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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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そのとき君は、僕の名を呼ぶ

「正宗」


 僕は、扉の取っ手を握ったまま止まった。


 風の音だと思った。


 昨日から一睡もろくにしていない頭が、聞きたい音を勝手に作っただけだ。そういうことはある。葬式のあと、何日か、僕は秋田の声を聞いた。


 だから、僕は動かなかった。取っ手を握ってから、もう三十分近く、そうしていた。


「正宗」


 二回目だった。


 息が切れていた。


             ◇


 扉を開けた。


 階段の途中、踊り場の少し上に、怜奈が立っていた。


 昨日と違う服を着ていた。白いシャツと、紺のスカート。髪が乱れていて、前髪が額に張りついていた。顔が真っ赤で、肩が大きく上下していた。


 鞄を持っていなかった。何も持っていなかった。


「……はぁっ……はぁっ……」


 彼女は膝に手をついて、しばらく息をしていた。


「ごめん、なさい……遅れたわ……」


 僕は、動けなかった。


 体が、命令を聞かなかった。


「正宗」


 彼女が顔を上げた。


「九時五十分よ」


             ◇


 僕は、たぶん五歩か六歩を、覚えていない。


 気づいたら彼女の前にいて、両手で彼女の腕を掴んでいた。


 温かかった。


 汗で湿っていて、走ってきたせいで熱くなっていた。


「怜奈」


「なに」


「本物?」


「は?」


「本物?」


「本物よ」


 僕は彼女の顔に手を当てた。頬が熱かった。耳が熱かった。


 首に指を当てた。


 脈が、ものすごい速さで打っていた。


「ちょっと、どこ触ってるの」


「心臓」


「そこ首よ」


「動いてる」


「動いてるわよ」


 僕は彼女を抱きしめた。


 力の加減が分からなかった。彼女が「ぐえ」と言った。ぐえ、という音を人間が出すのを、僕は初めて聞いた。


「苦しい」


「うん」


「苦しいって言ってるでしょう」


「うん」


 僕は緩めなかった。


 彼女の背中が、呼吸で上下しているのが手のひらに伝わってきた。シャツの下が熱かった。髪が汗の匂いと、それから昨日にはなかった石鹸の匂いがした。


 彼女は、ゆっくりと腕を上げて、僕の背中に回した。


「……生きてるわよ」


「うん」


「ちゃんと、生きてる」


 僕は何も言えなかった。


 喉の奥がふさがって、変な音が出た。


 彼女の肩に顔を押しつけた。シャツが濡れるのが分かった。


「正宗」


「うん」


「顔、上げなくていいわ。誰も見てないから」


             ◇


 どれくらいそうしていたのか、分からない。


 やがて僕は顔を上げて、彼女を室外機の横に座らせた。


 座らせるときに、足元が目に入った。


 靴のかかとの内側に、赤いものがついていた。


「怜奈」


「なに」


「足」


 彼女は自分の足を見た。


「あー」


「あー、じゃないだろ」


「駅から走ったのよ。この靴、走る靴じゃないの」


 彼女は靴を脱いだ。かかとの皮が剥けて、靴下が張りついていた。


 僕はその足を見ていた。


 それを見ていたら、急に、別の感情が来た。


             ◇


「なんで、いなくなったんだよ」


 彼女が、少しだけ目を伏せた。


「電話にも出ない。メッセージも見ない。僕、朝からずっと走ってたんだぞ。通学路も、コンビニも、歩道橋も、教室も、全部見た。学生課にも行った。家も知らないんだ。怜奈の家がどこなのかも、僕は知らないんだよ」


 声が、自分でも驚くくらい大きかった。


「僕は、九時七分に、ここに立ってたんだ」


「……ええ」


「約束したのは怜奈だろ」


「したわ」


「忘れないでよって、二回言っただろ」


「言ったわ」


 彼女は僕を見た。


 目が赤かった。走ってきたせいだけではなかった。


「六時過ぎに目が覚めたの」


 彼女は言った。


「あなたはまだ寝てた。すごく深く寝てたわ。昨日、たぶん私より疲れてたのよ」


「……」


「それで、少しのあいだ、天井を見てたの。あと三時間だと思って」


 彼女は、素足を両手で抱えるようにした。


「そうしたら、昨日の夜のことを思い出したのよ」


「夜の」


「卒業アルバム」


 僕は、口を閉じた。


「あの人の写真、私、けっこう長いこと見てたでしょう。普通の顔ね、なんて失礼なことを言って」


「……ああ」


「あなた、あの人を四年持ってるって言ったわよね。重いって」


「言った」


「それで、天井を見ながら考えたの」


 彼女は言った。


「もし、九時七分に、あなたの目の前で私が死んだら」


「……」


「あなた、私を何年持つの?」


 僕は、答えられなかった。


「十年? 二十年? 死ぬまで?」


「怜奈」


「私、それが嫌だったの」


 彼女の声が、少し震えていた。


「死ぬのも嫌だけど、あなたにそれを見せるのはもっと嫌だったのよ。あなた、たぶん一生アルバムを開けなくなるわ。私、そこまでやりたくなかったの」


「……」


「だから、出てきたの。Tシャツを畳んで、コップだけ洗って」


「……コップ」


「洗い物を残していくのは、なんとなく嫌だったから」


             ◇


「それで、どこにいたんだ」


「家よ」


 彼女は言った。


「すぐ電車に乗って帰ったわ。七時前には着いてた。母が起きてきて、おかえりって言われたの」


「……なんて答えた」


「ただいま、って」


 彼女は少し笑った。


「それだけよ。友達のところ楽しかった? って訊かれて、楽しかったって答えたの。これは嘘じゃないわ」


「うん」


「シャワーを浴びて、服を着替えて、それで、部屋に座ってた」


 彼女は、コンクリートの一点を見ていた。


「床に座って、ドアに背中をつけて、目覚まし時計をずっと見てたの。九時七分になるまで」


「……」


「八時五十五分に、母がドアをノックしたわ」


 彼女は言った。


「朝ごはん、食べていくの? って」


「……」


「いらないって言ったの。そうしたら、じゃあ置いておくからって。それだけ言って、階段を降りていったわ」


 彼女は、目をこすった。


「私、そのとき初めて、本気で泣いたのよ。昨日じゃなくて、今朝」


 僕は、彼女の手を握った。


 彼女は握り返してきた。


「九時七分になったわ」


「うん」


「何も起きなかったの」


「うん」


「一分待って、二分待って、五分待ったわ。何も起きなかった」


 彼女は、少し息を吸った。


「それで、走ったのよ」


「携帯は」


「電池が切れてたわ。昨日、一日中使ったから」


「充電しろよ」


「充電器を探す時間が惜しかったの。鞄も持たずに出たわ。定期だけポケットに入れて」


「……」


「だって、あなた、屋上で待ってるでしょう」


 彼女は言った。


「一人で、私が来ないと思いながら、待ってるでしょう」


 僕は、彼女の手を強く握った。


「人生で四回目よ、走ったの」


「五回目じゃないのか」


「昨日のは二回に数えないの。あれは逃げただけだもの」


             ◇


 朝の日差しが真上から来ていて、給水塔の影がほとんどなかった。暑かった。


「正宗」


「うん」


「鳴った?」


「え」


「ノイズ。いま、私を見て」


 僕は彼女の顔を見た。


 ずっと見ていた。逸らさずに、たぶん十秒くらい見ていた。


「鳴らない」


「そう」


「でも」


 僕は言った。


「昨日も言ったけど、鳴らないのは、何の証明にもならないんだ。僕の能力は、一人につき一回しか鳴らない。もう鳴ったから鳴らないのか、鳴る必要がなくなったから鳴らないのか、僕には区別がつかない」


「そうよね」


 彼女は膝を抱えた。


「じゃあ、私が助かったのかどうかは、誰にも分からないのね」


「分からない」


「あなたの能力が外れただけかもしれないし」


「かもしれない」


「あなたの理論が当たったのかもしれない」


「……」


「でも、それも検証できないわ」


 彼女は言った。


「昨日、私はあなたの話をたくさん批判したけど、結局そこは何も変わってないのよ。私が生きていても、あなたの仮説は証明されないの。対策をしたから助かったのか、最初から死なない予定だったのか、区別する方法がないんだもの」


「そうだな」


「だから、たぶん、私たちには一生分からないわ」


 彼女はそう言って、膝に顎を乗せた。


「いいわ」


「え」


「分からないままでいい。私、生きてることにする」


 彼女は国道のほうを見ていた。


「昨日、私はあなたの能力を信じるか信じないかじゃなくて、どっちに賭けたほうが損が少ないかで決めたのよ。今日も同じにするわ」


「どっちが損が少ないんだ」


「理由を探して一生考え続けるのと、分からないまま生きるのと」


 彼女はこちらを向いた。


「比べるまでもないでしょう」


             ◇


 携帯が震えた。


 隆二だった。


『三限の前な』

『学食の券売機の前で待ってる』

『桃井さんも来るんだろ』


 僕は画面を、彼女に見せた。


 彼女はそれを読んで、しばらく黙っていた。


 それから、笑った。


 今日、初めての、ちゃんとした笑い方だった。


「行くわ」


「歩けるのか、その足で」


「歩けるわよ。絆創膏を貸して」


「持ってない」


「役に立たないわね」


 彼女は靴を履き直して、立ち上がった。少しよろけて、僕の腕を掴んだ。


「私、ゆうべ約束したもの」


「したな」


「約束したことは、守るのよ。私はそういう人間なの」


「知ってる」


 彼女は、こちらを向いた。


 立ったとき、彼女の顔が、思っていたより近くにあった。


「正宗」


「なに」


「用はないわ」


「知ってる」


「明日も呼ぶわよ」


「呼べよ」


「明後日も呼ぶわ」


「呼べ」


「その次の日も」


「うるさくなるまで呼べって言っただろ」


 彼女は少しのあいだ、僕を見ていた。


「まだ足りないわね」


 そう言って、彼女は屋上の扉を押した。


             ◇


 学食の券売機の前で、隆二が腕を組んで立っていた。


 僕らを見つけると、片手を上げた。


「おせえよ」


「ごめん」


「カツカレーな。大盛りな」


「聞いてない」


 彼女が隆二の隣に並んで、券売機のボタンを見上げた。


「私、何にしよう」


「桃井さんも大盛りにしとけって。正宗が出すから」


「遠山くん、あなた本当にいい性格をしてるわね」


「よく言われる」


「それと、保健センターってどこにあるの」


「え、なんで」


「靴擦れよ」


「どんだけ走ったんだよ」


「三キロくらい」


「なんで?」


 彼女は少し考えるような顔をして、それから言った。


「人に会いに」


 隆二が僕のほうを見た。


 僕は券売機のボタンを見ていた。


「……あー、うん。そう」


 隆二はそれ以上訊かなかった。


             ◇


 三人分の食券を買った。千五百二十円だった。


 窓際の席が空いていた。三人で座った。僕の向かいに彼女が座って、その隣に隆二が座った。


 隆二が喋っていた。昨日の夜、自転車の鍵を取りに行った話を、もう五回目くらいで、それでも毎回少しずつ誇張が増えていた。懐中電灯の光の届く距離が、話すたびに長くなっていた。


 彼女は、カツを箸で切りながら、それを聞いていた。ときどき、余計なところで質問をして、隆二の話をわざと脱線させていた。


 僕は、二人を見ていた。


 人の顔を、長いあいだ見ていた。


 何も鳴らなかった。


 鳴らないことが何の証明にもならないことは、僕がいちばんよく知っていた。


 それでも、その日の昼は、それでよかった。

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