、屋上の縁に腰掛けて、白み始めた王都の街並みを見下ろしていた。
「……来ると思った」
振り返らずに、ノエルが言った。
「ここ以外に、お前の居場所を知らないからな」
俺は、少し離れた場所に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
先に口を開いたのは、ノエルだった。
「勝負しましょう」
「勝負?」
ノエルは、屋上の床に転がっていた小さな白い石を一つ拾い上げた。
「石当て。私が、この石をどちらかの手に握る。
あなたは、どちらの手か当てる。
三回勝負で、二回当てたらあなたの勝ち」
「賭けるものは」
「あなたが勝ったら、私の話を聞かせてあげる。私が勝ったら――王冠杯を、辞退して」
ノエルは、両手を背中に回した。
そして、握った拳を二つ、俺の前に突き出した。
「どうぞ。あなたの、確率の見える眼で」
(……知っていたのか)
俺は、驚いてノエルを見た。
「ずっと、不思議だったの。
あなたは、カードの勝率を、まるで見えているみたいに読む。
私のディーリングを見ている時だけ、時々、困ったような顔をする」
ノエルは、静かに言った。
「私のことだけは、見えないんでしょう?」
――鋭い女だ。
俺は、苦笑して、ノエルの拳に問いを立てた。
(ノエルの右手に、石がある確率は?)
【??】
(左手は?)
【??】
やはり、何も見えない。
当然だ。
石をどちらの手に握るかは、ノエル自身が決めたことだ。
ノエルの意志が関わることは、この眼には映らない。
これは、眼を使わない勝負だ。
◆
一回目。
俺は、ノエルの拳を見つめた。
前世で、何千人という相手と向き合ってきた。
人は、迷った時に利き手を選びやすい。
そして、隠し事をする時は、相手から遠い方の手を選びやすい。
ノエルの利き手は右。だが、俺から遠いのも右だ。
「右」
ノエルが、右手を開いた。
空っぽだった。
左手を開くと、白い石が転がり出た。
「一つ目は、私の勝ち」
ノエルは、表情を変えずに言った。
……読み違えた。いや、読まれていたのかもしれない。
俺が、利き手と距離から推理することを。
二回目。
ノエルが、また背中に手を回し、拳を二つ突き出す。
今度は、さっきとは逆を考えた。
一回目で左に隠して勝った。
人は、勝った手をもう一度使いたがる。
だが、ノエルは俺がそう読むことも読んでいるはずだ。
だとすれば、逆を突いて右に変える。
いや、さらにその逆を――。
考えれば考えるほど、迷路に入っていく。
確率が見えない勝負とは、こういうものなのか。
前世の俺は、毎日こんな勝負をしていたはずなのに。
(……違うな)
俺は、ノエルの顔を見た。
灰色の瞳。人形のように整った、感情の読めない顔。
だが、このひと月で、俺はほんの少しだけ、この女のことを知った。
彼女は、どんな相手にも公正にカードを配る。
たとえ支配人に命じられても、イカサマだけは絶対にしない。
それが、たった一つ残った誇りだと言った。
そういう女が、この勝負で、俺の裏をかくための小細工をするだろうか。
「左」
ノエルの左手が開かれた。
白い石が、そこにあった。
「……どうして?」
ノエルが、わずかに目を見開いた。
「一回目で左に隠して勝ったなら、二回目は普通、変えるでしょう?」
「お前は、変えないと思った」
「なぜ」
「お前は、勝つために小細工をするような人間じゃない。
ただ、最初に決めたことを、まっすぐに貫く。
……そういう人間だと思ったからだ」
ノエルは、しばらく黙って俺を見ていた。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなったように見えた。
「……一対一ね」
◆
三回目。
最後の勝負だ。
ノエルは、背中に手を回した。そして、長い間、そのままでいた。
やがて、ゆっくりと、二つの拳が俺の前に差し出された。
俺は、その拳を見つめた。
右か、左か。
推理する材料は、もう何もなかった。
二回目と同じ理屈なら、左。
だが、ノエルはもう、俺が二回目にどう読んだかを知っている。
いくら考えても、答えは出ない。
だから、俺は考えるのをやめた。
「ノエル。俺は、選ばない」
「……え?」
「お前が、開けてくれ」
俺は、自分の両手を、ノエルの拳の下にそっと差し出した。
「もし、俺に話してもいいと思うなら、石の入った手を開いてくれ。
まだ話したくないなら、空の手を。
……どっちでも、俺は従う」
ノエルの拳が、かすかに震えた。
「それじゃあ、勝負にならないわ」
「なるさ」
俺は、まっすぐにノエルの目を見た。
「お前が、俺に賭けるかどうか。それを賭けた勝負だ」
長い、長い沈黙があった。
東の空が、少しずつ明るくなっていく。朝の最初の光が、屋上を照らし始めた。
ノエルは、目を閉じた。
そして、右手を開いた。
小さな白い石が、俺の手のひらの上に、ころりと落ちた。
◆
「私の本当の名前は、ノエル・リュミエール」
朝日の中で、ノエルは静かに語り始めた。
「十年前に滅んだ、北の王国リュミエールの――最後の王女」
予想はしていた。だが、本人の口から聞くと、その重さは格別だった。
「リュミエールの王家には、代々受け継がれてきたものがあったの。
『女神の賽』。
女神フォルトゥナが、この世界に最初に振ったと言われるサイコロ。
王家は、それを守る役目を負っていた」
ノエルは、手の中の石を見つめた。
「十年前の冬、北の帝国が攻めてきた。
お城が燃えて、お父様もお母様も、兄様も……みんな、いなくなった。
近衛の騎士たちが、私を連れて逃げてくれた。
『姫様なら、必ず生き延びられる』って。
私に賭けてくれた人たちは、一人、また一人と倒れていった」
ノエルは、遠い目をした。
「最後まで残ってくれたのは、近衛隊長のエドガーだった。
白い髭のおじいさんで、小さい頃から、私にカードの手品を見せてくれた人」
「カードの……」
「ええ。
私のカード捌きは、全部エドガーに教わったの。
お城の中庭で、毎日、何時間も」
ノエルは、自分の指先を見つめた。
「雪の山道で、追手に囲まれた時。
エドガーは、私を岩陰に隠して、一人で剣を抜いた。
最後に、こう言ったわ。『姫様。
カードは、誰にでも公正に配りなさい。
それが、王家の者の誇りです』って」
――それが、私に残った、たった一つの誇り。
月の屋上で、ノエルがそう言った意味が、ようやく分かった。
あれは、ただのディーラーの矜持じゃない。
滅んだ国の騎士が、最後に託した言葉だったのだ。
「エドガーは、帰ってこなかった」
ノエルの声は、静かだった。だが、膝の上で握りしめた手が、かすかに震えていた。
俺は、何も言わずに、その手の上に自分の手を重ねた。
ノエルは、振り払わなかった。
だから、誰かに賭けるのはもうやめた、と彼女は言ったのだ。
「最後の一人が倒れた後、私は奴隷商人に捕まって、檻に入れられた。
そして、王都に連れてこられて、ドルマンに買われた。
……それからのことは、知っての通り」
「女神の賽は、どうなった」
「分からない。帝国が奪ったのか、それとも……。
でも、七つの賽は、ずっと私を探していた。
ドルマンが私を競売にかけようとしたのも、たぶん、あの人たちの指示だったんだと思う」
ノエルは、俺の方を向いた。
「それとね、ヴィクトル。昨日の契約書のこと」
「……ああ」
「あの後、一人で考えていたの。二年前の、あなたのことを」
ノエルは、少しだけ遠い目をした。
「二年前、あなたは毎晩のように私の台に来た。
いつも負けて、いつも目が死んでいた。
でも、一度も、私に触れようとしなかった。
他の客みたいに、下品な冗談を言うこともなかった」
ノエルの声が、少しだけ柔らかくなった。
「そして、一度だけ、酔って言ったの。
『必ず、ここから出してやる』って。
……私は、ただの酔っ払いの戯言だと思って、聞き流した」
俺の胸の奥で、何かがずきりと疼いた。
霧の向こうの記憶。思い出せないのに、確かにそこにある何か。
「もし、あの言葉が本当だったなら」
ノエルは、手の中の白い石を、ぎゅっと握った。
「あの契約書は、私を買うためじゃなくて――私を、ここから出すためのものだったのかもしれない」
「……俺は、覚えていない」
「ええ。知ってる」
ノエルは、立ち上がった。
「だから、いつか思い出して。そして、あの契約書の本当の意味を、私に教えて」
「必ず」
俺も立ち上がった。
ノエルは、しばらく俺の顔を見つめていた。それから、白い石を俺の手に押しつけた。
「王冠杯、一緒に出るわ」
「……え?」
「王冠杯は、二人一組で出る大会なの。
打ち手と、その相棒。
七つの賽が私を狙っているなら、あなたの隣にいる方が、ずっと安全でしょう?」
ノエルは、ほんの少しだけ唇の端を上げた。
「それに、あなたの眼が見えない相手が一人くらい、隣にいた方がいいと思うわ」
◆
屋敷に戻ると、ゴードンが玄関ホールで待っていた。
その手には、俺が置いていった黒いカードが握られていた。
七つのサイコロが描かれた、王冠杯の招待状。
「坊ちゃま。……お話ししなければならないことがございます」
老執事の顔は、いつになく険しかった。
「この紋章の者たちのことを、わたくしは、よく存じております」
「……ゴードン?」
ゴードンは、カードの表に描かれた七つのサイコロを、皺だらけの指でなぞった。
円形に並んだサイコロの、最後の一つ。七番目の賽。
「四十年前」
ゴードンは、静かに言った。
「わたくしは、この七番目の席に、座っておりました」




