給水塔の裏
扉を押すと、風が入ってきた。
昼間の熱気は、もうほとんど残っていなかった。雨のあとで、コンクリートがまだ濡れていて、踏むたびに靴の底が少し鳴った。
僕らは給水塔の影を抜けて、フェンスのところまで歩いた。
怜奈がフェンスに指をかけて、外を見た。
「……思ったより、普通ね」
正直な人だと思った。
実際、大した眺めではなかった。正門の前の並木は真っ暗で、その向こうの国道に、車のライトがときどき流れていく。住宅街の明かりはほとんど消えていて、遠くにコンビニの看板が一つと、鉄塔の赤い光が二つ、点滅しているだけだった。
「隆二が、きれいだって言ってました」
「遠山くんは、たぶん優しい人なのね」
「そうですね」
「でも」
彼女はフェンスから少し体を離して、上を見た。
「空は、けっこういいわ」
僕も見上げた。
さっきまでの雨雲が、ほとんど流れていた。星は数えられるくらいしか出ていない。都会の空だ。ただ、雲が切れたぶん、黒がきれいに見えた。飛行機の光が、ゆっくり横切っていくのが見えた。
「正宗」
「はい」
「昨日までだって、この景色はあったのよね」
「ありました」
「三階の教室から、毎週この方向を見てたのに、屋上に上がったのは今日が初めてだわ。一年と二ヶ月、私はここに来なかったの」
「僕もです」
「あなたもなの?」
「昼に、初めて来ました」
彼女は笑った。
「じゃあ、私のせいね」
「怜奈のおかげです」
「言い方を変えただけでしょう」
彼女はフェンスに背中を預けて、給水塔のほうを向いた。
「ねえ、正宗。今日の景色、なんで昨日と違って見えるんだと思う?」
「今日が特別だからじゃないですか」
「たぶん違うわ」
彼女は即答した。
「昨日も今日も、空は同じよ。あの鉄塔も、コンビニも、全部前からあったの。変わってないわ」
「じゃあ何が変わったんですか」
「私」
彼女は自分の胸のあたりを、指で軽く叩いた。
「今日、私が変わったの。だから、景色まで変わって見えるのよ」
僕は、何も言えなかった。
「変でしょう。死ぬかもしれないって言われた日に、人生で一番いろんなものが見えてるのよ。腹が立つわ」
「腹が立つんですか」
「立つわよ。だって、もっと早くこうしてればよかったじゃない」
彼女はしゃがんで、鞄から紙袋を取り出した。
書店の袋だった。底のあたりが、まだ少し湿っていた。中から本を出して、暗い中で裏表紙を顔に近づけた。
「読めます?」
「読めないわ。でも覚えてるの」
彼女は暗記した粗筋を、抑揚をつけずに読み上げた。
「幼なじみの二人が、十年ぶりに再会する。二人はそのあいだずっと、お互いを想い続けていた」
「はい」
「ありえないでしょう」
「ありえないです」
「十年も想い続けるって、正気じゃないわ。ふつう忘れるのよ、人間は」
彼女は本を袋に戻した。
「でもね、正宗。今日一日のほうが、たぶんもっとありえないわ」
彼女は立ち上がって、僕のほうを向いた。
「朝、初めて喋った男の人に、あなたは今日死にますって言われたの。私はその人と病院に行って、定食屋でごはんを食べて、親に生まれて初めて嘘をついて、恋愛小説を買って、写真を撮って、生まれて初めて喧嘩して、雨に降られて、夜中の大学に忍びこんで、いま屋上で空を見てるのよ」
「そうですね」
「どんな恋愛小説より、ありえないわ」
◇
そのとき、下のほうで光が動いた。
グラウンドのあたりを、白い光が一直線に横切った。それから左右に振れて、消えた。
「……いまの」
「懐中電灯です」
僕らはフェンスから離れて、屋上の内側へ下がった。
文学部棟の、一階の窓に光が見えた。ゆっくり、右から左へ動いていく。
そして、二階の窓に移った。
「上がってきてるわ」
「上がってきてますね」
「なんで」
「見回りです。たぶん、隆二が開けた扉が閉まりきってなかったんだと思います」
「あの男!」
「僕らも押しました」
三階の窓に光が移った。
彼女が僕の袖を掴んで、給水塔の裏へ引っぱった。
◇
給水塔の裏は、思っていたより狭かった。
配管とコンクリートの壁のあいだに、人が二人、かろうじて立てる隙間がある。僕らはそこに横向きに入って、息を殺した。
彼女の額が、僕の肩に当たっていた。
階段の扉が開く音がした。
光が、屋上のコンクリートを撫でた。
フェンスのほうへ伸びて、室外機を照らして、こちらへ戻ってきた。給水塔の縁のあたりで、一度止まった。
彼女の指が、僕のシャツを握りつぶした。
光が、ゆっくり離れていった。
扉が閉まった。鍵をかける音はしなかった。足音が、階段を降りていった。
◇
それから三十秒ほど、僕らは動かなかった。
「……行った?」
「たぶん」
「たぶんって言った」
「行きました」
彼女は壁に手をついて、大きく息を吸った。
「苦しい」
「息、止めてました?」
「止めてたわよ。あなたは止めてなかったの?」
「止めてました」
「じゃあ訊かないで」
彼女は壁にもたれたまま、片手で自分の胸のあたりを押さえていた。
「私、今日、何回心臓を止められるのかしら」
「まだ足りないですか」
「足りてるわ。もう充分よ」
彼女が急に笑いだした。
声を出さないようにして、肩だけを震わせて笑っていた。
「なに」
「だって、警備の人に見つかったら、どうなると思う?」
「通報されますね」
「私たち、今日死ぬかもしれない人間なのに、その前に通報されるのよ」
言ってから、彼女は自分で少し笑いを止めた。
それでもまだ、肩が震えていた。
「……おかしいわね。いま、すごく生きてる感じがするわ」
僕らはまだ、給水塔の裏の隙間にいた。
配管が背中に当たっていて、彼女の肩が僕の腕に触れていて、二人とも息が乱れていた。
彼女が顔を上げた。
暗くて、目の色までは見えなかった。それでも、視線が合っているのは分かった。
「正宗」
「はい」
「一つ、確認していい?」
「どうぞ」
「これ、まだ演技?」




