初めてのデート
駅の向かいのビルに、四階まである大きな書店が入っていた。
「ここ、十一時までやってるわ」
「詳しいですね」
「私の生活圏で、一番長く開いている場所だもの」
中に入った瞬間、彼女の歩く速度が変わった。
手をつないだままだったので、僕は引っぱられる形になった。
「速いです」
「早く行かないと閉まるでしょう」
三階の、海外文学と、その奥のホラーとミステリの棚まで、彼女は一度も立ち止まらなかった。
そこからの三十分は、はっきり言って、僕にはよく分からない時間だった。
「これ、読んだことある?」
「ないです」
「じゃあこれは」
「ないです」
「これも?」
「すみません」
「あなた、文学部でしょう」
「文学部は本を読まなくても入れるんです」
「入れるけど出られないわよ」
彼女は次々に本を引き抜いては、僕に見せた。表紙を見せて、裏を見せて、帯の文句を読み上げて、その文句がいかに内容とずれているかを説明した。
そういうとき、彼女の声は少しだけ大きくなった。
「これはね、最初の百ページが全部嘘なの」
「嘘」
「語り手が嘘をついてるの。それに気づいた瞬間に、読んだところ全部の意味が変わるのよ」
「へえ」
「『へえ』?」
「いや、面白そうだなと思って」
「面白いのよ」
彼女はその本を棚に戻して、また別の本を取った。
僕はそのあいだ、彼女の顔を見ていた。
今朝までの僕なら、絶対にしなかったことだ。意味があるわけではない。ただ、人の顔を長く見ないようにして、何年も生きてきた。
でも、この人についてはもう鳴った。
もう鳴ったのだから、これ以上悪くなりようがない。
そう考えて、ようやく僕は、人の顔を落ち着いて見ることができていた。ずいぶん歪んだ理屈だったが、そのときの僕にはそれで十分だった。
「正宗」
「はい」
「さっきから人の顔を見すぎよ」
「……すみません」
「別に、やめろとは言ってないわ」
彼女は本を棚に戻した。
「それで、そろそろやりましょうか。イレギュラーよ。忘れてない?」
彼女は僕の手を引いて、フロアを移動した。
二階の、エスカレーターを降りてすぐの一角。ピンクと水色と白の、明るい色の表紙ばかりが並んでいる棚だった。
「恋愛小説」
「買うんですか」
「買うわ。人生で一冊も買ったことがないんだもの、立派なイレギュラーでしょう」
彼女は棚の前に立って、腕を組んだ。
そして、一分ほど動かなかった。
「怜奈」
「待って」
「どうしたんですか」
「選べないのよ」
彼女は眉間に皺を寄せていた。
「どれを見ても、中身が予想できてしまうの。この二人はくっつくでしょう。この二人もくっつく。この二人は一回別れてからくっつく。全部知ってるのよ、読んでないのに」
「じゃあ、読んでみれば当たってるか分かりますね」
「うるさいわ」
彼女はこちらを向いた。
「あなたが選んで」
「僕?」
「私が選ぶと、たぶん一番薄くて一番安いのを選ぶわ。それは買ったことにならないでしょう」
そういうわけで、僕は恋愛小説を選ぶことになった。
僕も読んだことがなかった。棚の前で、僕もたぶん一分くらい動けなかった。
最終的に、僕は一冊を抜き出した。表紙に、海と、白いワンピースの後ろ姿が描いてあった。
「なんでこれ」
「表紙が一番静かだったので」
「基準が変ね」
「怜奈、派手なのは読まなそうだったから」
彼女は本を受け取って、裏の粗筋を読んだ。
読みながら、少しずつ口元が下がっていった。
「……すごい話ね」
「どうしたんですか」
「幼なじみが十年ぶりに再会して、そのあいだずっとお互いを想っていたそうよ」
「ありえないですか」
「ありえないわ」
「でも買うんですよね」
「買うわよ。ありえないから買うの」
レジで、店員が「カバーはおかけしますか」と訊いた。
「いりません」
彼女は即答した。それから、少しだけ考えるような顔をして、付け足した。
「隠すと、買った意味がなくなるので」
店員がきょとんとしていた。
紙袋を受け取って、階段を降りながら、彼女はその袋を胸のあたりで抱えていた。
「いつ読むんですか」
訊いてから、しまった、と思った。
彼女は一瞬だけ止まって、それから、何でもないことのように言った。
「明日」
「……はい」
「明日読むわ。感想を言ってあげる」
「楽しみにしてます」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
階段の踊り場で、閉店五分前を知らせるアナウンスが流れていた。
◇
書店を出て、駅前を少し歩いたところに、ゲームセンターがあった。
中は明るくて、うるさくて、冷房が効きすぎていた。
僕らはクレーンゲームを三回やって、三回とも何も取れなかった。彼女は三回目のあと、真顔で筐体のガラスを指さした。
「これ、期待値がマイナスだわ」
「ゲームセンターに期待値を持ちこむ人、初めて見ました」
「持ちこむわよ。当たり前でしょう」
三百円が惜しいというより、負けたのが嫌そうだった。そういう顔をする人だとは、今朝までまったく知らなかった。
店の奥に、カーテンで仕切られた機械が並んでいた。
「あれ何」
「プリクラです」
「知ってるわよ。名前だけは。……私、写真が嫌いなの」
「なんでですか」
「自分の顔を見るのが嫌だから。証明写真を撮るたびに落ちこむわ」
「じゃあ」
「だから、イレギュラーよ」
結論が早かった。
◇
機械の中は、思っていたより狭かった。
画面が勝手に喋って、勝手にカウントを始めて、勝手にシャッターを切った。何をどうすればいいのか、二人とも最後まで分からなかった。
「ポーズって何をすればいいの」
「知りません」
「あなたも知らないの」
「僕も初めてです」
「役に立たないわね」
一枚目は、二人とも画面を見て固まっていた。
二枚目は、彼女が何かしようとして失敗して、手が変な位置にあった。
三枚目で、機械が「もっと近づいて!」と大きな声で言った。
彼女が驚いて、本当に近づいてきた。肩がぶつかった。
その瞬間にシャッターが切れた。
◇
印刷されたシールは、思っていたより小さかった。
僕らは機械の横で、それを二人で覗きこんだ。
「ひどいわね」
「ひどいですね」
「これ、私?」
「怜奈です」
「一枚目、死んでるみたいな顔をしてるわ」
僕は返事に詰まった。
彼女も、言ってから気づいたようだった。
「……ごめんなさい」
「いえ」
「言葉の選び方を間違えたわ」
「気にしてません」
彼女は三枚目を指さした。
肩がぶつかって、二人とも変な角度に傾いていて、彼女が口を開けたまま写っている写真だった。
「これは、いいわ」
「ひどい顔ですよ」
「ひどいけど、いいの」
彼女はシールをはさみの線で切って、半分を僕に渡した。
「持ってて。なくさないでよ」
僕は財布を出して、カードを入れるところに挟んだ。
彼女は残りの半分を、さっき買った本の紙袋に入れた。
◇
店を出ると、外の空気が急にぬるく感じられた。
駅前の人通りは、もうほとんどなくなっていた。居酒屋の前で、店員が看板の電源を抜いていた。
「正宗」
「はい」
「私、今日一日で、人生でやったことのないことを、全部で十個くらいしたわ」
「そうですね」
「走った。大声を出した。親に嘘をついた。知らない男と病院に行った。定食屋に入った。手をつないだ。恋愛小説を買った。写真を撮った」
「はい」
「それで、いま」
彼女は紙袋を胸に抱えた。
「私、けっこう楽しかったの」
「……はい」
「これ、言っちゃいけないことかしら」
「いえ」
「だって、私は今日死ぬかもしれないのよ。それなのに、楽しかったって思うのは、なんだかおかしい気がして」
彼女は紙袋を抱え直して、僕のほうを見た。
「正宗も、楽しかった?」
僕は答えようとして、その前に、ポケットの携帯を出した。
時刻を見た。
癖だった。今日、何十回もやっていた。数字を確認して、残りを引き算して、また入れる。そうしないと落ち着かなかった。
画面を消して、顔を上げたとき、彼女がこちらを見ていた。




