第17話 ローゼンハイムの影
決闘の翌日から、学園での俺の扱いは一変した。
「ラングレー様、おはようございます!」
「昨日の決闘、拝見しました! あの最後の突き、痺れました!」
「あ、あの、確率学の課題で分からないところがあって……」
廊下を歩くだけで、声をかけられる。
つい一週間前まで、ひそひそと陰口を叩いていた連中だ。
「……現金なものだな」
隣を歩くアレンが、呆れたように呟いた。
「人間ってのは、そういうもんだ」
前世でも同じだった。
勝てば人が寄ってきて、負ければ去っていく。
いちいち腹を立てていたら、身がもたない。
教室に入ると、トビアスが真っ先に駆け寄ってきた。
「ラングレー! 俺、お前に賭けてたんだ! 金貨一枚だけど、五十枚になった!」
「そうか。よかったな」
「お前、本当にすげえよ。必中の加護に、どうやって勝ったんだ?」
「必中は、当たることしか決めない。だから、当たる前に勝った。それだけだ」
トビアスはしばらく首を傾げていたが、やがて「先に、か……!」
と目を輝かせた。やはり、こいつは筋がいい。
◆
昼休み。
アレンに呼び出されて、俺は学園の神殿分室を訪れた。
小さな礼拝堂の奥の部屋で、一人の青年が椅子に座っていた。
カイン・ヴェルナー。
昨日の決闘で家督相続権を失った男は、たった一日で十年も老け込んだように見えた。
目の下には濃い隈ができ、自慢の黒髪も乱れている。
「神前決闘の後始末として、事情を聞いている」
アレンが、カインの向かいに腰を下ろした。
「カイン・ヴェルナー。なぜ、北の丘陵を賭けの対象に選んだ」
カインは、しばらく黙っていた。
「答えなくてもいい。だが、答えるなら、俺の前では嘘はつけない」
「……父上の、命令だ」
カインは、絞り出すように言った。
鐘は、鳴らない。
「父上に言われた。
ラングレー家の北の丘陵を、どんな手を使ってでも手に入れろと。
『賽の方々』が、それを望んでおられると」
「賽の方々?」
アレンが、眉をひそめた。
俺の脳裏に、一つの紋章が浮かんだ。
七つのサイコロを円形に並べた、赤い封蝋。
競売の目録と、バルトロの裏帳簿に押されていたもの。
「カイン。その『賽の方々』ってのは、七つのサイコロの紋章を使う連中か?」
カインが、弾かれたように顔を上げた。
「……なぜ、それを」
鐘は鳴っていない。だが、その顔が全てを語っていた。
「父上の書斎で、一度だけ見たことがある。
七つのサイコロの封蝋が押された手紙を。
父上は、その手紙を受け取るたびに、まるで神託でも受けたかのように青ざめていた」
カインは、膝の上で拳を握りしめた。
「ヴェルナー家も、ローゼンハイム家も、何年も前から、その連中の言いなりだ。
逆らえば、家が潰される。
……セレスティーヌも、それを知っている」
「セレスティーヌも?」
「あいつは、最初からお前を陥れるつもりなどなかったのかもしれん。
父親に命じられて、仕方なく……」
カインは、そこで言葉を切った。
そして、俺の顔を見上げた。
「ラングレー。一つ聞かせろ。
……なぜ、お前は勝てた。
俺は、手を抜いてなどいなかった」
「ああ、知ってる」
俺は、正直に答えた。
「お前は強かった。
普通に戦っていたら、三合で負けていた。
だから――勝ち方を、探したんだ」
カインは、しばらく呆然と俺を見ていた。
それから、乾いた声で笑った。
「……勝ち方を、探す、か。
俺は、そんなこと、考えたこともなかった。
必中があれば、勝ち方など探す必要はなかったからな」
その笑い声は、どこか吹っ切れたようにも聞こえた。
「……ラングレー」
部屋を出ようとした俺の背中に、カインが声をかけた。
「お前の突きは、ひどいものだった。
腰が入っていない。踏み込みも浅い。
あれで勝てたのは、奇跡だ」
「知ってる」
「だが」
カインは、自分の手のひらを見つめた。剣だこが、何重にも重なった手だった。
「最後の一撃だけは、迷いがなかった。……俺の剣には、それがなかった」
カインは、顔を上げた。
「家督を失った今、俺にはこの剣しか残っていない。
もし、いつか……お前がまともな剣を学びたくなったら、俺のところに来い。
必中なしの、ただの剣でよければ教えてやる」
俺は、少しだけ驚いて、それから頷いた。
「ああ。その時は、頼む」
アレンが、俺の隣で小さくため息をついた。
「お前は、負かした相手と、すぐに妙な縁を作るな」
「人徳だろう」
「……鐘が鳴りそうだ」
◆
放課後。
学園の東の塔の上、風の吹き抜ける見晴らし台で、俺は一人の令嬢と向かい合っていた。
セレスティーヌは、丸一日眠り続けて、ついさっき目を覚ましたらしい。
金色の巻き髪は少し乱れ、目元は赤く腫れていた。
「……全部、聞きましたわ。カイン様のことも、決闘のことも」
セレスティーヌは、手すりを握りしめていた。
「わたくしの紅茶に、眠り薬を入れたのね」
「入れたのは、君の侍女だ。俺は、角砂糖を三つ入れただけだ」
「同じことですわ!」
セレスティーヌが、振り返った。碧の瞳に、涙が滲んでいた。
だが、その涙はすぐに、別の色を帯びた。
「……いいえ。同じじゃない。最初に眠り薬を用意したのは、わたくしの家の方だもの」
セレスティーヌは、力なく手すりにもたれかかった。
「父に、命じられたの。
決闘の前に、あなたを眠らせろって。
そうすれば、あなたは決闘に来られずに不戦敗になる。
丘陵は、戦わずしてヴェルナー家のものになるって」
「……そうか」
「でも、わたくし、あのお茶会で、あなたに本当のことを言うつもりだったのよ」
セレスティーヌの声が、震えた。
「侍女は、父がつけた見張りなの。
だから、表立っては何も言えなかった。
でも、お茶を飲みながら、そっと伝えようと思ってた。
砂糖には手をつけないでって。
……なのに、あなたが、昔みたいに砂糖を入れてくれるから……わたくし、嬉しくて、何も考えられなくなって……」
あの時、セレスティーヌは、眠りに落ちる直前に何かを言いかけていた。
――ねえ、ヴィクトル。わたくし、本当は……今日、あなたに……
(……そういうことだったのか)
この眼は、過去の真実を読めない。
彼女があの時、本当に何を伝えようとしていたのかを確かめる術はない。
だが、未来なら問える。
(セレスティーヌが、この先、俺を陥れようとする確率は?)
【6%】
低い。
俺は、小さく息を吐いた。
「セレスティーヌ。君の家は、七つのサイコロの紋章の連中に脅されているんだな」
セレスティーヌは、驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。
「父は、彼らのことを『賽』と呼んでいるわ。
王国の裏で、全てを動かしている人たちだって。
……わたくしも、詳しいことは知らないの。
でも、一つだけ知っていることがある」
セレスティーヌは、声を潜めた。
「この学園の地下に、秘密の賭場があるの。
教務主任のモルガン先生が仕切っていて、貴族の子弟たちを誘い込んで、家の財産を賭けさせている。
……そこで吸い上げたお金が、『賽』に流れているって、父が話しているのを聞いたことがあるわ」
(この情報を信じて地下の賭場に乗り込んだら、罠にかかる確率は?)
【9%】
――本当のことだ。
「ありがとう、セレスティーヌ。助かる」
「……お礼なんて、言わないで」
セレスティーヌは、俯いた。
それから、意を決したように顔を上げた。
「ねえ、ヴィクトル。
もし、わたくしが……もう一度、あなたと婚約をやり直したいと言ったら――」
「ごめん」
俺は、彼女が言い終わる前に答えた。
「君のことは、大事な幼馴染だと思ってる。でも、それ以上にはなれない」
セレスティーヌは、しばらく黙って俺を見つめていた。
そして、ふっと、子供の頃と同じ顔で笑った。
「……知ってたわ。あなた、別の誰かのことを考えている顔をしているもの」
彼女は、手すりから身を離した。
「天秤亭の、銀髪のディーラーでしょう?」
「……なぜ、それを」
「女の勘ですわ」
セレスティーヌは、扇を広げて口元を隠した。目元が、少しだけ赤かった。
「父のことは、わたくしが何とかします。……今度は、自分の意志で」
彼女は、背筋を伸ばして見晴らし台を去っていった。
その背中は、舞踏会の時よりも、ずっと凛として見えた。
◆
その夜、天秤亭の事務室で、俺はアレンとラットに今日の話を伝えた。
「学園の地下に、賭場……」
アレンが、苦い顔をした。
「神殿の監察が、学園の中まで届いていなかったということか。情けない話だ」
「乗り込むか、伯爵様?」
ラットが、目を輝かせた。
「ああ」
俺は、窓の外の夜空を見上げた。
七つのサイコロ。賽の方々。王国の裏で、全てを動かしている者たち。
ドルマンも、ヴェルナー家も、ローゼンハイム家も、その手足に過ぎない。
(七つの賽が、この先、俺の前に現れる確率は?)
【100%】
――百。
俺は、思わず眉をひそめた。
百パーセント。誰かが、もう「決めて」いる。
俺の前に姿を現すことを。
連中はとっくに、俺のことを見ている。




