十メートルの距離
「……いま、何時だった?」
「え」
「言って」
「……二十三時四十分です」
「残りは」
「九時間二十七分」
言ってから、しまったと思った。
あまりにも速く出てきた。
「即答ね」
彼女の声から、温度が抜けていた。
「ずっと数えてたのね」
「怜奈」
「書店で私が本を選んでるあいだも?」
「……」
「写真を撮ってるあいだも?」
「……」
「いま私が楽しかったって言った、その三秒後も?」
僕は何も言えなかった。
彼女は紙袋を、両手で抱え直した。抱えるというより、握りつぶすような持ち方だった。
「ねえ、正宗」
「なに」
「一つ訊いていい?」
「……うん」
「あなた、なんで私に言ったの」
街灯の下で、彼女の顔ははっきり見えた。
泣いてはいなかった。
「助けたかったから」
「助け方は知らなかったでしょう」
「知らなかった」
「今朝、屋上で、私が『それ、私にどうしろっていうの』って訊いたとき、あなた一言も答えられなかったわよね」
「……ああ」
「あれから十四時間経ったわ。それで、いま手元にあるのは」
彼女は指を折った。
「紙ナプキンに描いた下手な線と、恋人ごっこ」
「……」
「黙ってればよかったのよ」
僕は顔を上げた。
「怜奈」
「黙ってれば、私は今日、いつもどおりに過ごしてたの。一限に出て、屋上でお弁当を食べて、語学に出て、帰って、本を読んで、続きを明日に残して寝たわ」
彼女の声が、少しずつ大きくなっていた。
「それで死ぬなら、怖がる時間はゼロだったのよ」
「……」
「あなたが言ったから、私は十四時間怖がってるの。食べ物が怖くなったし、階段も怖くなったし、電車のドアが開くたびに肩が上がるようになったわ。さっき病院で、知らない人が運ばれていくのを見て、順番が来るって初めて思ったの」
居酒屋の店員が、看板を店の中へ運びこんでいった。こちらを一度も見なかった。
「母からの返信を開くのが怖かった。二十年生きて、母のメッセージが怖かったのは今日が初めてよ」
「怜奈」
「それ、全部あなたがくれたものよ」
僕は、何か言おうとした。
何も持っていなかった。
「ねえ」
彼女は、少し声を落とした。
落としたぶん、はっきり聞こえた。
「あなたが助けたかったのは、私?」
僕は彼女を見た。
「それとも、秋田くんのときに何も言わなかった自分?」
◇
車が一台、通り過ぎた。
テールランプが遠ざかって、消えた。
僕は、すぐには答えなかった。答えられなかったのではなく、答えを持っていたからだ。持っていることが、自分でも嫌だった。
「……最初は」
僕は言った。
「たぶん、秋田だ」
彼女の表情が、変わった。
怒っている顔が、そのまま止まって、別の何かになった。
「……正宗」
「今朝、屋上に行く前に、僕は九十分ずっと考えてた。言わなかったらどうなるかって。それで、思ったんだ。また同じことになるって。また葬式に行って、また誰かの母親に手を握られて、また何も言えないって」
「……」
「あのとき僕が考えてたのは、たぶん、怜奈のことじゃない」
彼女は、口を開けた。
何か言おうとして、言わなかった。
「でも、いまは違う」
僕は言った。
「……それは」
「うまく言えない。でも、違う」
「証明できないのね」
「できない」
彼女は、短く息を吸った。
「あなた、今日ずっとそうね」
そう言って、彼女は歩きだした。
僕とは反対の方向へ。
◇
二十歩ほどで、彼女は止まった。
振り返らなかった。
夜の商店街に、音がほとんどなかった。どこかで自動販売機がうなっていた。
彼女は、その場に立ったまま、動かなかった。
行けないのだ、と分かった。
一人にならないでください、と言ったのは僕で、そうすると言ったのは彼女だ。いまこの人は、怒って立ち去ることすらできない。
肩が、一度上がって、下がった。
「正宗」
彼女の背中が言った。
「なに」
「ついてきて」
「……うん」
「でも、近くに来ないで」
僕は、十メートルうしろを歩いた。




