いない
目を開けたとき、部屋が明るかった。
それがまず、おかしかった。
カーテンの隙間から入ってくる光が、白い。夜明けの青ではない。とっくに朝になっている光だった。
僕は跳ね起きた。
携帯を掴んだ。
七時五十二分。
六時に起きて朝ごはんを作れと言われていた。二時間近く、寝過ごしていた。
「怜奈」
声が、部屋の中で跳ね返った。
ベッドの上に、誰もいなかった。
シーツを手で触った。冷たかった。人がいた形に少し皺が寄っていて、それだけが残っていた。
枕の横に、Tシャツが畳んで置いてあった。
昨日の夜、彼女に渡したやつだ。袖を内側に折って、きれいに四角くしてある。僕の洗濯物は、この部屋で一度もそんな形になったことがない。
「怜奈」
ユニットバスの扉を開けた。いない。
台所を見た。いない。
彼女の鞄がない。靴がない。玄関のドアのチェーンが、外れていた。
流しの水切りかごに、昨日使ったコップが二つ、伏せて置いてあった。
洗ってあった。
僕が洗ったのではない。
◇
電話をかけた。
『おかけになった電話は、電源が入っていないか』
切った。もう一度かけた。同じだった。
昨日の夕方、彼女は言っていた。私のは電池が少ないから残しておきたい、と。
あのあと、彼女は一日中それを使った。メモを取り、統計を調べ、母親に嘘をつき、時刻を確かめた。充電器は、たぶん持っていない。
メッセージを打った。
『どこにいますか』
『返事ください』
『いまどこ』
既読はつかなかった。
僕はTシャツのまま外へ出ようとして、鍵を持っていないことに気づいて戻った。財布を掴んで、また出た。
外階段を降りるとき、足が滑って、三段まとめて落ちた。
膝を打った。痛かったが、痛いと思っている時間が惜しかった。
◇
最初に、大学までの道を走った。
昨日の夜、二人で歩いた道だ。コンビニの前を通って、国道の歩道橋を渡って、並木のあるほうへ曲がる。
いなかった。
コンビニに入って、店内を一周した。店員が変な顔をした。
いなかった。
歩道橋の上から、国道の両方向を見た。車が流れていた。昨日の雨の跡はもう乾いていた。事故の跡はなかった。救急車もいなかった。
いなかった。
走りながら、僕は自分がどれだけ何も知らないかに気づいていた。
彼女の家を知らない。住所を聞いていない。最寄り駅も知らない。実家に住んでいるということしか知らない。母親がいることは知っている。父親がいるかどうかも知らない。
一日中一緒にいて、七十五時間の無駄を数えて、名前を五十回呼びあって、それでも僕は彼女の家に行く方法を持っていなかった。
十七時間で足りるわけがなかったのだ。
◇
大学の正門を、八時二十分に通った。
守衛室の前を走って抜けた。昨日の夜、僕らはここを避けて、裏の非常階段から入った。あの扉の音を思い出した。
学生が何人も歩いていた。ふつうの木曜の朝だった。
文学部棟の三階まで、階段を駆け上がった。
第三講義室の扉を開けた。
人がいた。二十人くらい。誰も知らない顔だった。教壇で、知らない教授がプロジェクタと格闘していた。
水曜の一限ではなかった。
昨日の朝、僕らがいた教室に、今日は別の講義が入っていた。当たり前だった。
それでも僕は、教室の全部の席を見た。
いなかった。
「すみません」と誰かが後ろから言った。僕は扉を閉めて、廊下へ出た。
◇
廊下に、見覚えのある顔が三人いた。
水曜の一限で、いつも後ろのほうに固まっている連中だ。名前は知らない。向こうも僕の名前を知らないと思う。
僕は財布を出した。
カードを入れるところに、昨日のシールが挟んである。三枚のうちの、肩がぶつかった一枚。彼女が口を開けたまま写っているやつ。
それを抜き出して、彼らに差しだした。
「すみません」
「……えっ、なに?」
「この人、知りませんか。桃井怜奈さん。水曜一限、同じ教室です」
三人がシールを覗きこんだ。
一番背の高い男が、首を傾げた。
「桃井……? 誰だっけ」
「同じ学年です。文学部の」
「いや、分かんねえな」
隣の女子が、シールを指で引き寄せた。
「あー。この人、いるかも」
「知ってるんですか」
「知らないけど、見たことある。いつも前から三列目くらいの端に座ってる人だよね。本読んでる」
「そうです」
「ごめん、名前知らない」
彼女は申し訳なさそうな顔をした。本当に申し訳なさそうな顔だった。それが、余計にこたえた。
「家、知りませんか」
「家?」
「どこに住んでるか」
「いや、知らないよ。喋ったこともないもん」
「誰か知ってる人、いませんか」
三人が顔を見合わせた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……あの人、いつも一人じゃない?」
背の高い男が言った。
悪気はなかった。事実を言っただけだ。
「うん、一人だね」
「一回も誰かと喋ってるとこ見たことない」
僕は、シールを財布に戻した。
指がうまく動かなくて、二回落としかけた。
「あの、その人、どうかしたの?」
女子が訊いた。
僕は、答えられなかった。
どうかしたのかと訊かれて、答えられることが何もなかった。
「……いえ。ありがとうございます」
僕は走った。
廊下の角を曲がるとき、後ろで誰かが「なんだ、あれ」と言ったのが聞こえた。
◇
学生課の窓口は、事務棟の一階にある。
八時半を過ぎたところで、窓口は開いていた。眼鏡をかけた職員が、書類の束をホチキスで留めていた。
「すみません。学生の住所を教えてほしいんですが」
職員が顔を上げた。
「それはお教えできません」
即答だった。
「同じ学科の学生です。二年の、桃井怜奈さん」
「どなたのご要望でも、学生の個人情報はお出しできない決まりです」
「連絡が取れないんです」
「ご友人なら、直接ご本人にお訊きください」
職員は、悪い人ではなかった。
ただ、そういう決まりだった。それは、たぶん正しい決まりだった。僕がもし彼女につきまとう人間だったら、この窓口は彼女を守っていることになる。
「……分かりました」
「何かお困りですか」
「いえ」
僕は、事務棟を出た。
時計を見た。
八時四十六分。
メッセージが一件入っていた。
隆二だった。
『カツカレー、三限の前な』
『忘れてねえよな』
僕は、その画面をしばらく見ていた。
それから、返事をせずに走りだした。
◇
屋上の鉄の扉を、両手で押した。
朝の日差しが、正面から来た。
昨日の雨は、もうどこにも残っていなかった。コンクリートが白く光っていて、給水塔の影が短くて、風が思ったより強かった。
誰もいなかった。
僕は、扉を後ろ手に閉めて、フェンスのところまで歩いた。
そこから、屋上全体を見た。給水塔の裏まで回った。昨日の夜、二人で息を止めて隠れた隙間だ。配管と壁のあいだに、埃が溜まっているだけだった。
室外機の裏も見た。貯水タンクの脇も見た。
誰もいなかった。
携帯を見た。
八時五十四分。
まだだ。
まだ十三分ある。
僕は扉のそばに立って、待った。
扉の向こうの階段に、足音がしないか。ずっと耳を澄ませていた。
風がフェンスを鳴らした。国道の音が上がってきた。下のほうで、誰かがサッカーボールを蹴る音がした。
八時五十八分。
九時ちょうど。
どこかの教室のチャイムが鳴った。
一限が始まった。学生の声が減った。大学が静かになった。
ちょうど二十四時間前、僕はこの下の教室にいた。マイクがハウリングしていて、隆二がメロンパンを出していて、出席カードの束が前の列から降りてきていた。
斜め前の席で、誰かが振り返った。
九時三分。
九時五分。
僕は扉を開けて、階段の下を覗いた。
誰も上がってきていなかった。
九時六分。
僕は、時計の画面をずっと見ていた。数字が変わるところを、見逃さないように。
九時七分。
◇
何も起きなかった。
当たり前だ。何かが起きるのは、僕の頭の中ではない。どこか、僕の知らない場所で、もう起きたか、いま起きているかのどちらかだ。
九時八分になった。
九時九分になった。
僕はフェンスのところまで歩いて、そこにしゃがみこんだ。
昨日の昼、彼女が座っていた場所だった。彼女は室外機の横のコンクリートに腰を下ろして、弁当箱を開けて、プチトマトを最初に食べた。好きだから最初に食べるのだと言った。食べ損ねたら嫌だから、と。
九時十二分。
彼女は、約束を破る人間ではなかった。
それが、いま僕の頭にある、たった一つの確かなことだった。
門限を二十年間一度も破らなかった。親に嘘をついたのは、昨日の夜が生まれて初めてだった。店を出るときに店員へ挨拶をして、それを自分で「イレギュラー」だと言った。あの人は、そういう人間だ。
その人が、自分で場所を決めて、自分で時刻を決めて、忘れないでよと二回言った約束に、来ていない。
来られない理由が一つしかない。
九時十五分。
僕は膝に顔をつけた。
六時に起きなかった。
卵焼きを作らなかった。
寝ているあいだに、彼女は起きて、Tシャツを畳んで、コップを洗って、靴を履いて、チェーンを外して、出ていった。僕は何も気づかなかった。
彼女がどこで、何をされて、何に巻きこまれたのか、僕は知らない。知る方法がない。昨日からずっとそうだった。僕に分かるのは、死ぬという一行だけで、その前後には何も書かれていない。
結局、猫のときと同じだった。老人のときと同じだった。秋田と同じだった。
僕は、鳴ったことを知っていて、それだけだった。
運命を壊すだの、因果をばらばらにするだの、あんなものは全部、紙ナプキンに描いた下手な線だ。彼女は最初からそう言っていた。ずいぶん雑な理論ね、と。絵も下手だわ、と。
その通りだった。
僕は、雑な線で、彼女に人生で初めて親への嘘をつかせて、人生で初めての写真を撮らせて、人生で初めて誰かを好きだと言わせた。
そして、来年の六月の約束をした。
九時二十分。
僕は立ち上がった。
立ち上がったら、視界が揺れた。朝から何も食べていない。昨日の夜も、ほとんど食べていない。
どこへ行けばいいのか、分からなかった。
彼女の家も知らない。家族の連絡先も知らない。学生課は教えてくれない。同じ教室に一年二ヶ月いた人間は、誰も彼女の名前を知らない。三限の前に、隆二がカツカレーを待っている。
何もかも、どうでもよかった。
目の前が滲んでいた。
僕は袖で顔をこすった。こすったら、余計に滲んだ。
風が、フェンスを鳴らした。
僕は、鉄の扉のほうへ歩いた。
昨日、三回押した扉だった。
昼に一回。夕方に一回。夜中に一回。そのたびに、向こうに彼女がいた。
いまは、いない。
僕は扉に手をかけた。




