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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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20/35

初めてのデート

 駅の向かいのビルに、四階まである大きな書店が入っていた。


「ここ、十一時までやってるわ」


「詳しいですね」


「私の生活圏で、一番長く開いている場所だもの」


 中に入った瞬間、彼女の歩く速度が変わった。


 手をつないだままだったので、僕は引っぱられる形になった。


「速いです」


「早く行かないと閉まるでしょう」


 三階の、海外文学と、その奥のホラーとミステリの棚まで、彼女は一度も立ち止まらなかった。


 そこからの三十分は、はっきり言って、僕にはよく分からない時間だった。


「これ、読んだことある?」


「ないです」


「じゃあこれは」


「ないです」


「これも?」


「すみません」


「あなた、文学部でしょう」


「文学部は本を読まなくても入れるんです」


「入れるけど出られないわよ」


 彼女は次々に本を引き抜いては、僕に見せた。表紙を見せて、裏を見せて、帯の文句を読み上げて、その文句がいかに内容とずれているかを説明した。


 そういうとき、彼女の声は少しだけ大きくなった。


「これはね、最初の百ページが全部嘘なの」


「嘘」


「語り手が嘘をついてるの。それに気づいた瞬間に、読んだところ全部の意味が変わるのよ」


「へえ」


「『へえ』?」


「いや、面白そうだなと思って」


「面白いのよ」


 彼女はその本を棚に戻して、また別の本を取った。


 僕はそのあいだ、彼女の顔を見ていた。


 今朝までの僕なら、絶対にしなかったことだ。意味があるわけではない。ただ、人の顔を長く見ないようにして、何年も生きてきた。


 でも、この人についてはもう鳴った。


 もう鳴ったのだから、これ以上悪くなりようがない。


 そう考えて、ようやく僕は、人の顔を落ち着いて見ることができていた。ずいぶん歪んだ理屈だったが、そのときの僕にはそれで十分だった。


「正宗」


「はい」


「さっきから人の顔を見すぎよ」


「……すみません」


「別に、やめろとは言ってないわ」


 彼女は本を棚に戻した。


「それで、そろそろやりましょうか。イレギュラーよ。忘れてない?」


 彼女は僕の手を引いて、フロアを移動した。


 二階の、エスカレーターを降りてすぐの一角。ピンクと水色と白の、明るい色の表紙ばかりが並んでいる棚だった。


「恋愛小説」


「買うんですか」


「買うわ。人生で一冊も買ったことがないんだもの、立派なイレギュラーでしょう」


 彼女は棚の前に立って、腕を組んだ。


 そして、一分ほど動かなかった。


「怜奈」


「待って」


「どうしたんですか」


「選べないのよ」


 彼女は眉間に皺を寄せていた。


「どれを見ても、中身が予想できてしまうの。この二人はくっつくでしょう。この二人もくっつく。この二人は一回別れてからくっつく。全部知ってるのよ、読んでないのに」


「じゃあ、読んでみれば当たってるか分かりますね」


「うるさいわ」


 彼女はこちらを向いた。


「あなたが選んで」


「僕?」


「私が選ぶと、たぶん一番薄くて一番安いのを選ぶわ。それは買ったことにならないでしょう」


 そういうわけで、僕は恋愛小説を選ぶことになった。


 僕も読んだことがなかった。棚の前で、僕もたぶん一分くらい動けなかった。


 最終的に、僕は一冊を抜き出した。表紙に、海と、白いワンピースの後ろ姿が描いてあった。


「なんでこれ」


「表紙が一番静かだったので」


「基準が変ね」


「怜奈、派手なのは読まなそうだったから」


 彼女は本を受け取って、裏の粗筋を読んだ。


 読みながら、少しずつ口元が下がっていった。


「……すごい話ね」


「どうしたんですか」


「幼なじみが十年ぶりに再会して、そのあいだずっとお互いを想っていたそうよ」


「ありえないですか」


「ありえないわ」


「でも買うんですよね」


「買うわよ。ありえないから買うの」


 レジで、店員が「カバーはおかけしますか」と訊いた。


「いりません」


 彼女は即答した。それから、少しだけ考えるような顔をして、付け足した。


「隠すと、買った意味がなくなるので」


 店員がきょとんとしていた。


 紙袋を受け取って、階段を降りながら、彼女はその袋を胸のあたりで抱えていた。


「いつ読むんですか」


 訊いてから、しまった、と思った。


 彼女は一瞬だけ止まって、それから、何でもないことのように言った。


「明日」


「……はい」


「明日読むわ。感想を言ってあげる」


「楽しみにしてます」


 それ以上、二人とも何も言わなかった。


 階段の踊り場で、閉店五分前を知らせるアナウンスが流れていた。


             ◇


 書店を出て、駅前を少し歩いたところに、ゲームセンターがあった。


 中は明るくて、うるさくて、冷房が効きすぎていた。


 僕らはクレーンゲームを三回やって、三回とも何も取れなかった。彼女は三回目のあと、真顔で筐体のガラスを指さした。


「これ、期待値がマイナスだわ」


「ゲームセンターに期待値を持ちこむ人、初めて見ました」


「持ちこむわよ。当たり前でしょう」


 三百円が惜しいというより、負けたのが嫌そうだった。そういう顔をする人だとは、今朝までまったく知らなかった。


 店の奥に、カーテンで仕切られた機械が並んでいた。


「あれ何」


「プリクラです」


「知ってるわよ。名前だけは。……私、写真が嫌いなの」


「なんでですか」


「自分の顔を見るのが嫌だから。証明写真を撮るたびに落ちこむわ」


「じゃあ」


「だから、イレギュラーよ」


 結論が早かった。


             ◇


 機械の中は、思っていたより狭かった。


 画面が勝手に喋って、勝手にカウントを始めて、勝手にシャッターを切った。何をどうすればいいのか、二人とも最後まで分からなかった。


「ポーズって何をすればいいの」


「知りません」


「あなたも知らないの」


「僕も初めてです」


「役に立たないわね」


 一枚目は、二人とも画面を見て固まっていた。


 二枚目は、彼女が何かしようとして失敗して、手が変な位置にあった。


 三枚目で、機械が「もっと近づいて!」と大きな声で言った。


 彼女が驚いて、本当に近づいてきた。肩がぶつかった。


 その瞬間にシャッターが切れた。


             ◇


 印刷されたシールは、思っていたより小さかった。


 僕らは機械の横で、それを二人で覗きこんだ。


「ひどいわね」


「ひどいですね」


「これ、私?」


「怜奈です」


「一枚目、死んでるみたいな顔をしてるわ」


 僕は返事に詰まった。


 彼女も、言ってから気づいたようだった。


「……ごめんなさい」


「いえ」


「言葉の選び方を間違えたわ」


「気にしてません」


 彼女は三枚目を指さした。


 肩がぶつかって、二人とも変な角度に傾いていて、彼女が口を開けたまま写っている写真だった。


「これは、いいわ」


「ひどい顔ですよ」


「ひどいけど、いいの」


 彼女はシールをはさみの線で切って、半分を僕に渡した。


「持ってて。なくさないでよ」


 僕は財布を出して、カードを入れるところに挟んだ。


 彼女は残りの半分を、さっき買った本の紙袋に入れた。


             ◇


 店を出ると、外の空気が急にぬるく感じられた。


 駅前の人通りは、もうほとんどなくなっていた。居酒屋の前で、店員が看板の電源を抜いていた。


「正宗」


「はい」


「私、今日一日で、人生でやったことのないことを、全部で十個くらいしたわ」


「そうですね」


「走った。大声を出した。親に嘘をついた。知らない男と病院に行った。定食屋に入った。手をつないだ。恋愛小説を買った。写真を撮った」


「はい」


「それで、いま」


 彼女は紙袋を胸に抱えた。


「私、けっこう楽しかったの」


「……はい」


「これ、言っちゃいけないことかしら」


「いえ」


「だって、私は今日死ぬかもしれないのよ。それなのに、楽しかったって思うのは、なんだかおかしい気がして」


 彼女は紙袋を抱え直して、僕のほうを見た。


「正宗も、楽しかった?」


 僕は答えようとして、その前に、ポケットの携帯を出した。


 時刻を見た。


 癖だった。今日、何十回もやっていた。数字を確認して、残りを引き算して、また入れる。そうしないと落ち着かなかった。


 画面を消して、顔を上げたとき、彼女がこちらを見ていた。

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