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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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32/35

いない

 目を開けたとき、部屋が明るかった。


 それがまず、おかしかった。


 カーテンの隙間から入ってくる光が、白い。夜明けの青ではない。とっくに朝になっている光だった。


 僕は跳ね起きた。


 携帯を掴んだ。


 七時五十二分。


 六時に起きて朝ごはんを作れと言われていた。二時間近く、寝過ごしていた。


「怜奈」


 声が、部屋の中で跳ね返った。


 ベッドの上に、誰もいなかった。


 シーツを手で触った。冷たかった。人がいた形に少し皺が寄っていて、それだけが残っていた。


 枕の横に、Tシャツが畳んで置いてあった。


 昨日の夜、彼女に渡したやつだ。袖を内側に折って、きれいに四角くしてある。僕の洗濯物は、この部屋で一度もそんな形になったことがない。


「怜奈」


 ユニットバスの扉を開けた。いない。


 台所を見た。いない。


 彼女の鞄がない。靴がない。玄関のドアのチェーンが、外れていた。


 流しの水切りかごに、昨日使ったコップが二つ、伏せて置いてあった。


 洗ってあった。


 僕が洗ったのではない。


             ◇


 電話をかけた。


『おかけになった電話は、電源が入っていないか』


 切った。もう一度かけた。同じだった。


 昨日の夕方、彼女は言っていた。私のは電池が少ないから残しておきたい、と。


 あのあと、彼女は一日中それを使った。メモを取り、統計を調べ、母親に嘘をつき、時刻を確かめた。充電器は、たぶん持っていない。


 メッセージを打った。


『どこにいますか』


『返事ください』


『いまどこ』


 既読はつかなかった。


 僕はTシャツのまま外へ出ようとして、鍵を持っていないことに気づいて戻った。財布を掴んで、また出た。


 外階段を降りるとき、足が滑って、三段まとめて落ちた。


 膝を打った。痛かったが、痛いと思っている時間が惜しかった。


             ◇


 最初に、大学までの道を走った。


 昨日の夜、二人で歩いた道だ。コンビニの前を通って、国道の歩道橋を渡って、並木のあるほうへ曲がる。


 いなかった。


 コンビニに入って、店内を一周した。店員が変な顔をした。


 いなかった。


 歩道橋の上から、国道の両方向を見た。車が流れていた。昨日の雨の跡はもう乾いていた。事故の跡はなかった。救急車もいなかった。


 いなかった。


 走りながら、僕は自分がどれだけ何も知らないかに気づいていた。


 彼女の家を知らない。住所を聞いていない。最寄り駅も知らない。実家に住んでいるということしか知らない。母親がいることは知っている。父親がいるかどうかも知らない。


 一日中一緒にいて、七十五時間の無駄を数えて、名前を五十回呼びあって、それでも僕は彼女の家に行く方法を持っていなかった。


 十七時間で足りるわけがなかったのだ。


             ◇


 大学の正門を、八時二十分に通った。


 守衛室の前を走って抜けた。昨日の夜、僕らはここを避けて、裏の非常階段から入った。あの扉の音を思い出した。


 学生が何人も歩いていた。ふつうの木曜の朝だった。


 文学部棟の三階まで、階段を駆け上がった。


 第三講義室の扉を開けた。


 人がいた。二十人くらい。誰も知らない顔だった。教壇で、知らない教授がプロジェクタと格闘していた。


 水曜の一限ではなかった。


 昨日の朝、僕らがいた教室に、今日は別の講義が入っていた。当たり前だった。


 それでも僕は、教室の全部の席を見た。


 いなかった。


「すみません」と誰かが後ろから言った。僕は扉を閉めて、廊下へ出た。


             ◇


 廊下に、見覚えのある顔が三人いた。


 水曜の一限で、いつも後ろのほうに固まっている連中だ。名前は知らない。向こうも僕の名前を知らないと思う。


 僕は財布を出した。


 カードを入れるところに、昨日のシールが挟んである。三枚のうちの、肩がぶつかった一枚。彼女が口を開けたまま写っているやつ。


 それを抜き出して、彼らに差しだした。


「すみません」


「……えっ、なに?」


「この人、知りませんか。桃井怜奈さん。水曜一限、同じ教室です」


 三人がシールを覗きこんだ。


 一番背の高い男が、首を傾げた。


「桃井……? 誰だっけ」


「同じ学年です。文学部の」


「いや、分かんねえな」


 隣の女子が、シールを指で引き寄せた。


「あー。この人、いるかも」


「知ってるんですか」


「知らないけど、見たことある。いつも前から三列目くらいの端に座ってる人だよね。本読んでる」


「そうです」


「ごめん、名前知らない」


 彼女は申し訳なさそうな顔をした。本当に申し訳なさそうな顔だった。それが、余計にこたえた。


「家、知りませんか」


「家?」


「どこに住んでるか」


「いや、知らないよ。喋ったこともないもん」


「誰か知ってる人、いませんか」


 三人が顔を見合わせた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


「……あの人、いつも一人じゃない?」


 背の高い男が言った。


 悪気はなかった。事実を言っただけだ。


「うん、一人だね」


「一回も誰かと喋ってるとこ見たことない」


 僕は、シールを財布に戻した。


 指がうまく動かなくて、二回落としかけた。


「あの、その人、どうかしたの?」


 女子が訊いた。


 僕は、答えられなかった。


 どうかしたのかと訊かれて、答えられることが何もなかった。


「……いえ。ありがとうございます」


 僕は走った。


 廊下の角を曲がるとき、後ろで誰かが「なんだ、あれ」と言ったのが聞こえた。


             ◇


 学生課の窓口は、事務棟の一階にある。


 八時半を過ぎたところで、窓口は開いていた。眼鏡をかけた職員が、書類の束をホチキスで留めていた。


「すみません。学生の住所を教えてほしいんですが」


 職員が顔を上げた。


「それはお教えできません」


 即答だった。


「同じ学科の学生です。二年の、桃井怜奈さん」


「どなたのご要望でも、学生の個人情報はお出しできない決まりです」


「連絡が取れないんです」


「ご友人なら、直接ご本人にお訊きください」


 職員は、悪い人ではなかった。


 ただ、そういう決まりだった。それは、たぶん正しい決まりだった。僕がもし彼女につきまとう人間だったら、この窓口は彼女を守っていることになる。


「……分かりました」


「何かお困りですか」


「いえ」


 僕は、事務棟を出た。


 時計を見た。


 八時四十六分。


 メッセージが一件入っていた。


 隆二だった。


『カツカレー、三限の前な』

『忘れてねえよな』


 僕は、その画面をしばらく見ていた。


 それから、返事をせずに走りだした。


             ◇


 屋上の鉄の扉を、両手で押した。


 朝の日差しが、正面から来た。


 昨日の雨は、もうどこにも残っていなかった。コンクリートが白く光っていて、給水塔の影が短くて、風が思ったより強かった。


 誰もいなかった。


 僕は、扉を後ろ手に閉めて、フェンスのところまで歩いた。


 そこから、屋上全体を見た。給水塔の裏まで回った。昨日の夜、二人で息を止めて隠れた隙間だ。配管と壁のあいだに、埃が溜まっているだけだった。


 室外機の裏も見た。貯水タンクの脇も見た。


 誰もいなかった。


 携帯を見た。


 八時五十四分。


 まだだ。


 まだ十三分ある。


 僕は扉のそばに立って、待った。


 扉の向こうの階段に、足音がしないか。ずっと耳を澄ませていた。


 風がフェンスを鳴らした。国道の音が上がってきた。下のほうで、誰かがサッカーボールを蹴る音がした。


 八時五十八分。


 九時ちょうど。


 どこかの教室のチャイムが鳴った。


 一限が始まった。学生の声が減った。大学が静かになった。


 ちょうど二十四時間前、僕はこの下の教室にいた。マイクがハウリングしていて、隆二がメロンパンを出していて、出席カードの束が前の列から降りてきていた。


 斜め前の席で、誰かが振り返った。


 九時三分。


 九時五分。


 僕は扉を開けて、階段の下を覗いた。


 誰も上がってきていなかった。


 九時六分。


 僕は、時計の画面をずっと見ていた。数字が変わるところを、見逃さないように。


 九時七分。


             ◇


 何も起きなかった。


 当たり前だ。何かが起きるのは、僕の頭の中ではない。どこか、僕の知らない場所で、もう起きたか、いま起きているかのどちらかだ。


 九時八分になった。


 九時九分になった。


 僕はフェンスのところまで歩いて、そこにしゃがみこんだ。


 昨日の昼、彼女が座っていた場所だった。彼女は室外機の横のコンクリートに腰を下ろして、弁当箱を開けて、プチトマトを最初に食べた。好きだから最初に食べるのだと言った。食べ損ねたら嫌だから、と。


 九時十二分。


 彼女は、約束を破る人間ではなかった。


 それが、いま僕の頭にある、たった一つの確かなことだった。


 門限を二十年間一度も破らなかった。親に嘘をついたのは、昨日の夜が生まれて初めてだった。店を出るときに店員へ挨拶をして、それを自分で「イレギュラー」だと言った。あの人は、そういう人間だ。


 その人が、自分で場所を決めて、自分で時刻を決めて、忘れないでよと二回言った約束に、来ていない。


 来られない理由が一つしかない。


 九時十五分。


 僕は膝に顔をつけた。


 六時に起きなかった。


 卵焼きを作らなかった。


 寝ているあいだに、彼女は起きて、Tシャツを畳んで、コップを洗って、靴を履いて、チェーンを外して、出ていった。僕は何も気づかなかった。


 彼女がどこで、何をされて、何に巻きこまれたのか、僕は知らない。知る方法がない。昨日からずっとそうだった。僕に分かるのは、死ぬという一行だけで、その前後には何も書かれていない。


 結局、猫のときと同じだった。老人のときと同じだった。秋田と同じだった。


 僕は、鳴ったことを知っていて、それだけだった。


 運命を壊すだの、因果をばらばらにするだの、あんなものは全部、紙ナプキンに描いた下手な線だ。彼女は最初からそう言っていた。ずいぶん雑な理論ね、と。絵も下手だわ、と。


 その通りだった。


 僕は、雑な線で、彼女に人生で初めて親への嘘をつかせて、人生で初めての写真を撮らせて、人生で初めて誰かを好きだと言わせた。


 そして、来年の六月の約束をした。


 九時二十分。


 僕は立ち上がった。


 立ち上がったら、視界が揺れた。朝から何も食べていない。昨日の夜も、ほとんど食べていない。


 どこへ行けばいいのか、分からなかった。


 彼女の家も知らない。家族の連絡先も知らない。学生課は教えてくれない。同じ教室に一年二ヶ月いた人間は、誰も彼女の名前を知らない。三限の前に、隆二がカツカレーを待っている。


 何もかも、どうでもよかった。


 目の前が滲んでいた。


 僕は袖で顔をこすった。こすったら、余計に滲んだ。


 風が、フェンスを鳴らした。


 僕は、鉄の扉のほうへ歩いた。


 昨日、三回押した扉だった。


 昼に一回。夕方に一回。夜中に一回。そのたびに、向こうに彼女がいた。


 いまは、いない。


 僕は扉に手をかけた。

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