ノイズ 5
屋上は、給水塔の影のあたりだけが涼しかった。
フェンス越しに見えるのは、正門前の並木と、その向こうの国道だ。車の音が、風向きによって大きくなったり小さくなったりする。
彼女は慣れた様子で、室外機の横のコンクリートに腰を下ろした。鞄から布に包んだ弁当箱を出して、膝の上で開く。
僕は少し離れて座った。
「あなたも食べれば」
「あとで食べます」
「そう」
彼女は箸を取って、最初にプチトマトを口に入れた。
二つ入っていたうちの、一つ目だった。
「好きなんですか、それ」
「好きよ。だから最初に食べるの」
「ふつう、好きなものは最後に残すんじゃ」
「残して、食べ損ねたら嫌でしょう」
彼女は当然のことのように言って、卵焼きに箸を移した。
国道を、トラックが一台走っていった。
「それで、変な話って」
「……はい」
どう始めればいいのか、九十分考えてまだ決まっていなかった。
「桃井さんは、幽霊とか信じますか」
「見たことはないわ」
「じゃあ、信じない?」
「見たことがないことと、存在しないことは、別の話でしょう」
彼女は箸を止めずに答えた。
「幽霊も、宇宙人も、予知能力も、私は否定しないわ」
卵焼きを口に入れて、噛んで、それから続けた。
「確かめる方法がないだけ」
「……はい」
「否定するには、否定する側にも根拠が要るのよ」
理路整然としていた。そして、こちらを試している感じがまったくなかった。ただ、思っていることをそのまま言っているだけだ。
この人は、たぶん、話を最後まで聞いてくれる。
そう思った瞬間に、喉の奥が固くなった。
「僕には、力があります」
「力」
「二十四時間以内に死ぬ人を見ると、頭の中にノイズが走るんです」
彼女が箸を止めた。
「ノイズ」
「ラジオの、周波数が合ってないときの音みたいな」
「へえ」
声に、はっきりと興味が混じっていた。
「それは、あなたが子どもの頃から?」
「小学生のときからです」
「何回あったの」
「三回」
「当たったのは」
「三回」
彼女は少し考えるような顔をして、卵焼きを噛んだ。
「三回って、少ないわね」
「少ないですか」
「統計的には、ほとんど意味のない数字よ。私が三回連続でコインの裏を当てても、誰も超能力者だとは言わないでしょう」
「……そうですね」
「でも」
彼女は箸の先を僕のほうへ向けた。行儀は悪かったが、本人は気にしていないようだった。
「あなた、いま私にそれを話してる」
風が吹いて、フェンスがかすかに鳴った。
「変な話が好きだから話したわけじゃないわよね。私がオカルト好きだなんて、あなた知らなかったはずだもの」
僕は何も言えなかった。
彼女の目が、ゆっくりと動いた。さっきまでの好奇心が、少しずつ別のものに置き換わっていくのが、見ていてわかった。
「さっきの講義」
「はい」
「あなた、出席カードを落として、そのまま出ていったわね」
「……はい」
「私の顔を見た、直後に」
彼女は箸を置いた。弁当箱の蓋の上に、きれいに揃えて置いた。
「言いなさいよ」
声は、さっきまでとほとんど変わらなかった。
僕は、彼女の顔を見た。
人の目をまっすぐ見たのは、たぶん何年ぶりかだった。
一度息を吸って、言った。
「今朝、桃井さんを見たとき、ノイズが鳴りました」
長い沈黙があった。
国道の音だけが、上がったり下がったりしていた。
「……つまり」
彼女がそこで言葉を切った。
「つまり、私が二十四時間以内に死ぬ、と」
「はい」
「明日の、いつ頃」
「朝の九時七分までに」
そこまで正確に答えたのは、自分でも意外だった。
彼女は、しばらく僕を見ていた。表情はほとんど動かなかった。ただ、膝の上の弁当箱を押さえている左手の指が、白くなっていた。
「根拠は」
「ありません」
「三回のサンプルと、あなたの主観だけ?」
「そうです」
「私、健康よ。持病もない。大きな怪我もしたことがない」
「わかりません」
「事故ってこと? それとも事件?」
「わかりません」
「どこで、何時に、どういうふうに?」
「わかりません」
僕は、それしか言えなかった。
「それ」
彼女の声が、初めて少しだけ震えた。
「それ、私にどうしろっていうの」
答えられなかった。
彼女は笑おうとしたようだった。口の端を上げて、すぐにやめた。
「……ひどい人ね、あなた」
「はい」
「助かる方法は、言わないの」
「知らないんです」
「知らないのに、言ったの」
弁当箱の蓋が、かたかたと鳴った。彼女の手が震えていた。本人もそれに気づいたらしく、慌てて両手を膝の下に入れた。
それでも彼女は、僕から目を逸らさなかった。
「私ね」
「はい」
「他人にこういうことを言われて、本気で怖がるほど、馬鹿じゃないつもりなの」
「はい」
「でもいま、心臓がすごく速い」
彼女は立ち上がった。
膝の上の弁当箱が滑って、コンクリートの上でひっくり返った。卵焼きが転がって、プチトマトが一つ、床を跳ねて、フェンスのほうへ転がっていった。
彼女はそれを見なかった。
「……私、信じないから」
「桃井さん」
「信じないって言ってるでしょう」
声が裏返った。
彼女は鞄も、文庫本も、弁当箱も置いたまま、屋上の扉へ走った。重い鉄の扉が開いて、閉まる音が、コンクリートに反響した。




