未来
病院を出て、僕らは何も喋らずに歩いた。
国道沿いの歩道を、駅とは反対の方向へ歩いた。どこへ行くのかは、二人とも決めていなかった。
あの夜と、同じ道だった。
定食屋の前を通った。昼の営業をやっていて、引き戸が半分開いていて、中からテレビの音が聞こえた。
その少し先に、自動販売機があった。
彼女は、そこで立ち止まった。
「正宗」
「うん」
「私、いま、ぜんぜん嬉しくないの」
「……うん」
「ひどいと思う?」
「思わない」
「怖いのよ」
彼女は自販機のボタンを見ていた。
「二十歳なのよ。大学二年生で、卒論のテーマもまだ決まってないの。親に何て言えばいいのか分からないし、お金もないし、あなただって一人暮らしで仕送りでしょう」
「そうだな」
「それに、この子を産んだら、私の人生は全部変わるわ。読みたい本も読めなくなるかもしれない。大学だって、続けられるか分からない」
「うん」
「怖いって言っていい?」
「いいよ」
「あなたは怖くないの?」
僕は、正直に答えた。
「怖い」
「そう」
「でも」
僕は言った。
「怜奈が言ったことのほうが、気になってる」
「なに」
「六月十八日」
◇
彼女は、僕のほうを向いた。
「……ええ」
「あの日だ」
「そうね」
「怜奈が、九時七分に死ぬはずだった日だ」
彼女は何も言わなかった。
トラックが一台、国道を走っていった。風圧で、街路樹の葉が揺れた。
やがて彼女は、鞄から財布を出した。
中から、四つに折った紙を抜いて、僕に差しだした。
定食屋の紙ナプキンだった。折り目が擦れて、端が毛羽立っていた。
「まだ持ってるのか」
「証拠だって言ったでしょう」
僕は受け取って、開いた。
横向きの線が一本。右端に、短い縦棒。線の上に打った点と、そこから外へ散らばった何本かの斜線。
あの夜、定食屋のカウンターでペンを借りて、僕が描いたものだった。
「下手だわ、やっぱり」
「うるさい」
「この縦棒が、九時七分ね」
「そうだ」
僕はポケットを探った。ペンがなかった。
彼女が財布からシャープペンを出して、黙って渡してきた。
「怜奈」
「なに」
「僕、あの日からずっと考えてたことがある」
「何を」
「僕の能力が、何を見てるのかってことだ」
僕は、ナプキンを自販機のガラスに押しつけた。
「僕はずっと、二十四時間以内に死ぬ人が分かる能力だと思ってた。三回ともそうだったから。猫も、近所の人も、秋田も」
「ええ」
「でも、たぶん、違う」
僕は、縦棒を指さした。
「見てるのは、死じゃなくて、未来のほうなんだと思う。この線が、二十四時間より先に続いてないときに、音が鳴る」
「……それは、同じことじゃないの」
「同じだと思ってた。あの日までは」
僕は、シャープペンの先を縦棒に当てた。
「でも、もし線のほうが伸びたら、話が違う」
そして、縦棒の右側へ、線を引いた。
横向きに、ナプキンの端まで。
彼女の口が、少しだけ開いた。
「六月十八日の夜、怜奈の人生に、それまでなかったものが生まれた」
僕は言った。
「その先を生きないと、存在できないものが」
◇
彼女は、長いあいだ黙っていた。
自販機の前に立ったまま、片手を自分のお腹のあたりに当てていた。そこに何かがあると分かったのは、一時間前のことだ。
「……つまり」
彼女はゆっくり言った。
「あの夜の時点で、私には、その後の未来ができたのね」
「たぶん」
「母親になる未来と、この子を産む未来と、育てる未来と、その子と生きる未来と」
「うん」
「それが一気に発生したから、二十四時間後に終わる未来と両立しなくなった」
「……そう思ってる」
「だから、書き換わった」
「かもしれない」
彼女はナプキンを受け取って、僕の引いた線を指でなぞった。
「正宗」
「うん」
「線を書き足しただけじゃない」
僕は笑ってしまった。
「そうだな」
「それ、反証できないわよ」
「知ってる」
「検証する方法がないの。私が助かった理由は、あなたの雑な理論かもしれないし、あなたの能力が外れただけかもしれないし、いま言ったやつかもしれない。三つとも、区別がつかないわ」
「つかないな」
「占い師と同じ構造よ」
「そうだな」
「私、占いは嫌いなの」
「知ってる」
彼女は自販機のボタンに手を伸ばして、コーンポタージュを押した。冷たいほうだった。
缶が落ちてきた。
彼女はそれを両手で持って、僕を見た。
「でも、採用するわ」
「いいのか」
「いいのよ」
彼女は言った。
「ひと月前の私なら、根拠がないって言って切り捨てたわ。反証できない話は検証できないって。私、あなたに何度もそう言ったもの」
「言われた」
「でもね、正宗」
彼女は缶のプルタブを開けた。ぷしゅ、と気の抜けた音がした。
「私、あの夜に生き残ったのよ。理由が分からないまま」
「うん」
「理由が分からないまま生きてるんだから、理由が分からないまま信じたっていいでしょう」
彼女は一口飲んで、顔をしかめた。
「まずい」
「学習しないな」
「しないのよ」
彼女はナプキンを四つに折り直して、財布に戻した。
◇
僕らは、そこからまた歩いた。
駅のほうへ引き返して、電車に乗った。三駅で降りた。
彼女の家がある町だった。
初めて来た。あの朝、僕が走りながら「知らない」と思っていた場所に、いま僕は立っていた。
駅前の商店街を抜けて、住宅地の坂を上る。
「正宗」
「なに」
「一つ、訂正することがあるわ」
「何を」
「私、恋愛小説を読まない理由を言ったでしょう」
彼女は少し前を歩いていた。
「素敵な人と運命的に出会って、恋に落ちて、幸せになるなんて、現実には存在しないから読まないって」
「言ってたな」
「訂正するわ」
彼女は振り返らずに言った。
「一件、観測されたの」
僕は少し笑った。
「サンプル数一か」
「一よ」
「統計的には意味がないな」
「意味がないわ」
彼女は坂の途中で立ち止まって、こちらを向いた。
「でも、私にとっては全部なの」
◇
坂を上りきったところに、彼女の家があった。
二階建ての、ごくふつうの家だった。門のところに自転車が二台停めてあって、玄関の横に傘立てがあった。
二階のベランダに、プランターが三つ並んでいた。
支柱が立っていて、そこに緑の枝が巻きついている。葉のあいだに、小さな実がいくつか見えた。赤いのは一つもなかった。全部まだ緑だった。
「あれか」
「あれよ」
「まだ緑だな」
「今年のは、もう終わりかけだって言ったでしょう。そのあと植え直したの」
彼女はベランダを見上げていた。
「秋には無理ね。来年よ」
「来年か」
「来年の六月に、五個食べてもらうわ。忘れてないでしょうね」
「忘れてない」
僕は言った。
そして、その言葉の意味を、そのとき初めて、ちゃんと理解した。
去年の僕は、この力を呪っていた。
どうしてこんなものが自分に備わったのか、一度も分からなかった。いまでも分からない。
ただ、あの朝、出席カードの束が前の列から降りてきて、斜め前の席の人が振り返って、僕がその顔を見て、音が鳴った。
鳴らなかったら、僕はこの坂に立っていない。
嫌な力だと思っていた。
でも、この力があったから、僕はあの日、この人の顔をまっすぐ見た。
たぶん、それだけでいい。
◇
「正宗」
彼女が門の前に立って、こちらを振り返った。
僕は、坂の二メートルほど下で止まっていた。
自分でも気づかないうちに、足が動かなくなっていた。
これから、この家の中に入って、彼女の母親に会う。何と言えばいいのか、僕はまだ一つも考えていない。
「正宗」
彼女がもう一度呼んだ。
門の前で、片手を差しだして、少しだけ首を傾げていた。
六月の朝、出席カードの束を差しだしてきたときと、同じ手だった。
「早く」
僕は、彼女の名前を呼んだ。
「怜奈」
「なに」
「用はない」
「知ってるわ」
彼女が笑った。
僕は坂を上って、その手を取った。
指が絡んだ。
もう、どちらの手を出すかで迷うことはなかった。




