明日も名前を呼んで
「私たち、一年と二ヶ月、同じ教室にいたのよ」
しばらくして、彼女が言った。
「毎週水曜の一限。全部で、五十回くらいかしら」
「そうですね」
「九十分で五十回だから、七十五時間」
「計算が速いですね」
「同じ部屋で七十五時間過ごして、一言も喋らなかったの、私たち」
彼女はテーブルの木目を見ていた。
「無駄にしたわ」
「……はい」
「もっと早く知り合いたかった」
彼女はそう言って、それから、慌てて付け加えた。
「これ、恋愛小説みたいな台詞ね。嫌だわ」
「嫌ですか」
「嫌よ。でも、本当に思ってるの」
彼女は顔を上げた。
「去年の春、語学で遠山くんに話しかけられたの。私、『人の本を覗かないで』って言って追い払ったわ」
「聞きました」
「聞いたの?」
「朝に。けっこう傷ついたって言ってました」
「悪いことをしたわ」
彼女はそう言って、少し笑った。
「あのとき、もし私が普通に答えてたら、たぶんあなたとも喋ってたのよね」
「たぶん」
「そしたら、去年のうちに友達になってたかもしれない」
「かもしれません」
「私、自分で全部閉めて回ってたのよ。誰も入ってこないように」
彼女は自分の手を見ていた。
「今日、あなたが勝手に開けたわ。最悪の開け方で」
「……すみません」
「謝らないで」
彼女は言った。
「ありがとうって言いたいのよ、いま。でも、死ぬって言われた話にありがとうって言うのは、どう考えても変でしょう。だから言えないの」
「言わなくていいです」
「言いたいのよ」
彼女はテーブルの上に身を乗りだした。
「正宗」
「はい」
「一つ、決めましょう」
「何を」
「明日の朝、どこで九時七分を迎えるか」
◇
僕は、その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「……決めるんですか」
「決めるの」
彼女は真剣な顔をしていた。
「私、今日ずっと考えてたのよ。あの時刻が来るとき、私はどこにいるんだろうって。それが分からないのが、一番怖かったの。道の真ん中かもしれないし、電車の中かもしれないし、一人きりの部屋かもしれない」
「はい」
「だから、決めたいわ。決めておけば、少なくともそこだけは分かるでしょう」
彼女は指を一本立てた。
「屋上」
「大学の?」
「あそこ。今日、三回行ったところ」
「怜奈、さっき嫌だって言いませんでしたか」
「言ったわ。あなたが私に死ぬって言った場所だもの」
彼女はそう言って、それから少しだけ顎を上げた。
「だから、そこがいいの」
「……」
「同じ場所で、同じ時刻に、私がちゃんと立ってたら」
彼女は言った。
「それって、けっこういい話でしょう」
僕は、返事ができなかった。
「約束よ。明日の朝、九時七分に、屋上で」
「……はい」
「あと、これは条件じゃないけど」
彼女は指をもう一本立てた。
「その前に、二人でごはんを食べたいわ。朝ごはん。あなたが作って」
「僕が」
「あなた、料理ができるんでしょう。卵焼きのしょっぱいほうを食べさせて」
「材料があるかどうか」
「卵くらいあるでしょう」
「卵はあります」
「じゃあ決まりね」
◇
「正宗」
「はい」
「正宗」
「はい」
「正宗」
「……なんですか」
彼女は、テーブルに頬杖をついて、僕を見ていた。
「用はないわ」
「用もないのに呼ぶなって言ったの、怜奈ですよ」
「言ったわね」
「言いました」
「撤回するわ」
彼女は少しだけ笑った。
「私ね、今日一日で、あなたの名前を何回も呼んだの。数えてないけど、たぶん五十回くらい」
「そんなに」
「二十年生きて、人の下の名前を呼んだこと、たぶん今日が初めてなのよ」
彼女は頬杖をついたまま、目を伏せた。
「家族以外の人を、名前で呼ぶって、こんなに変な感じがするのね。口の中が落ち着かないの。毎回、少しだけ緊張するわ」
「はい」
「でも、やめたくないの」
彼女は顔を上げた。
「明日も、あなたの名前を呼びたい」
僕は、その言葉を聞いた瞬間に、何かを間違えたくないと思った。
この人が今日、どれだけのことを一人で考えて、どれだけのことを飲みこんで、そのうえでいまその一文を言ったのか。それを、正確に受け取りたいと思った。
だから、敬語をやめた。
「なら呼べよ」
彼女が、ぱっと顔を上げた。
「明日も、その次の日も。何回でも呼べばいい」
「……」
「五十回でも、百回でも、うるさいって言うまで呼べよ」
彼女は、口を開けたまま僕を見ていた。
それから、目のふちが、ゆっくり赤くなった。
「……ずるいわ」
「四回目だな」
「数えなくていいのよ」
彼女はテーブルを回りこんで、僕の横に来た。
そして、座ったまま、僕の肩に額を押しつけた。
「正宗」
「うん」
「私、死にたくない」
「知ってる」
「怖い」
「うん」
「明日の朝、目が覚めなかったらどうしよう」
僕は、彼女の背中に手を回した。
彼女は、僕のシャツを両手で掴んでいた。指に力が入りすぎていて、布が引きつれて音を立てていた。
「怜奈」
「なに」
「僕も、怖い」
彼女が、少しだけ顔を上げた。
「あなたが?」
「朝からずっと怖い。怜奈に言うときも怖かったし、病院で待ってるときも怖かったし、いまも怖い」
「……そう」
「だから、二人とも怖い」
「それ、何の慰めにもなってないわ」
「知ってる」
彼女は少し笑って、それから、僕の首のあたりに顔をうずめた。
「でも、一人で怖いよりはましね」
◇
「正宗」
彼女の声が、すぐ耳のそばでした。
「なに」
「明日も一緒にいたい」
「ああ」
「最後かもしれないから、じゃないのよ。そうじゃなくて」
彼女は、一度言葉を止めた。
「明日も、その次の日も、あなたと一緒にいたいの。だから、いま」
僕は、彼女の顔を見た。
彼女も、僕を見ていた。目を逸らさなかった。
今朝までの僕なら、一秒で逸らしていた距離だった。
「怜奈」
「なに」
「電気、消していい?」
「……お願い」
◇
そのあとのことは、うまく言えない。
二人とも初めてで、どちらも何も知らなくて、途中で何度も止まって、そのたびに確認しあった。
痛い、と彼女が言った。やめようか、と僕が言った。やめないで、と彼女が言った。
暗い中で、彼女の手がずっと僕の背中にあった。
「正宗」
「うん」
「名前、呼んで」
僕は呼んだ。
彼女が返事をした。
もう一度呼んだ。もう一度返事があった。
何回目かのときに、僕は自分が泣いているのに気づいた。彼女に気づかれたくなかったので、顔を彼女の髪に押しつけた。
たぶん、ばれていたと思う。
彼女は何も言わずに、僕の後頭部に手を当てていた。
◇
カーテンの隙間が、少しずつ青くなっていった。
僕らはベッドの上で、シーツにくるまって並んでいた。狭いベッドなので、並ぶというより、押しあっているのに近かった。
「正宗」
「うん」
「寝ないの?」
「寝たくない」
「私もよ」
彼女は僕の腕に額を当てていた。
「でも、眠いわ」
「寝ていいよ」
「嫌」
「なんで」
「目が覚めなかったら嫌だから」
僕は、返事ができなかった。
しばらくして、彼女が小さい声で言った。
「正宗。あなた、六時に起きて朝ごはんを作るのよ」
「ああ」
「卵焼き。しょっぱいほう」
「分かった」
「それから、八時半に出て、九時七分に屋上」
「分かった」
「忘れないでよ」
「忘れない」
彼女の呼吸が、少しずつゆっくりになっていった。
僕は、天井を見ていた。
窓の外で、鳥が鳴きはじめていた。国道を走る車の音が、夜中より増えていた。世界がふつうに朝になろうとしていた。
残り、三時間と少し。
僕は、自分の頭の中に耳を澄ませた。
何も鳴らなかった。
鳴ったら分かる。鳴らなくても、何も分からない。
そういう能力だった。
いつのまにか、僕も眠っていた。




