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【第3部スタート】ギャンブル中毒で放蕩三昧の悪役貴族、破滅ルートをひっくり返す  作者: 有馬 茶
第二章 学園社交界編 〜婚約破棄は神前で〜

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第20話 眼を使わない勝負


夜明け前の天秤亭の屋上に、ノエルはいた。


ひと月前、初めて言葉を交わしたあの夜と同じように、屋上の縁に腰掛けて、白み始めた王都の街並みを見下ろしていた。


「……来ると思った」


振り返らずに、ノエルが言った。


「ここ以外に、お前の居場所を知らないからな」


俺は、少し離れた場所に腰を下ろした。


しばらく、二人とも黙っていた。


先に口を開いたのは、ノエルだった。


「勝負しましょう」


「勝負?」


ノエルは、屋上の床に転がっていた小さな白い石を一つ拾い上げた。


「石当て。私が、この石をどちらかの手に握る。

あなたは、どちらの手か当てる。

三回勝負で、二回当てたらあなたの勝ち」


「賭けるものは」


「あなたが勝ったら、私の話を聞かせてあげる。私が勝ったら――王冠杯を、辞退して」


ノエルは、両手を背中に回した。


そして、握った拳を二つ、俺の前に突き出した。


「どうぞ。あなたの、確率の見える眼で」


(……知っていたのか)


俺は、驚いてノエルを見た。


「ずっと、不思議だったの。

あなたは、カードの勝率を、まるで見えているみたいに読む。

私のディーリングを見ている時だけ、時々、困ったような顔をする」


ノエルは、静かに言った。


「私のことだけは、見えないんでしょう?」


――鋭い女だ。


俺は、苦笑して、ノエルの拳に問いを立てた。


(ノエルの右手に、石がある確率は?)


【??】


(左手は?)


【??】


やはり、何も見えない。


当然だ。

石をどちらの手に握るかは、ノエル自身が決めたことだ。

ノエルの意志が関わることは、この眼には映らない。


これは、眼を使わない勝負だ。


  ◆


一回目。


俺は、ノエルの拳を見つめた。


前世で、何千人という相手と向き合ってきた。

人は、迷った時に利き手を選びやすい。

そして、隠し事をする時は、相手から遠い方の手を選びやすい。


ノエルの利き手は右。だが、俺から遠いのも右だ。


「右」


ノエルが、右手を開いた。


空っぽだった。


左手を開くと、白い石が転がり出た。


「一つ目は、私の勝ち」


ノエルは、表情を変えずに言った。


……読み違えた。いや、読まれていたのかもしれない。

俺が、利き手と距離から推理することを。


二回目。


ノエルが、また背中に手を回し、拳を二つ突き出す。


今度は、さっきとは逆を考えた。

一回目で左に隠して勝った。

人は、勝った手をもう一度使いたがる。

だが、ノエルは俺がそう読むことも読んでいるはずだ。

だとすれば、逆を突いて右に変える。

いや、さらにその逆を――。


考えれば考えるほど、迷路に入っていく。


確率が見えない勝負とは、こういうものなのか。

前世の俺は、毎日こんな勝負をしていたはずなのに。


(……違うな)


俺は、ノエルの顔を見た。


灰色の瞳。人形のように整った、感情の読めない顔。


だが、このひと月で、俺はほんの少しだけ、この女のことを知った。


彼女は、どんな相手にも公正にカードを配る。

たとえ支配人に命じられても、イカサマだけは絶対にしない。

それが、たった一つ残った誇りだと言った。


そういう女が、この勝負で、俺の裏をかくための小細工をするだろうか。


「左」


ノエルの左手が開かれた。


白い石が、そこにあった。


「……どうして?」


ノエルが、わずかに目を見開いた。


「一回目で左に隠して勝ったなら、二回目は普通、変えるでしょう?」


「お前は、変えないと思った」


「なぜ」


「お前は、勝つために小細工をするような人間じゃない。

ただ、最初に決めたことを、まっすぐに貫く。

……そういう人間だと思ったからだ」


ノエルは、しばらく黙って俺を見ていた。


その頬が、ほんの少しだけ赤くなったように見えた。


「……一対一ね」


  ◆


三回目。


最後の勝負だ。


ノエルは、背中に手を回した。そして、長い間、そのままでいた。


やがて、ゆっくりと、二つの拳が俺の前に差し出された。


俺は、その拳を見つめた。


右か、左か。


推理する材料は、もう何もなかった。

二回目と同じ理屈なら、左。

だが、ノエルはもう、俺が二回目にどう読んだかを知っている。


いくら考えても、答えは出ない。


だから、俺は考えるのをやめた。


「ノエル。俺は、選ばない」


「……え?」


「お前が、開けてくれ」


俺は、自分の両手を、ノエルの拳の下にそっと差し出した。


「もし、俺に話してもいいと思うなら、石の入った手を開いてくれ。

まだ話したくないなら、空の手を。

……どっちでも、俺は従う」


ノエルの拳が、かすかに震えた。


「それじゃあ、勝負にならないわ」


「なるさ」


俺は、まっすぐにノエルの目を見た。


「お前が、俺に賭けるかどうか。それを賭けた勝負だ」


長い、長い沈黙があった。


東の空が、少しずつ明るくなっていく。朝の最初の光が、屋上を照らし始めた。


ノエルは、目を閉じた。


そして、右手を開いた。


小さな白い石が、俺の手のひらの上に、ころりと落ちた。


  ◆


「私の本当の名前は、ノエル・リュミエール」


朝日の中で、ノエルは静かに語り始めた。


「十年前に滅んだ、北の王国リュミエールの――最後の王女」


予想はしていた。だが、本人の口から聞くと、その重さは格別だった。


「リュミエールの王家には、代々受け継がれてきたものがあったの。

『女神の賽』。

女神フォルトゥナが、この世界に最初に振ったと言われるサイコロ。

王家は、それを守る役目を負っていた」


ノエルは、手の中の石を見つめた。


「十年前の冬、北の帝国が攻めてきた。

お城が燃えて、お父様もお母様も、兄様も……みんな、いなくなった。

近衛の騎士たちが、私を連れて逃げてくれた。

『姫様なら、必ず生き延びられる』って。

私に賭けてくれた人たちは、一人、また一人と倒れていった」


ノエルは、遠い目をした。


「最後まで残ってくれたのは、近衛隊長のエドガーだった。

白い髭のおじいさんで、小さい頃から、私にカードの手品を見せてくれた人」


「カードの……」


「ええ。

私のカード捌きは、全部エドガーに教わったの。

お城の中庭で、毎日、何時間も」


ノエルは、自分の指先を見つめた。


「雪の山道で、追手に囲まれた時。

エドガーは、私を岩陰に隠して、一人で剣を抜いた。

最後に、こう言ったわ。『姫様。

カードは、誰にでも公正に配りなさい。

それが、王家の者の誇りです』って」


――それが、私に残った、たった一つの誇り。


月の屋上で、ノエルがそう言った意味が、ようやく分かった。


あれは、ただのディーラーの矜持じゃない。

滅んだ国の騎士が、最後に託した言葉だったのだ。


「エドガーは、帰ってこなかった」


ノエルの声は、静かだった。だが、膝の上で握りしめた手が、かすかに震えていた。


俺は、何も言わずに、その手の上に自分の手を重ねた。


ノエルは、振り払わなかった。


だから、誰かに賭けるのはもうやめた、と彼女は言ったのだ。


「最後の一人が倒れた後、私は奴隷商人に捕まって、檻に入れられた。

そして、王都に連れてこられて、ドルマンに買われた。

……それからのことは、知っての通り」


「女神の賽は、どうなった」


「分からない。帝国が奪ったのか、それとも……。

でも、七つの賽は、ずっと私を探していた。

ドルマンが私を競売にかけようとしたのも、たぶん、あの人たちの指示だったんだと思う」


ノエルは、俺の方を向いた。


「それとね、ヴィクトル。昨日の契約書のこと」


「……ああ」


「あの後、一人で考えていたの。二年前の、あなたのことを」


ノエルは、少しだけ遠い目をした。


「二年前、あなたは毎晩のように私の台に来た。

いつも負けて、いつも目が死んでいた。

でも、一度も、私に触れようとしなかった。

他の客みたいに、下品な冗談を言うこともなかった」


ノエルの声が、少しだけ柔らかくなった。


「そして、一度だけ、酔って言ったの。

『必ず、ここから出してやる』って。

……私は、ただの酔っ払いの戯言だと思って、聞き流した」


俺の胸の奥で、何かがずきりと疼いた。


霧の向こうの記憶。思い出せないのに、確かにそこにある何か。


「もし、あの言葉が本当だったなら」


ノエルは、手の中の白い石を、ぎゅっと握った。


「あの契約書は、私を買うためじゃなくて――私を、ここから出すためのものだったのかもしれない」


「……俺は、覚えていない」


「ええ。知ってる」


ノエルは、立ち上がった。


「だから、いつか思い出して。そして、あの契約書の本当の意味を、私に教えて」


「必ず」


俺も立ち上がった。


ノエルは、しばらく俺の顔を見つめていた。それから、白い石を俺の手に押しつけた。


「王冠杯、一緒に出るわ」


「……え?」


「王冠杯は、二人一組で出る大会なの。

打ち手と、その相棒。

七つの賽が私を狙っているなら、あなたの隣にいる方が、ずっと安全でしょう?」


ノエルは、ほんの少しだけ唇の端を上げた。


「それに、あなたの眼が見えない相手が一人くらい、隣にいた方がいいと思うわ」


  ◆


屋敷に戻ると、ゴードンが玄関ホールで待っていた。


その手には、俺が置いていった黒いカードが握られていた。

七つのサイコロが描かれた、王冠杯の招待状。


「坊ちゃま。……お話ししなければならないことがございます」


老執事の顔は、いつになく険しかった。


「この紋章の者たちのことを、わたくしは、よく存じております」


「……ゴードン?」


ゴードンは、カードの表に描かれた七つのサイコロを、皺だらけの指でなぞった。

円形に並んだサイコロの、最後の一つ。七番目の賽。


「四十年前」


ゴードンは、静かに言った。


「わたくしは、この七番目の席に、座っておりました」

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