卒業アルバム
僕のアパートは、大学から歩いて二十分のところにある。
築三十年の二階建てで、外階段は錆びていて、上るとかならず音が鳴る。ワンルームの六畳。台所は玄関の横に一口コンロがあるだけで、風呂はユニットバスだ。
鍵を開けながら、僕は本気で後悔していた。
「あの」
「なに」
「本当に散らかってるので」
「二回目よ、それ」
「三回目かもしれない」
電気をつけた。
怜奈が、部屋の中をゆっくり見回した。
ローテーブルの上に、飲みかけのペットボトルが二本。床に、読みかけの新書が伏せて置いてある。洗濯物は畳んでいない。ベッドのシーツは、三週間洗っていない。
「思ったより、普通ね」
「今日、二回目です。その台詞」
「事実を言ってるだけよ」
「あと、シャツ。濡れたままだと風邪をひきます」
「どうしろっていうの」
僕は棚から一番大きいTシャツを出して渡した。彼女はそれを両手で受け取って、しばらく無言で見ていた。
「……これ」
「洗ってあります」
「そこは疑ってないわ」
彼女はユニットバスの扉を閉めた。
五分ほどして出てきた彼女は、僕のTシャツを着ていた。袖が肘まであって、裾が膝の上まであった。自分のスカートはそのまま穿いていた。
僕は何も言わないことにした。
彼女は部屋に上がって、まっすぐ本棚の前へ行った。
「ちょっと」
「はい」
「これ、全部教科書と参考書じゃない」
「文学部なので」
「文学部だからこそ、もっとあるでしょう。小説は?」
「あります。下の段に」
彼女はしゃがんで、下の段を見た。
そして、長いあいだ黙った。
「怜奈」
「……八冊しかないわ」
「多いほうだと思ってました」
「人生をやり直しなさい」
彼女は本棚の前から立ち上がって、今度は台所へ行った。
そして、水切りかごの中の弁当箱を見つけた。
僕のやつだ。一段の、黒いプラスチックの、蓋がぱちんと二箇所で留まるタイプ。
「これ、あなたの?」
「そうです」
彼女はそれを手に取って、蓋を開けて、閉めて、また開けた。
「パッキンがないわ」
「ないです」
「いいわね。こっちのほうが楽そう」
「たぶん、そういう理由で選びました」
「羨ましいわ」
彼女はそれを元に戻した。
◇
彼女が、本棚の一番上を見上げた。
そこに、厚い箱に入ったものが一つだけ載っている。引っ越してきたときにそこへ置いて、それきり下ろしていない。
「あれ、何?」
「……卒業アルバムです」
彼女は少し黙った。
「高校の?」
「高校のです」
「……見せて」
僕は、その箱を下ろした。
埃が積もっていたので、一度袖で拭いた。
ローテーブルの上に置いて、二人で床に座った。
表紙は紺色で、金色の箔で校名が押してあった。開くと、紙の匂いがした。二年ぶりだった。
彼女はページをめくった。
校舎の写真。体育祭の写真。文化祭の写真。知らない顔と、少し知っている顔が、順番に出てきた。
クラスのページまで来て、彼女の手が止まった。
「二年一組」
「それです」
彼女は、指で名前を追った。
「……あった」
秋田の写真だった。
証明写真の、小さい四角。制服のネクタイが少し曲がっていて、口が半分笑いかけたところで止まっている。撮り直しをしなかったやつだ。
彼女は、それをじっと見ていた。
冷蔵庫が低い音を立てはじめた。
「……普通の顔ね」
「はい」
「ごめんなさい、いま失礼なことを言ったわ」
「いえ」
「でも、本当にそう思ったの。特別な感じが、何もないのよ」
彼女は指先を、その四角の縁に置いた。
「この人、この写真を撮ったときは、まだ死なないでしょう」
「死にません」
「私もそうだわ。私の学生証の写真、去年の四月に撮ったのよ。あのとき私、今日のことなんて一ミリも考えてなかった」
彼女はページをめくらなかった。
「この人のお母さんが、あなたの手を握ったのね」
「握りました」
「なんて言ったんだっけ」
「仲良くしてくれてありがとう、と」
彼女は、ゆっくり息を吐いた。
「……そう」
それから、彼女は指を三つほど右へ動かした。
「これ、あなたね」
「そうです」
「ひどい顔」
「撮り直しはできないんです」
「そうじゃなくて」
彼女は顔を近づけた。
「あなた、この写真でもカメラを見てないわ」
「え」
「ほら。ちょっと左下を見てる。全員こっち向いてるのに、あなただけ」
僕は覗きこんだ。
本当だった。四年前の僕は、レンズの少し下を見ていた。
自分でも気づいていなかった。
「……癖です」
「知ってるわよ」
彼女はアルバムを閉じた。
閉じてから、表紙の上に両手を置いた。
「正宗」
「はい」
「あなた、この人のこと、四年持ってるのよね」
「……持ってます」
「重い?」
「重いです」
「そう」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
僕がアルバムを箱に戻しているあいだ、彼女はずっと同じ姿勢で座っていた。
◇
「正宗」
「はい」
「ノイズって、どんな音なの」
彼女はローテーブルの上で手を組んでいた。
「教えてくれない? ちゃんと」
僕は向かいに座って、少し考えた。
「ラジオのチューニングが合ってないときの音が、一番近いです。でも、耳から入ってくるんじゃないんです。頭の中で鳴るので、耳を塞いでも意味がない」
「痛い?」
「痛くはないです。気持ち悪いだけで。視界も歪みます」
「どれくらい続くの」
「一分くらいです。勝手に始まって、勝手に終わります」
「……何回も鳴るの? 同じ人で」
「鳴りません」
僕は言った。
「三回とも、一回だけでした。猫のときも、近所の人のときも、秋田のときも。鳴るのは、最初に見たときだけです」
「じゃあ」
彼女が、テーブルの上の手を少し動かした。
「じゃあ、もし私が助かったとしても、あなたには分からないのね」
「分かりません」
「鳴らないだけで、それが『助かった』のか『もう鳴り終わったから』なのか、区別がつかないってこと?」
「つきません」
彼女は少し黙った。
「不便な能力ね」
「不便です」
「せめて、解除音とか鳴ればいいのに」
「鳴りません」
「使えないわ」
彼女はそう言って、少し笑った。
そのあと、笑いが消えるのに、そんなに時間はかからなかった。
「正宗」
「はい」
「あなたの能力、外れたことは?」
「ありません」
「三回だけよね」
「三回だけです」
「三回なんて、統計的には何の意味もないわ。今朝、私がそう言ったわね」
「言われました」
「じゃあ、四回目で外れるかもしれないじゃない」
彼女は言った。
冗談のつもりだったのだと思う。
でも、言ったあとに、彼女自身が黙りこんだ。




