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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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閉まらない蓋

 彼女の手が、止まった。


 パッキンが、また浮いた。


 彼女は動かなかった。弁当箱を持ったまま、蓋の縁を見たまま、動かなかった。


「怜奈」


 返事がなかった。


「怜奈」


「……言っちゃったわ」


 小さい声だった。


「今度、って」


 彼女は弁当箱を、そっとテーブルに置いた。


「私、今日一日ずっと、そういうことを言わないようにしてたの。明日の話はするって決めたのに、実際には全然してなかった。気をつけてたのよ、ちゃんと」


「はい」


「でもいま、普通に言ったわ」


 窓際の四人組が、何かで笑った。大きな笑い声だった。


 彼女は顔を上げた。


 目が、いっぱいになっていた。


「……あ」


 彼女は自分でも驚いたような顔をした。手の甲で目を押さえて、それから、両手で顔を覆った。


 声は出さなかった。


 ファミレスだからだ。人がいるからだ。この人は、こんなときでもそれを気にしていた。


 肩だけが、小さく上下していた。


「正宗」


「はい」


「私、死にたくない」


 僕は何も言えなかった。


「朝からずっと、平気なふりをしてたの。統計とか、反証可能性とか、損失の比較とか、そういう話をしていれば、少しは自分の話じゃなくなる気がして」


「はい」


「でも全部、私の話だったわ」


 彼女は顔を覆ったまま喋っていた。


「卒論のテーマ、まだ決まってないの。来週までに出さないといけないのよ」


「はい」


「読みかけの本が四冊あるわ。全部、途中なの」


「はい」


「二十歳になったの、四月なのよ。まだお酒を一回も飲んでない。飲んでみたいとも思ってなかったけど、いま、すごく飲みたい」


「はい」


「母に、嘘をついたままだわ。友達の家に泊まるって。あれ、訂正してない」


「はい」


「それから」


 彼女は少し黙った。


「私、まだ誰とも友達になってないの」


 僕は、コーヒーカップを持ったまま、何も言えなかった。


「二十年生きて、一人もいないのよ。おかしいでしょう。ずっと、いらないと思ってたの。本があればいいと思ってた。本当にそう思ってたのよ」


「はい」


「さっき、あなたに最低なことを言ったでしょう」


「……ああ」


「あれ、人と喧嘩したのも、生まれて初めてだったわ」


 彼女は顔から手を離した。目の周りが赤くなっていて、睫毛が濡れていた。


「今日は、初めてが多すぎるの」


「……でも、楽しかったのよ」


 そのとき、店員が来た。


 タイミングというものは、どうしてこうなのかと思う。


「失礼します、お下げしてもよろしいでしょうか」


 彼女はぱっと顔を横に向けた。


「あ……はい、お願いします」


 声が、完全に裏返っていた。


 店員は一瞬こちらを見て、それから何も言わずに皿を下げていった。たぶん、いろいろ察してくれたのだと思う。そして、たぶん、全部間違って察したのだと思う。


 足音が遠ざかると、彼女は深く息を吐いた。


「最悪だわ」


「はい」


「人生で一番みっともない瞬間を、知らない店員さんに見られたわ」


「はい」


「あなたも見たわね」


「……すみません」


「謝らないでって、何回言わせるの」


 彼女はおしぼりで目を押さえた。


 それから、テーブルの上の弁当箱を、指先で少し押した。


「ねえ、正宗」


「はい」


「私、あなたの理論、あんまり信じてないの」


「知ってます」


「イレギュラーで運命が変わるなんて、たぶん嘘だわ。でもそれでいいと思ってたの。何もしないよりましだって、自分で言ったんだもの」


「はい」


「でもいま、急に、変わってほしくなったわ」


 彼女は弁当箱を両手で持ち上げた。


「私、この蓋を、ちゃんと閉められるようになりたいの」

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