第15話 毒の紅茶
決闘の日の朝。
夜明け前の書斎で、俺はラットの報告を聞いていた。
「ローゼンハイム家の侍女の名前は、ハンナ。
十年以上、あの家に仕えてる古株だ。
セレスティーヌのお付きってことになってるけど、実際は侯爵――セレスティーヌの親父の言いつけで動いてるらしい」
「見張り役か」
「ああ。
屋敷の下働き連中に聞いたら、みんな口を揃えて言ってたよ。
『お嬢様は、ハンナの前じゃ絶対に本音を言わない』ってな」
ラットは、眠い目をこすりながら続けた。
「それと、薬屋の親父から聞き出した。
ハンナが買ってったのは『夢見草』の粉だ。
湯に溶かすと、味も匂いもほとんど消える。
でも、砂糖みたいな固いもんに染み込ませると、ほんの少しだけ形が崩れるんだってさ」
「……砂糖、か」
「伯爵様?」
「いや。助かった、ラット。お前は少し寝ておけ」
ラットは大きなあくびをして、書斎の長椅子に転がった。
数秒後には、もう寝息を立てていた。
俺は、窓の外の白み始めた空を見上げた。
セレスティーヌは、父親の見張りの前では本音を言わない。
なら、今日のお茶会で、彼女が本当は何を言おうとしているのか。
それを確かめる方法は、一つしかない。
――見張りの手を、封じることだ。
◆
学園の温室は、朝露に濡れた硝子の向こうで、静かに光っていた。
南国の花々が咲き乱れる中、白いテーブルが一つ置かれている。
その上には、銀のティーセット。
セレスティーヌは、淡い水色のドレスを着て、テーブルの向こうで微笑んでいた。
後ろには、侍女が一人控えている。
「来てくださったのね、ヴィクトル様」
「元婚約者のお誘いだからな」
俺は、向かいの椅子に腰を下ろした。
決闘まで、あと五時間。
「舞踏会では、ごめんなさい。わたくし、取り乱してしまって……」
セレスティーヌは、しおらしく目を伏せた。
鐘を持つアレンは、ここにはいない。だから、この女はいくらでも嘘をつける。
「気にしてないさ」
「まあ、優しいのね。昔から、あなたはそうだったわ」
侍女が、ティーポットを手に取った。
銀の注ぎ口から、琥珀色の紅茶が二つのカップに注がれる。
セレスティーヌのカップは、金の縁取りがある白磁。
俺のカップは、青い小鳥が描かれた白磁。
(このカップの紅茶を飲んだら、眠ってしまう確率は?)
自分のカップに、問いを立てる。
【4%】
――低い。
(セレスティーヌのカップは?)
【3%】
どちらも、ただの紅茶だ。
ポットにも、カップにも、薬は入っていない。
なら、どこだ。
テーブルの上を、ゆっくりと見回す。焼き菓子の皿。蜂蜜の小瓶。そして、銀の砂糖壺。
侍女が、砂糖壺の蓋を開けた。中には、真っ白な角砂糖が十個ほど並んでいる。
「ヴィクトル様、お砂糖はいかがですか?」
――ああ、なるほど。
俺は、砂糖壺の中の角砂糖に、一つずつ問いを立てていった。
(この角砂糖を入れて飲んだら、眠る確率は?)
【2%】【1%】【3%】【2%】――
そして、壺の手前、右端の一つ。
【96%】
見た目は、他の角砂糖と何も変わらない。
だが、よく見ると、角の一つがほんのわずかに欠けていた。
侍女が見分けるための目印だろう。
「いや、遠慮しておくよ。甘いのは苦手でね」
侍女の手が、一瞬だけ止まった。
セレスティーヌの笑顔が、ほんのわずかに固くなった。
(セレスティーヌが、別の手を用意している確率は?)
【41%】
――蜂蜜か、焼き菓子か。まだ、手札は残っているらしい。
◆
「そういえば」
俺は、紅茶を一口飲んでから、何気なく言った。
「君は昔から、紅茶に砂糖を三つも入れていたな。
子供の頃、それを見て驚いた覚えがある」
セレスティーヌが、目を瞬かせた。
「……覚えていらしたの?」
「ああ。
庭園で花冠を作った後、必ず甘い紅茶を飲んでいた。
三つ入れて、それでもまだ足りないって言ってたな」
ヴィクトルの記憶の底に、その光景は確かに残っていた。
金色の髪の少女が、小さな手で角砂糖をつまみ、ぽちゃん、ぽちゃん、とカップに落としていく。
そして、隣の少年に「ヴィクトルも入れる?」
と笑いかける。
セレスティーヌの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
「……昔の、話ですわ」
「今も、三つ入れるのか?」
「ええ、まあ……」
「なら、入れてあげよう」
俺は、テーブルの上の銀のトングを手に取った。
侍女の顔から、さっと血の気が引いた。
「あ、あの、伯爵様、それはわたくしが――」
「いいんだ。昔は、よく入れてあげていたからな」
俺は、砂糖壺の中に、トングを差し入れた。
一つ目。左端の角砂糖をつまみ、セレスティーヌのカップに落とす。ぽちゃん。
二つ目。真ん中の一つ。ぽちゃん。
三つ目。
トングの先が、右端の――角の欠けた角砂糖を、そっとつまみ上げた。
侍女が、息を呑む音が聞こえた。
だが、何も言えない。
「その角砂糖はおやめください」と言えば、その一つにだけ何かがあると白状することになる。
セレスティーヌは、侍女の顔色の変化に気づいていない。
ただ、昔の記憶を手繰るような目で、俺の手元を見つめていた。
ぽちゃん。
三つ目の角砂糖が、金の縁取りのカップの中に沈んでいった。
「さあ、どうぞ」
俺は、トングを置いた。
(セレスティーヌが、この紅茶を飲む確率は?)
【88%】
侍女が、震える声で何かを言いかけた。
「お、お嬢様……」
「なに?」
セレスティーヌが振り返った。
侍女は、口をぱくぱくと動かしたが、結局、何も言えずにうつむいた。
主人に「あなたの紅茶に眠り薬が入っています」と告げることは、自分がそれを用意したと認めることだ。
そして、その眠り薬が本来誰のためのものだったのかも。
セレスティーヌは、不思議そうに首を傾げてから、カップを手に取った。
「……ありがとう、ヴィクトル。昔みたいね」
一瞬だけ、子供の頃と同じ呼び方だった。
そして、彼女は紅茶を飲んだ。
◆
「わたくし、あなたのことが嫌いだったわけではないのよ」
紅茶を半分ほど飲んだところで、セレスティーヌがぽつりと言った。
「父が、言ったの。
ラングレー家は、もう終わりだって。
あんな男と結婚すれば、ローゼンハイム家も一緒に沈むって。
だから、婚約を破棄しろって」
「……そうか」
「でも、あの夜会で指輪を投げつけたのは、わたくし自身の意志よ。
あの頃のあなたは、本当にひどかったもの。
賭場に入り浸って、目が死んでいて、わたくしのことなんて見てもいなかった」
セレスティーヌは、カップの縁を指でなぞった。
「なのに、今のあなたは、まるで別人みたい。わたくしの砂糖の数まで覚えていて……」
その声が、少しずつ間延びしていく。
「……ねえ、ヴィクトル。わたくし、本当は……今日、あなたに……」
まぶたが、重そうに落ちていく。
「……あら……なんだか、急に、眠く……」
セレスティーヌの手から、カップが滑り落ちそうになった。
俺は手を伸ばして、それを受け止めた。
セレスティーヌの頭が、ゆっくりと傾いて、テーブルの上に伏せられた。
規則正しい寝息が聞こえてくる。
丸一日は、目を覚まさないだろう。
「お、お嬢様……!」
侍女が、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「伯爵様、お、お嬢様に、何を……」
「砂糖を三つ、入れてあげただけだ」
俺は、侍女の目をまっすぐに見た。
「三つ目の角砂糖に何が入っていたのかは、君の方がよく知っているんじゃないか?」
侍女は、ぶるぶると震えながら、その場にへたり込んだ。
俺は、自分の上着を脱いで、眠るセレスティーヌの肩にそっとかけた。
「彼女が目を覚ましたら、伝えてくれ。お茶、美味しかったと」
◆
温室を出ると、入口の脇の植え込みの陰から、アレンが姿を現した。
「……監察していたのか」
「温室の外から、硝子越しにな。声は聞こえなかった」
アレンは、腕を組んだ。
「何があった。あの女が、急に眠り込んだように見えたが」
「彼女の紅茶に、砂糖を三つ入れてあげた。昔、よくそうしてたんだ」
鐘は、鳴らない。
アレンは、しばらく俺の顔を睨んでいた。
「その砂糖に、何か入っていたのか?」
「入れたのは、俺じゃない」
「…………」
アレンは、深くため息をついた。
「お前と話していると、鐘があってもなくても同じ気がしてくる」
「褒め言葉として受け取っておく」
決闘まで、あと四時間半。
俺は、包帯を巻いた右手を握りしめた。
(今日の正午、俺がカインに勝つ確率は?)
問いを立てても、数字は砂嵐のようにざらついて消えた。
俺自身の選択が絡む勝負の行方は、この眼には見えない。
だが、一つだけ確かめておきたいことがあった。
(カインが、決闘の場でセレスティーヌの姿を探す確率は?)
【97%】
――あいつは、彼女が来ないことに動揺するだろう。
ほんの少しでも、剣が鈍ればいい。
「行こう、アレン。闘技場へ」
「ああ」
アレンは、俺の隣に並んで歩き出した。
それから、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……ヴィクトル。最後に一つだけ聞かせろ」
「なんだ」
「あの女に、未練はあるのか」
俺は、少しだけ考えた。
ヴィクトルの記憶の中の、花冠を編んだ金髪の少女。砂糖を三つ入れて笑った横顔。
それは確かに、大切な思い出なのだろう。
だが、それはヴィクトルのものだ。
俺の――黒崎透の胸の中にいるのは、別の誰かだ。
「ない」
鐘は、鳴らなかった。
アレンは、それ以上何も聞かなかった。




