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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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三回目

「ぎゃああああああああああっ!」


「うわあああああああああっ!」


「ぬおあああああああああっ!」


 三人分の悲鳴が、階段の吹き抜けで反響した。


 自分の声がどれだったのか、いまでもよく分からない。


 懐中電灯が床に落ちて、くるくる回って、天井を照らした。


「お、お化け!」


「違うわっ! 俺だよ、俺!」


「誰よ俺って!」


「遠山です!」


 僕は膝に手をついて、息を整えていた。心臓がまだ全速力で動いていた。


「……隆二」


「正宗か? おい、正宗だろ。お前ふざけんなよ、寿命縮んだわ」


 隆二が懐中電灯を拾い上げた。下から顔を照らしたので、また少し怖かった。


「下から照らすな」


「ああ、悪い」


 隆二が光を床に向けた。


 そして、僕の隣を見た。


 僕の腕に、両手でしがみついたままの怜奈を。


「…………」


「…………」


「…………」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


「あの」


 怜奈が、そっと手を離した。


「遠山くん、よね」


「はい、遠山です」


「こんばんは」


「こんばんは」


 隆二は律儀に挨拶を返した。それから、僕のほうを見た。


「正宗」


「……なんだよ」


「俺、昼に訊いたよな。付き合うことになったのかって」


「訊いたな」


「お前、なってないって言ったよな」


「言った」


 隆二は懐中電灯で、僕と怜奈を交互に照らした。


「深夜一時半に大学に不法侵入して、びしょ濡れで腕組んでる男女を、世間ではなんて呼ぶか知ってるか」


「……」


「恋人っていうんだよ」


「うるさい」


 怜奈が、隣で小さく咳払いをした。


「あの、遠山くん」


「はい」


「私たち、付き合ってるわ」


 隆二が懐中電灯を落としそうになった。


「マジすか」


「マジよ」


「いつから」


「三時間前くらい」


「新鮮すぎるだろ!」


 隆二が叫んだ。叫んでから、慌てて自分の口を押さえた。


 僕は、彼女の横顔を見た。


 三時間前、この人はこの話を「偽物でやるのはひどい」と言った。二時間前に僕を最低の言葉で刺した。一時間前に雨の中で謝った。


 それで、いま、初めて口をきく男に向かって、はっきりと言った。


「……で、お前は何をしてるんだ」


 僕が訊くと、隆二はポケットから鍵を出して見せた。


「自転車の鍵。サークルの部室に置き忘れた。友達んちで遊んでたら気づいて、取りに戻ってきたんだよ」


「そのために忍びこんだのか」


「そのために忍びこんだ。歩いて帰ったら四十分かかるんだよ」


「僕らのことを言えないな」


「言えないな」


 隆二は懐中電灯のスイッチを一度切って、また入れた。


「にしても、お前ら、なんで大学にいるわけ」


「……」


「デートじゃないだろ、これ」


「デートよ」


 怜奈が即答した。


「変わったデートだな」


「私、変わってるってよく言われるの」


「あー、まあ、うん」


 隆二は、それ以上突っこまなかった。


             ◇


「じゃ、俺帰るわ」


 隆二はそう言って、階段を降りかけた。


 それから、思い出したように振り返った。


「正宗。明日の昼な」


 僕は、返事ができなかった。


「カツカレー。三限の前。逃げんなよ」


「……ああ」


「なんだよ、その顔」


「別に」


「四百八十円でそんな顔するなよ」


 そのとき、怜奈が口を開いた。


「遠山くん」


「はい」


「私も、行っていい?」


 隆二が目を丸くした。


「え?」


「明日のお昼。カツカレー」


 彼女は、ごく普通の声で言った。


 普通の声を出すのに、どれくらいの力を使っているのか、僕には分かった。


 僕は、階段の手すりを見た。見ていないと、顔に出そうだった。


「あ、ああ、そりゃ、もちろん」


 隆二は少しどもった。


「でも、正宗が奢るのは俺の分だけだからな。桃井さんの分は正宗が出す。そういうことでいいか」


「結局、僕が全部出すんじゃないか」


「あ、ほんとだ」


 怜奈が、小さく笑った。


「じゃあ、明日ね」


「おう。じゃあな、桃井さん」


 隆二は片手を上げた。


 なんでもない別れの挨拶だった。


 彼は何も知らない。明日の昼、学食に誰が来て誰が来ないのか、彼にはまったく分からない。


 だから彼は、こんなに軽く「じゃあな」と言えるのだ。


 僕は、あのときの廊下を思い出した。「じゃあな」と言った男の顔を。


             ◇


「正宗、ちょっと」


 隆二が僕を手招きした。


 怜奈から三段ぶん離れたところで、隆二は声を落とした。


「お前、何かあったろ」


「……」


「朝からずっと顔色おかしいし、講義は出ねえし、弁当箱は洗ってるし、夜中に大学に忍びこんでるし」


「うん」


「言わなくていい。カツカレー奢られてから聞く」


「……ああ」


「でもさ、一個だけ言わせろ」


 隆二は懐中電灯を、自分の足元に向けた。


「お前、さっき桃井さんの顔、めちゃくちゃ見てたぞ」


「え」


「三メートル先の人間の顔をいちいち確認しない男がだぞ。五十センチの距離でガン見してた」


 僕は、何も言えなかった。


「俺、お前と一年半いるけど、お前が人の顔をあんなに見てるの初めて見た」


 隆二は、そこで少し笑った。


「よかったな」


 それだけ言って、彼は階段を降りていった。


 二段降りたところで、また止まった。


「あ、そうだ」


「なんだよ」


「屋上、行ってみろよ」


 隆二は下から僕を見上げた。


「夜はけっこうきれいだぞ。俺、去年の夏に一回だけ行った」


「鍵、開いてるのか」


「開いてる。誰も気にしてないんだよ、あそこ」


 隆二の足音が、下の階へ遠ざかっていった。


 通用口の扉が、がこん、と鳴った。


             ◇


「……行きましょうか」


 怜奈が言った。


「屋上」


「はい」


「今日、三回目ね。あそこに行くの」


「そうですね」


「一回目は、あなたに死ぬって言われたわ」


「……はい」


「二回目は、今日一日付き合ってって言ったわ」


「言われました」


 彼女は階段を上りはじめた。


 三階を過ぎて、四階を過ぎて、その上の狭い階段の先に、鉄の扉があった。


 昼に二回、押した扉だった。


 彼女はその前で立ち止まって、振り返った。


「三回目は、何があるのかしらね」


 僕は、扉に手をかけた。

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