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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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来年のプチトマト

 店を出ると、雨上がりの匂いがした。


 アスファルトがまだ濡れていて、街灯の光を反射していた。歩くと、靴の底が少し滑った。


 国道沿いの歩道を、駅とは反対の方向へ歩いた。どこへ行くのか、どちらも決めていなかった。


 僕はずっと、何か言おうとしていた。


 大丈夫ですよ、と言うのは嘘だ。僕にはその根拠が一つもない。必ず助けますと言うのも嘘だ。助ける方法を、僕はまだ何も持っていない。


 嘘じゃないことで、何か言えることがあるはずだった。


 自動販売機の光の前を通り過ぎたところで、僕は足を止めた。


「怜奈」


「なに」


「プチトマト、好きですよね」


 彼女が振り返った。


「……なんの話?」


「今日の昼、最初に食べてたので」


「ええ」


「なんで好きなんですか」


 彼女は少し怪訝な顔をした。それから、正直に答えた。


「最初は嫌いだったわ。皮が口に残るし、中が変な感じがするから」


「分かります。僕は今でも嫌いです」


「嫌いなの?」


「大嫌いです。プチッとして、ジュワッとして、あれは食べ物の形をしていないと思います」


「ひどい言い方ね」


 彼女は少し笑った。まだ声が湿っていた。


「うちで育てることになったのよ、小学生のとき。母が急に買ってきて、ベランダで。私が世話をする係になったの」


「へえ」


「毎日水をやって、脇芽を取って、支柱を立てて。それで、最初に一個だけ赤くなったときに、食べてみたの」


「どうでした」


「甘かったわ」


 彼女は自販機の光を見ていた。


「変でしょう。自分で育てたっていうだけで、味が変わるのよ。そんなの、成分は同じはずなのに」


「変じゃないと思います」


「そう?」


「たぶん、みんなそうです」


 僕は言った。


「じゃあ、食べさせてください」


「え」


「怜奈が育てたやつ」


 彼女は、ゆっくりと僕を見た。


「……あなた、嫌いだって言ったばかりじゃない」


「嫌いです」


「じゃあなんで」


「怜奈が育てたやつなら、味が変わるかもしれないので」


 彼女は、何か言おうとして、口を閉じた。


「今年のは、もう終わりかけよ」


 彼女が言った。


「六月の終わりまでは採れるけど、そのあとは暑すぎて駄目になるの。だから、たぶん間に合わないわ」


「じゃあ」


 僕は言った。


「来年ので」


 彼女の表情が、止まった。


「……来年」


「来年です」


「ずいぶん先の話をするのね」


「そうですね」


「明日の朝の話をしてるのに」


「してます」


 彼女は、自販機のほうを向いた。


 背中しか見えなかった。肩が一度、大きく上がって、下がった。


「……ずるいわ、本当に」


「すみません」


「謝らないでって言ってるでしょう」


 彼女は一度だけ袖で顔をこすって、こちらへ向き直った。


 目は赤かったが、もう泣いてはいなかった。


「分かったわ。約束する」


「はい」


「来年の六月に、私が育てたプチトマトを、あなたに食べさせる」


「はい」


「一個じゃないわよ。五個くらい食べてもらうから」


「……五個は多くないですか」


「嫌いな人に食べさせるんだから、それくらいやらないと意味がないでしょう」


 彼女はそう言って、鞄の紐を掴み直した。


「そのためには、明日の朝を越えないといけないわね」


「そうですね」


「じゃあ、足りないわ」


「え」


「イレギュラーよ」


 彼女は歩きだした。さっきまでより、足が速かった。


「大声と外泊と写真じゃ足りない。あんなの、誰でもやってるもの。もっと、私が絶対にしないことをしましょう」


「たとえば」


「たとえば」


 彼女は立ち止まって、振り返った。


 濡れた前髪を耳にかけて、赤い目のまま、彼女は笑っていた。


「犯罪の一歩手前くらいの」


 時計を見た。


 一時ちょうど。


 残り、八時間七分。

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