本物のほうがいい
僕は、すぐには答えなかった。
代わりに、別のことを言った。
「さっきの質問の答え、いま分かった」
「さっきって」
「商店街で、怜奈が訊いたやつだ」
彼女の肩が、少し動いた。
「あれは」
「僕が助けたかったのは、怜奈か、秋田のときの自分かって」
「……正宗、あれはもう」
「聞いてくれ」
僕は言った。
「秋田が死んだとき、僕が一番つらかったのは、あいつがいなくなったことじゃなかった」
「……」
「僕が何も言わなかったことだ。四年間ずっと、そこだけを考えてた。あいつの顔は、正直、だんだん思い出せなくなってる。でも、僕が『おう』って返した自分の声は、いまでも聞こえるんだ」
彼女は何も言わなかった。
「だから、怜奈の言ったことは当たってる。今朝、僕が屋上に行ったのは、たぶん、そのためだ」
「……うん」
「でも、もう言った」
僕は言った。
「言ったんだ。だからもう、あの後悔は起きない。明日の朝に怜奈が死んでも、僕は『言わなかった』とは思わない」
彼女が、ゆっくり僕を見た。
「それなのに、僕はさっきから怖くて仕方がない」
「……」
「怜奈がいなくなるのが怖いんだ。それだけなんだ」
◇
国道を、車が一台通っていった。
音が遠ざかって、消えるまで、彼女は黙っていた。
「正宗」
「うん」
「私、今日ずっと損得で考えてたの」
彼女は壁から背中を離した。
「あなたの話を信じるか信じないかじゃなくて、どっちに賭けたほうが損が少ないかで決めたのよ。覚えてる?」
「覚えてる」
「いま、計算が合わないの」
彼女は一歩、こちらへ来た。給水塔の裏は狭いので、一歩で距離がなくなった。
「あなたと一緒にいる時間が増えるほど、死ぬのが怖くなるのよ。朝より、昼より、いまのほうがずっと怖いわ。失うものが増えたからでしょう。損失が増えてるの」
「うん」
「なのに、やめたくないの」
彼女は、僕のすぐ前に立っていた。
「損失が増えるほうを選び続けてるのよ、私。今日ずっと。これ、何?」
「……それは、たぶん」
「言わないで」
彼女が遮った。
「自分で言うわ」
そして、彼女は僕のシャツの、胸のあたりを掴んだ。
掴んで、引っぱった。
僕は少し前に傾いた。
唇が、触れた。
◇
短かった。
本当に、一瞬だった。
彼女はすぐに顔を離して、それから、自分の口元を手の甲で押さえた。
「……した」
「しましたね」
「初めてよ」
「僕もです」
「知ってるわ」
彼女は後ろへ一歩下がろうとして、壁にぶつかった。狭いので、下がれなかった。
「ちょっと」
「はい」
「出ましょう。ここ、狭いわ」
◇
給水塔の裏から出ると、風があった。
彼女は少し離れたところで立ち止まって、両手で自分の頬を押さえていた。
「正宗」
「はい」
「私、あなたが好きよ」
風の音がした。
「今日の朝、あなたのことを最低の人間だと思ったわ。人の昼休みに来て、死ぬって言って、助け方は知らないって言うんだもの」
「はい」
「夜にも、もう一回最低だと思ったわ。時計を見たでしょう、あなた」
「見ました」
「でも、あなた、一日中いたのよね」
彼女は、僕を見ていた。
「逃げてもよかったでしょう。言うだけ言って、あとは知らないって。私があんなことを言ったあとなら、帰っても誰も責めなかったわ。私だって、責めなかったと思う」
「……」
「なのに、まだいるの。十メートル後ろを歩いてでも、いるのよ」
彼女の声が、少し揺れた。
「私の人生で、そんなことをした人、一人もいなかったわ」
僕は、彼女のほうへ歩いた。
「怜奈」
「なに」
「僕も、好きだ」
言ってから、自分でも間の抜けた言い方だと思った。
十七時間かけてたどり着いた言葉が、それだった。
「それだけ?」
「それだけ」
「もう少し何かないの」
「ない」
彼女は少し笑った。
「あなた、本当に語彙がないわね」
「すみません」
「謝らないで。あと敬語」
彼女は僕の胸に額をつけた。
背が思っていたより低かった。ちょうど鎖骨のあたりに、彼女の頭があった。
僕は、どうしていいか分からなくて、しばらく手を浮かせていた。それから、背中に回した。
シャツはまだ湿っていて、冷たかった。
「正宗」
「うん」
「これで、演技は終わりね」
「終わった」
「仮初の恋人じゃなくなったわ。どうしましょう」
「どうしよう」
「イレギュラーとしては、たぶん無効になるわよ。本物になっちゃったんだもの」
彼女はそう言って、僕の胸に顔をつけたまま、くぐもった声で続けた。
「私、さっきから、そのことが一番怖いの」
僕は手に力を入れた。
「無効でいい」
「え」
「イレギュラーだとか、運命だとか、紙ナプキンの線だとか、あれ、全部僕が勝手に考えたことだ。根拠もないし、怜奈に何回も雑だって言われた」
「言ったわね」
「無効でいい」
僕は言った。
「本物のほうがいい」
彼女は、しばらく動かなかった。
やがて、頭を僕の胸に押しつけるようにして、二回、三回と小さく擦りつけた。子どもがするような動きだった。
「……ずるいって、今日何回言わせるの」
「三回目だ」
「数えてたの?」
「数えてた」
彼女は顔を上げた。
こんな近くで人の顔を見るのは、生まれて初めてだった。
それでも、僕は目を逸らさなかった。
◇
「正宗」
「うん」
「あと、何時間?」
僕は時計を出して、それから、一度手を止めた。
「見ていいんですか」
「いいわよ。今度は私も一緒に見るから」
僕は画面を彼女に見えるように傾けた。
二時五十分。
「六時間十七分」
「そう」
彼女は画面を見ていた。
それから、フェンスのほうへ目をやった。
「ここで朝を待つのは、嫌よ」
「うん」
「寒いし、虫がいるし、コンクリートは濡れてるし、さっきの警備の人がまた来るかもしれないし、それに」
彼女はそこで言葉を切った。
「それに、ここは、あなたが私に死ぬって言った場所だわ」
「……そうだな」
「別の場所がいい」
彼女はこちらを向いた。
暗かったが、今度ははっきり分かった。耳まで赤かった。
「あなたの部屋に行ってもいい?」
僕は、返事をするのに、たっぷり三秒かかった。
「……あるけど」
「何が」
「あの、散らかってる」
「そこ?」
「そこ」
「二十歳の女が人生最後かもしれない夜に部屋へ行っていいかと訊いてるのに、片付けの話をしたの、あなたが初めてよ」
「他にいるのか」
「いないわよ。比較対象がないの」
彼女は鞄を肩にかけた。
そして、僕の手を取った。
今日、何度目かの、同じ手だった。
「行きましょう。時間がもったいないわ」




