六十センチ
十メートルというのは、思ったより遠い。
声を出せば届く。でも、普通の声では届かない。何か言おうとすると、一度大きく息を吸わなければならなくて、その息を吸っているあいだに、言おうとしたことが馬鹿らしくなる。
僕らはそうやって、国道沿いの歩道を十五分ほど歩いた。
彼女は一度も振り返らなかった。紙袋を左手に持って、右手を体の横で握ったり開いたりしながら、まっすぐ歩いていた。
歩くのが速かった。怒っている人の速さだった。
僕は考えていた。
さっき言ったことは、全部本当だった。今朝、屋上へ行く前に僕が考えていたのは、秋田のことだ。彼の母親の手のことだ。あの葬式の、焼香の煙の匂いのことだ。
桃井怜奈のことは、たぶん、一度も考えていなかった。
それが、いま、どうしてこんなに腹立たしいのか、自分でもよく分からなかった。
◇
雨が降りだしたのは、歩道橋の下を通り過ぎたときだった。
前触れがなかった。ぽつ、と一滴きて、三秒後には全部来た。
アスファルトが一気に黒くなって、歩道の白線が見えなくなった。梅雨がどこかへ行ったと思っていたら、今日の夜中に戻ってきたらしい。
「っ」
前で彼女が肩をすくめた。紙袋を胸に抱えこんで、あたりを見回している。
少し先に、シャッターの降りた薬局があった。入口の上に、色の褪せたテントが張り出している。
僕らは、どちらが先というわけでもなく、そこへ走った。
◇
テントの下は、大人が二人立てるかどうかの広さしかなかった。
僕らは、六十センチほどの距離で並んで立つことになった。
十メートルが、六十センチになった。
彼女のシャツの肩が濡れて、色が変わっていた。前髪の先から、ぽたぽた落ちている。紙袋の底も濡れていた。
「本」
「え」
「本、濡れてない?」
彼女は紙袋の中を覗いた。
「……セーフだわ」
「よかった」
「よくないわよ。私、ずぶ濡れよ」
雨がテントを叩く音が、うるさかった。話すには、少し声を張らないといけなかった。
彼女は道路を見ていた。
水たまりが、見ているあいだに広がっていった。
「正宗」
「なに」
「さっきのは、言いすぎたわ」
声が、雨の音にほとんど負けていた。
「……」
「秋田くんのこと。あれは、言っちゃいけなかった」
「怜奈」
「私、預かるって言ったのよ」
彼女は道路を見たままだった。
「公園で、あなたがあの話をしたとき。それ、私が聞いてよかったのって訊いて、あなたがいいって言って、それで私、預かるって言ったのに」
彼女は紙袋の持ち手を、指で強く握っていた。
「二時間で投げたわ」
「……」
「最低ね」
雨が少し弱まって、また強くなった。
「なんで言ったんだ」
僕は訊いた。
責めるつもりはなかった。本当に、理由が知りたかった。
彼女はしばらく黙っていた。
「あなたを傷つければ、私が怖いのが少し減ると思ったの」
「……」
「減らなかったわ」
彼女は自分の濡れた前髪を、手の甲で横へ払った。
「増えたのよ。あなたが黙ったとき、私、急に怖くなったの。この人がいま帰ったらどうしようって」
「帰らない」
「知らないでしょう、そんなこと」
「帰らないよ」
「そういうのを根拠がないって言うのよ」
彼女はそこで、初めてこちらを向いた。
目が赤かった。雨のせいではなかった。
「正宗」
「なに」
「言って。あなたが助けたかったのは誰」
◇
僕は、テントから垂れてくる水の筋を見ていた。
そこに、うまい答えはなかった。
だから、うまくないほうを言った。
「怜奈が診察室に入ってた四十分」
「え」
「病院の待合で、僕は四十分待ってた」
「……ええ」
「あのあいだ、僕は秋田のことを一回も考えなかった」
彼女が、少し口を開けた。
「テレビがついてて、音が消えてて、字幕だけ流れてた。豪雨の予報が出てて、そのあと球団の話になって、そのあと通販になった。全部覚えてる。ずっと見てたから」
「……うん」
「そのあいだ僕が考えてたのは、怜奈が出てきたときに何て言うかってことだけだった」
僕は言った。
「それしか、証拠がない」
雨の音が、少しずつ小さくなっていた。
彼女は、テントの端から外を見ていた。
「……四十分」
「うん」
「私、診察室で、心電図の機械にシールを貼られてたわ。六枚。冷たかった」
「そうか」
「先生が、じっとしててねって言ったの。それで、じっとしてるあいだ、天井を見てた」
彼女は、まだ外を見ていた。
「私も、あなたのことを考えてたわ」
「……そうか」
「待合にいるんだろうなって。あの人、たぶん一時間でも二時間でも座ってるんだろうなって」
彼女は、少しだけ笑った。
「それ、証拠になる?」
「ならないな」
「ならないわね」
雨が、急に止んだ。
来たときと同じで、前触れがなかった。テントから垂れる水の音だけが残った。
彼女はテントの下から一歩出て、空を見上げた。
「ひどい雨だったわ」
「ひどかった」
「梅雨って、こういうものだったかしら」
「忘れてたな」
彼女は自分の袖を絞った。水が、アスファルトに落ちた。
「正宗」
「なに」
「近くに来ていいわ」




