第19話 契約書
「女神祭の、王冠杯……」
天秤亭の事務室で、ノエルは黒いカードをじっと見つめていた。
女神祭は、年に一度、王都で開かれる最大の祭りだ。
七日間にわたって街中が祝宴に包まれ、
その最終日には、王国中の腕利きの賭博師たちが集まる大会――王冠杯が開かれる。
優勝者には、国王陛下に一つだけ願いを申し出る権利が与えられるという。
「『本当の名前』……」
ノエルの指が、カードの裏の文字をなぞった。
その横顔は、いつもの無表情だった。
だが、カードを持つ指先が、かすかに白くなっていた。
「ノエル」
俺は、できるだけ静かに言った。
「無理に話さなくていい。だが、もし話せるなら――」
「辞退して」
ノエルが、俺の言葉を遮った。
「この大会には、出ないで」
「だが、辞退すれば、連中はお前の名前を……」
「どうなってもいいわ」
ノエルは、カードを机の上に置いた。
「私の名前が知られて、何かが起きるなら、それは私の問題。
あなたが命を賭けるようなことじゃない」
「命を賭ける?」
「七つの賽は、ドルマンなんかとは違う」
ノエルは、灰色の瞳で俺を見た。
「あの人たちは、本物の化け物よ。十年前、一つの国を――」
そこで、ノエルは唇を噛んで、言葉を切った。
(ノエルが、今ここで続きを話す確率は?)
【??】
相変わらず、この眼は彼女の心を映さない。
◆
重い沈黙を破ったのは、事務室の扉を叩く音だった。
「邪魔をする」
入ってきたのは、アレンだった。脇に、分厚い書類の束を抱えている。
「ドルマンの押収品の整理が終わった。
神殿で調べた結果、ラングレー家に関係する書類がいくつか見つかったから、持ってきた」
アレンは、書類の束を机の上に広げた。
偽造の証文の原本。バルトロとの裏取引の記録。屋敷から持ち出された家財の売却記録。
そして、一番下に、一枚の古い羊皮紙があった。
「これは、日付が二年前のものだ。ドルマンとお前の間で交わされた契約書らしい」
アレンが、何気なくそれを読み上げた。
「――ヴィクトル・ラングレーは、ディーラー・ノエルの身柄を、金貨三万枚にて買い受けるものとする。
代金の全額支払いをもって、ディーラー・ノエルはヴィクトル・ラングレーの所有物となる」
事務室の空気が、凍りついた。
アレンが、はっとしたように顔を上げた。
そして、ノエルの方を見て、自分が何を読み上げてしまったのかに気づいた。
「……すまない。俺は、てっきり……」
ノエルは、何も言わなかった。
ただ、その羊皮紙を、じっと見つめていた。
署名欄には、確かにヴィクトルの名前があった。
少し崩れた、だが間違いなくヴィクトル自身の筆跡だ。
「……そう」
ノエルが、ぽつりと言った。
「あなたも、私を買おうとしていたのね」
「待ってくれ、ノエル。俺は――」
俺は、必死にヴィクトルの記憶を探った。
二年前。ドルマン。金貨三万枚。ノエル。
だが、何も出てこない。
いや、正確には――その辺りの記憶だけが、厚い霧に覆われたように、ぼやけて見えない。
手を伸ばそうとすると、頭の奥がずきりと痛んだ。
(……なんだ、これは)
両親が死んだ日のことは、覚えている。
セレスティーヌと花冠を作った日のことも。
賭場で負け続けた夜のことも、断片的には残っている。
なのに、ノエルに関わる記憶だけが、すっぽりと抜け落ちている。
「覚えていない」
それが、俺に言える唯一の真実だった。
アレンの鐘は、鳴らなかった。
だが、ノエルの表情は変わらなかった。
「覚えていない、ね」
ノエルは、小さく笑った。それは、俺が初めて見る、ひどく冷たい笑みだった。
「便利な言葉ね。……私も、覚えていないふりができたらよかったのに」
「ノエル」
「私はね、ヴィクトル。八つの時に、檻の中で値札をつけられたの」
ノエルの声は、静かだった。静かすぎて、かえって胸に刺さった。
「それからずっと、誰かの持ち物だった。
奴隷商の持ち物。ドルマンの持ち物。
そして、もう少しで――あなたの持ち物になるところだったのね」
「違う」
「何が違うの? 契約書には、そう書いてあるわ」
俺は、言葉に詰まった。
この契約書を書いた時、ヴィクトルが何を考えていたのか、俺には分からない。
ノエルを助けるためだったのかもしれない。
だが、本当に、ただ彼女を自分のものにしたかっただけなのかもしれない。
俺が知っている元のヴィクトルは、賭場に入り浸って家を潰しかけたクズだ。
どちらの可能性も、否定できなかった。
「……今夜は、帰るわ」
ノエルは、席を立った。
「王冠杯のことは、好きにして。どうせ、私の言うことなんて、誰も聞かないもの」
扉が、静かに閉まった。
俺は、椅子を蹴るように立ち上がり、事務室を飛び出した。
賭場の喧騒の中を抜け、正面の扉から夜の通りへ出る。
女神祭を控えた王都の通りは、色とりどりの提灯で飾られ、夜遅くまで人で溢れていた。
銀色の髪は、どこにも見えなかった。
(ノエルに、今から追いつける確率は?)
問いを立てた瞬間、数字は砂嵐のようにざらついて消えた。
追いかけるかどうかは、俺自身が決めることだ。だから、この眼には映らない。
俺は、人混みの中で立ち尽くした。
追いかけて、何を言う? 覚えていない、としか言えない俺に、何が言える?
今、ノエルに必要なのは、俺の言い訳じゃない。
「……今夜は、やめておく」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
それもまた、俺が選んだことだった。
正しい選択だったのかどうかは、どんな眼を持っていても、分かりはしない。
◆
「……本当に、すまない」
アレンが、俯いたまま言った。
「俺の不注意だ。中身を確かめずに読み上げるべきではなかった」
「お前のせいじゃない。いずれ、どこかで見つかっていた」
俺は、机の上の羊皮紙を手に取った。
二年前の日付。金貨三万枚。ヴィクトルの署名。
そして、契約書の端に、もう一つ、小さな書き込みがあることに気づいた。
インクが滲んで、ほとんど読めない。
『……ただし、身柄の引き渡しの後、ヴィクトル・ラングレーは、直ちに……』
その先は、破り取られていた。
「アレン。この契約書の続きは、どこかにないか?」
「いや、押収品の中にあったのは、それだけだ。
端が破れていることには、俺も気づいていたが……」
直ちに、何だ?
直ちに、ノエルを解放する? それとも、直ちに、どこかへ連れていく?
その一文が、全てを変える。
だが、それを知る術は、今の俺にはない。
◆
屋敷に戻ると、ゴードンが玄関ホールで待っていた。
俺は、契約書をゴードンに見せた。
老執事は、それを一目見た瞬間、わずかに目を伏せた。
「ゴードン。お前、これを知っていたのか」
「……存じておりました」
「二年前、ヴィクトルは――俺は、何を考えていた。
ノエルを、本当に自分のものにしたかったのか?」
ゴードンは、長い間、何も答えなかった。
やがて、静かに首を振った。
「それは、わたくしの口から申し上げるべきことではございません」
「ゴードン」
「坊ちゃま。お許しください」
ゴードンは、深く頭を下げた。
「ただ、一つだけ申し上げられることがございます。
あの頃の坊ちゃまは、わたくしが仕えてきた中で、最も……」
老執事の声が、わずかに震えた。
「……最も、必死でいらっしゃいました」
それ以上、ゴードンは何も語らなかった。
(ゴードンが、いつか全てを話してくれる確率は?)
【61%】
まだ、その時ではないらしい。
◆
その夜、俺は一人で書斎にこもり、記憶の霧を探り続けた。
二年前。十七歳のヴィクトル。
何度試しても、ノエルに関わる部分だけが、どうしても見えない。
無理に思い出そうとすると、頭が割れるように痛む。
まるで、誰かが――何かが、その記憶に鍵をかけているかのように。
控えめに、書斎の扉が叩かれた。
「お兄さま……まだ、起きてる?」
寝間着姿のリリアが、湯気の立つカップを両手で抱えて立っていた。
「リリア。もう寝る時間だろう」
「ゴードンが、お兄さまにお茶を持っていきなさいって。
……お兄さま、なんだか悲しそうな顔してたから」
リリアは、カップを机の上に置いた。そして、俺の隣にちょこんと座った。
「リリア。一つ、聞いてもいいか」
「なあに?」
「二年前の俺って、どんなだった?」
リリアは、少し考え込んだ。
「二年前のお兄さまは……夜になると、いつもお出かけしてた。
帰ってくるのは朝で、お酒の匂いがして、怖い顔をしてた」
……だろうな。
「でもね」
リリアは、膝を抱えた。
「一度だけ、夜中に目が覚めて、お水を飲みに行ったことがあるの。
そうしたら、お兄さまが、お母さまの肖像画の前に座ってた」
「肖像画の前に?」
「うん。それで、お母さまに話しかけてたの。
『どうしても、助けたい人がいるんだ』って。
『そのためなら、俺は何を賭けてもいい』って」
リリアは、俺を見上げた。
「お兄さま、泣いてた。
わたし、見ちゃいけないものを見た気がして、すぐにお部屋に戻ったの。
……誰を、助けたかったの?」
俺は、答えられなかった。
胸の奥の霧が、ほんの一瞬だけ、揺らいだ気がした。
肖像画の前で、膝を抱えて泣いている少年。その手に握られた、一枚の羊皮紙。
だが、霧はすぐにまた閉じた。頭の奥が、ずきりと痛んだ。
「……いつか、思い出したら教えるよ」
「約束ね」
リリアは、小指を差し出した。俺は、その小さな指に、自分の小指を絡めた。
妹が部屋に戻った後も、俺は長い間、冷めていく紅茶を見つめていた。
(俺は、元のヴィクトルのことを、何も知らないんだな)
クズだと思っていた。家を潰しかけた放蕩貴族だと。
だが、もしかしたら、それは全部、表の顔に過ぎなかったのかもしれない。
窓の外では、女神祭を三日後に控えた王都の灯りが、きらきらと揺れていた。
(ノエルが、明日、天秤亭に来る確率は?)
【??】
――読めない。
だから、俺が行くしかない。




