反証できない話
屋上から一階分だけ降りたところで、僕は足を止めた。
階段の踊り場に、桃井怜奈が座っていた。
壁に背中を預けて、膝を立てて、足首のあたりを両手で掴んでいる。逃げた人間の座り方ではなかった。走り疲れて、途中でどうでもよくなった人間の座り方だった。
僕が降りてきた音で、彼女は顔を上げた。
それから、僕が抱えているものを見た。自分の鞄と、自分の文庫本と、蓋をした弁当箱。
「……ああ」
小さくそう言って、彼女は目を伏せた。
「持ってきてくれたの」
「はい」
「そう」
僕は三段ほど上に立ったまま、どうしたらいいのかわからなくなっていた。階段を降りて渡すのが普通だと思うのだが、降りると距離が近すぎる気がした。
結局、二段だけ降りた。中途半端だった。
「置きます」
「持ってきてよ。そこからだと届かないでしょう」
彼女の声は、さっきよりずっと普通だった。
僕は残りを降りて、彼女の横に鞄を置いた。文庫本を、その上に乗せる。
「ありがとう」
「いえ」
「……なんで追いかけてこなかったの」
鞄を引き寄せながら、彼女が訊いた。
「追いかけたら、もっと怖いかと思って」
「そう」
彼女は鞄の口を開けて、中を確認した。財布と、携帯と、たぶん他にもいろいろ。何も減っていないことを確かめると、少しだけ息を吐いた。
「走ったの、久しぶりだったわ」
「そうなんですか」
「人生で三回目くらいだと思う。体育の授業と、あと一回。何だったかは忘れたけど」
そう言って、彼女は自分の膝を見た。ストッキングは穿いていなかったが、膝が少し赤くなっていた。転んだのかもしれない。
僕は弁当箱を持ったままだった。
「これ、洗って返します」
「いいわよ、別に」
「中身、こぼしたので」
「あなたがこぼしたわけじゃないでしょう」
「……こぼさせたのは、僕です」
彼女はそれについて、少し考えたようだった。
「日本語として微妙ね」
「はい」
「まあ、いいわ。どうせ私、今日はもう洗い物をする気になれないと思うから」
彼女は立ち上がった。スカートの埃を手で払って、鞄を肩にかけて、文庫本をその中に入れた。
それから階段を降りかけて、二段目で止まった。
「秋川くん」
名字で呼ばれた。当たり前のことなのに、少し驚いた。今日の朝まで、この人に名前を呼ばれることなんて一度もなかったからだ。
「はい」
「その猫」
「猫」
「最初のときの。鳴ったんでしょう、ノイズが」
「……はい」
「助けようとしたの」
僕は、返事をするのに少し時間がかかった。
「家に入れてくれって、母に頼みました」
「入れてもらえた?」
「いえ」
「そう」
彼女はそれだけ言って、階段を降りていった。
踵の音が、下の階の喧噪に混ざって消えた。




