七月
七月になった。
梅雨は、あの夜に一回だけ本気を出して、あとはほとんど降らないまま終わった。
僕は水曜の一限で、隆二の隣ではなく、怜奈の隣に座るようになった。隆二は「俺の席」と文句を言ったが、三日で諦めて、僕らの前の席に移った。前の席のほうが寝やすいと言っていた。
怜奈は昼を屋上で食べなくなった。学食の、窓際の同じ席で、三人で食べる。
弁当を作ってもらったのは、二回だ。一回目は卵焼きが甘すぎた。二回目も甘かった。彼女は「これが正解なのよ」と言って譲らなかった。弁当箱の蓋のパッキンは、いまも一箇所だけ浮いている。彼女が何度直しても、僕が直しても、必ずどこかが余る。
恋愛小説は、三日で読み終わっていた。
「どうでした」
「ひどいわ」
彼女は即答した。
「十年想い続けるなんて、やっぱりありえないわ。それに文章がべたべたしてるの。二人が再会したところで、主人公が『時間が止まったようだった』って言うのよ。止まるわけないでしょう、時間は」
「厳しいですね」
「敬語」
「……厳しいな」
彼女は満足そうに頷いた。
そのころには僕も、だいたい敬語が抜けていた。だいたい、というのは、月に何回か戻るからだ。戻るたびに指摘された。
◇
隆二に話したのは、七月の最初の水曜だった。
その日、怜奈は語学の補講で来られなかった。学食の窓際の席に、僕と隆二の二人だけで座った。
四回目のカツカレーだった。二回目からは、僕が奢っていない。
「正宗」
「なに」
「桃井さん、いないな」
「補講だって」
「ふーん」
隆二はカツを一切れ口に入れて、それから、スプーンでルーをかき混ぜた。
「で、いつ話すんだよ」
僕は顔を上げた。
「何を」
「六月十八日のこと」
隆二はこちらを見ていなかった。皿を見ていた。
「お前、あの日から二週間、その話をしようとしては、やめてるだろ。俺、四回カウントしたぞ」
「……」
「いいけどな。言いたくないなら言わなくて」
彼女がいなくなった朝、僕は事務棟の窓口で、決まりだからと断られた。廊下で三人の学生に写真を見せて、誰も彼女の名前を知らなかった。
あのとき僕がいちばん欲しかったのは、事情を知っている人間が、一人でもいることだった。
「隆二」
「ん」
「けっこう長くなる」
「今日、四限ないから」
◇
僕は全部話した。
小学生のときの猫のこと。近所の老人のこと。高校二年の廊下で、秋田とすれ違ったときに音が鳴ったこと。何も言わずに帰ったこと。その夜に彼が死んだこと。葬式で、彼の母親に手を握られたこと。
それから、六月十八日の朝、出席カードを受け取ったときに、同じ音が鳴ったこと。
そのあとの二十四時間のこと。
隆二は、途中で一度も口を挟まなかった。カレーを食べ終わって、スプーンを置いて、水を飲んで、それでも何も言わずに聞いていた。
話し終わると、彼は天井を見た。
学食の天井には、蛍光灯とスピーカーと、使われていない扇風機がついている。
「……お前さ」
「うん」
「桃井さんに、それ言ったんだよな」
「言った」
「朝の九時に」
「九時七分」
「屋上で」
「屋上で」
隆二は、しばらく天井を見ていた。
「よく言ったな」
それだけだった。
僕は、何か返そうとして、うまくいかなかった。
「あのさ、俺、一個怒っていい?」
「なんだよ」
「高校の友達が死んだ話、いま初めて聞いたぞ」
「……ああ」
「一年半、黙ってたのかよ」
「黙ってた」
「ばか」
隆二はコップを持ち上げて、氷を鳴らした。
「で、信じてほしいのか」
「別に」
「じゃあ言うわ。俺、半分信じてない」
「うん」
「ノイズとか二十四時間とか、そういうのは、正直よく分かんねえ。聞いてて、お前が疲れてるだけなんじゃねえかとも思った」
「そうかもしれない」
「でも、お前が嘘つくとこは見たことねえんだよな」
隆二はコップを置いた。
「だから、半分は信じる。半分は保留」
「充分だ」
「充分じゃねえよ」
彼は身を乗りだした。
「お前、一年半なんで黙ってたんだ。俺が言っただろ。信じるかどうかは俺が決めることで、言うかどうかはお前が決めることだって」
「言われた」
「覚えてんじゃねえか」
「覚えてる」
「じゃあ次からは言え」
隆二はトレイを持って立ち上がった。
「俺、けっこう暇だから」
◇
電話が来たのは、七月の半ばの、火曜の夜だった。
僕は台所で、翌日の弁当のおかずを作っていた。携帯が鳴って、画面に彼女の名前が出た。
いつもはメッセージなのに、電話だった。
「はい」
『……正宗』
声で、すぐに分かった。
震えていた。
「どうした」
『あの』
「うん」
『明日、一緒に、病院に行ってくれない?』
フライパンの火を止めた。
「どこか悪いのか」
『違うの』
「じゃあ何」
彼女はしばらく黙っていた。
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『来るはずのものが、来ないの』
僕は、それがなんの話なのかを理解するのに、たっぷり五秒かかった。
『二週間、遅れてるわ。私、そういうのはきっちりしてるほうなの。今まで一回も、三日以上ずれたことがないのよ』
「……うん」
『検査薬を買ったわ』
「……」
『二本買ったの。一本だと反証できないから』
こんなときでも、この人はそういうことを言う。
『二本とも、同じだったわ』
◇
次の日、僕らは電車に乗って、二駅先の病院へ行った。
六月のあの夜に行った、夜間救急のある総合病院だった。彼女が「勝手を知ってるから」と言って、そこを選んだ。
待合室は、あのときとまるで違って見えた。昼間で、明るくて、人が多くて、ほとんどが女性だった。壁に、赤ちゃんの写真のポスターが貼ってあった。
彼女は、待っているあいだずっと僕の手を握っていた。
指が冷たかった。
「怜奈」
「なに」
「震えてる」
「知ってるわ」
彼女は前を向いたまま言った。
「六月十八日以来よ、こんなに震えるの」
◇
診察室から出てきた彼女は、紙を一枚持っていた。
あの夜と同じだった。あの夜も、彼女は紙を一枚持って出てきた。
「正宗」
「うん」
「先生が、あなたも入ってくださいって」
◇
医師は、五十代くらいの女性だった。
画面を指さして、いくつか説明した。僕はほとんど頭に入っていなかった。白い画面の中の、小さな黒い楕円と、その中の、もっと小さい何かを見ていた。
「六週目に入ったところですね」
医師は言った。
「順調です。心拍も確認できています」
「……はい」
「お二人とも、学生さん?」
「はい」
「そう」
医師は、特に何も言わなかった。責めもしなかったし、おめでとうとも言わなかった。次の説明に移った。
怜奈が、椅子の上で少しだけ身を乗りだした。
「先生」
「はい」
「あの、いつ頃、だったんでしょうか」
医師は画面の数字を見て、それから壁のカレンダーを見た。
「そうですね、正確には分かりませんが、だいたいこのあたりでしょう」
医師は、六月の半ばのあたりを、指で軽く囲った。
その中に、十八日が入っていた。




