24時間限定の恋人
コンビニの前は明るすぎたので、僕らは少し歩いた。
商店街を抜けたところに、小さな公園があった。滑り台とブランコと砂場があって、それだけで敷地が埋まるくらいの広さだ。ベンチが一つ、街灯の真下に置いてあった。
彼女はベンチの端に座った。僕は反対の端に座った。ベンチは二人がけで、つまり距離は五十センチほどしかなかった。
彼女は買ったばかりの缶を膝の上に置き、両手で包んだ。
さっきから何かを考えているらしく、プルタブに指を掛けては離している。
何度目かに指を離したあと、ようやく口を開いた。
「相手」
唐突な一言に、僕は彼女を見る。
「事情を知っていて、今日から明日の朝までしか続かなくて、それでも付き合ってくれる人間」
そこまで聞けば、何を言おうとしているのか分かった。
「一人しかいないわね」
否定できなかった。
「別に恥ずかしがることないでしょう。分かってるから、言いなさいよ」
「分かってるなら言わなくてもいいですよね」
「それはダメ」
「え、どうして……?」
彼女は缶を見たまま言った。
「普通、こういうのは男性から言うものでしょう。たとえ、仮初でも」
最後の言葉だけ、少し小さかった。
プルタブに掛けた指が止まる。
仮初。期間限定。明日の朝まで。
自分で言った言葉なのに、彼女はそれを確かめるように、しばらく缶を見つめていた。
僕はその意味までは考えず、ただ頼まれたとおりに言おうと思った。
一度、息を整える。
「僕と、恋人になってください。今日から、明日の朝までのあいだだけ」
風が吹いて、ブランコの鎖がかすかに鳴った。
彼女はしばらく黙っていた。
それから、缶のプルタブをようやく開けた。ぷしゅ、と気の抜けた音がした。
「質問していい?」
返事ではなかった。
思わず眉を寄せる。
いまのは一応、告白という形だったはずなのだけれど。
「それ、イレギュラーになるの?」
意味が分からず、僕は彼女を見た。
「私たちがやろうとしているのは演技でしょう。恋人のふりをして、恋人っぽいことをする。でもそれは、私が恋愛をしたことにはならないわ。中身が空っぽなんだもの」
彼女は一口飲んで、顔をしかめた。冷たいコーンポタージュは、たぶん思っていた味と違ったのだと思う。
「私が本当にやっていないのは、『人を好きになること』よ。手をつなぐことでも、デートをすることでもない。ふりだけして、私の中身が何も変わらなかったら、因果は壊れないんじゃないの」
正しかった。
僕の理論より、彼女の反論のほうが、はるかに筋が通っていた。
「……たぶん、そうです」
「またそれ」
「でも、やったことがないことをやるのは、演技でも同じだと思うんです」
「根拠は」
「ありません」
「今日、その台詞を何回聞いたかしら」
さっきから僕とは目を合わせようとしない。
理屈で否定しているというより、何か別のものに腹を立てているように見えた。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
彼女はベンチの背もたれに寄りかかった。
「秋川くん」
呼ばれて、彼女のほうを向く。
「本当のことを言っていい?」
僕は黙って頷き、続きを促した。
「さっきの反論、たぶん嘘なの」
彼女は僕を見なかった。
膝の上の缶を見つめたまま、親指で何度も端をこすっている。
ただ同じところを、何度も。
「理屈をつけて断ろうとしたのよ。私、嫌なことがあると理屈が出てくるの。子どものころからそう。泣く代わりに理屈が出てくるのよ」
返す言葉が見つからなかった。
「私ね、恋愛がありえないって言ったけど、あれ、正確じゃなかったわ」
彼女の横顔を見たまま、続きを待った。
「したくないんじゃないの。できないと思ってるの」
「……と、いうと?」
「人と話すのが苦手で、友達もいなくて、本ばかり読んでる女が、誰かに好かれることなんてないでしょう。だから最初から、そういうものは自分には来ないことにしてるの。そうしておけば、来なくても傷つかないから」
僕は何も言えなかった。
彼女も、それ以上は言わなかった。
公園の外を車が一台通り過ぎた。
タイヤの音が遠ざかってしまうと、また静かになった。
彼女は缶を握ったまま俯いていた。
僕はそんな横顔を見ながら、何か言わなければと思った。
けれど、慰める言葉はどれも違う気がした。
しばらくして、彼女が小さく息を吸った。
沈黙を破ったのは、彼女のほうだった。
「それを」
彼女の声が、少しだけ揺れた。
「それを、偽物でやるの? 私が人生で一番ありえないと思ってることを、明日の朝で終わる偽物で、一回だけ?」
彼女は僕を見た。
責めるような目ではなかった。
むしろ、そのほうが困った。
何かを期待したくないのに、それでも期待してしまった人のような目だった。
「ひどい提案だと思わない?」
自分で言い出しておいて、初めて、本当にひどいことを言っていると分かった。
謝ろうと思った。
こんなつもりじゃなかった、と言えばいい。
他の方法を探そう、と引き下がることもできた。
けれど、それで明日の朝が変わる保証はない。
僕はもう、最後までこの人を助けると決めていた。
なら、可能性があるものを、自分から捨てることだけはしたくなかった。
「ひどいと思います」
彼女の目がわずかに動いた。
「でも、取り消したくはないです」
「……どうして」
「これで何かが変わる可能性が少しでもあるなら、試したいです」
一度言葉を切る。
「桃井さんを、助けたいから」
彼女は何も言わなかった。
ただ、僕の顔をじっと見ていた。
やがて視線を落とし、缶を持った指から少しだけ力を抜く。
「そう……あなたがそこまで言うなら、そうね……」
小さな声だった。
理屈で納得したようには見えなかった。
むしろ、僕の理論なんてまだほとんど信じていないのだと思う。
それでも、さっきまで固くなっていた口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
彼女は缶を飲み干して、ベンチの脇のゴミ箱に入れた。
戻ってきて、また端に座る。
さっきより、少しだけ近かった。
「秋川くん」
僕は彼女に顔を向けた。
彼女は少しだけ笑っていた。
今日何度か見た笑顔よりも小さくて、本人も気づいていないくらいのものだった。
僕が見ていることに気づくと、その表情はすぐに消えた。
彼女は姿勢を正す。
「一つ、訊きたいことがあるの」
「なんでしょうか」
「あなた、どうしてここまでするの」
僕は答えようとして、うまく言葉が出てこなかった。
「私とあなた、今朝まで一度も喋ったことがなかったのよ。それなのに、あなたは一日中私に付き合って、病院まで来て、変な理論を考えて、いま恋人になってくれって言った」
何も答えず、続きを待った。
「同情?」
「違います」
「じゃあ何」
僕は、砂場を見ていた。
砂場の隅に、誰かが忘れていったスコップが刺さっていた。青いプラスチックの、小さいやつだ。
「三回目のノイズのことを、まだ話してませんでした」
「高校のクラスメイトね」
「そうです」
僕は話した。
廊下ですれ違ったこと。彼が「じゃあな」と言ったこと。僕が「おう」と言ったこと。その瞬間に音が鳴ったこと。
言ってどうなる、と自分に説明して、何も言わずに帰ったこと。
その夜、彼が自転車ごとトラックに轢かれたこと。
葬式で、彼の母親が僕の手を握って、仲良くしてくれてありがとうと言ったこと。
僕が、何も答えられなかったこと。
彼女は途中で一度も口を挟まなかった。
話し終わっても、しばらく何も言わなかった。
「……その人、名前は」
「秋田です。秋田と秋川で、出席番号が隣でした。それだけの関係です」
「それだけじゃないでしょう」
「……まあ、そうですね。教科書を貸し借りしたり、授業中にふざけ合って怒られたりしました」
その程度のことだった。
一緒に遊びに行ったわけでもない。卒業したあとも連絡を取り合うような仲だったとも思わない。
何事もなく卒業していたら、教科書を貸したことも、くだらないことで笑ったことも、きっと少しずつ忘れていた。
けれど、秋田は死んだ。
だからどうでもよかったはずの記憶まで、あの日に貼りついたままになった。
四年経っても、剥がれなかった。
「あなたは、四年間その話を誰にもしてないのね」
僕はすぐには頷けなかった。
自分で話しておきながら、いまさら胸の奥が重くなっていた。
四年間、一度も口にしなかった名前だった。
言葉にしたら何かが変わると思っていたわけじゃない。
それでも、最後まで話し終えたいま、ずっと胸の中にあったものが、ほんの少しだけ軽くなっている気がした。
僕はゆっくり息を吐いた。
それから、小さく頷いた。
「遠山くんにも、言ったことはないの?」
「ないです」
「私が初めて?」
「はい。初めてです」
彼女は自分の膝の上で、手を組んだ。
「秋川くん」
「はい」
「それ、私が聞いてよかったの」
「……はい」
「そう」
彼女は少しのあいだ、その手を見ていた。
「じゃあ、預かるわ」
「私、一つ間違ってたわ」
「何をですか」
「あなたが今朝、私に話したことを、私はずっと『ひどい人ね』って言い続けてたでしょう」
僕は何も言わずに彼女を見た。
彼女は一度だけ目を伏せてから、続けた。
「あれは、あなたにとっては、四年ぶりに口を開いたってことだったのね」
僕は膝の上の自分の手を見た。
指が、少し冷たくなっていた。六月なのに。
「桃井さん」
「なにかしら」
「僕の能力は、信じなくていいです」
僕は顔を上げた。
彼女がこちらを見ていた。街灯の光が斜めから当たっていて、目の下の隈が、昼より濃くなっているのが分かった。
人の顔を、長く見ないようにして生きてきた。
今日はもう、二回もこの人の顔をまっすぐ見ている。
「当たってるかどうかは、明日の朝にならないと分からない。桃井さんが検証できないのも、その通りです。僕だって、自分の頭がおかしいだけならそのほうがいいと思ってます」
「ええ」
「でも」
僕は言った。
「桃井さんを死なせたくないと思ってる僕のことだけは、信じてくれませんか」
彼女は、長いあいだ黙っていた。
どこかで自転車のベルが鳴った。誰かが公園の前を通り過ぎていった。
「……ずるいわ、それ」
「すみません」
「反証できないとか、統計がどうとか、そういう話が全部きかないところに逃げたでしょう」
否定はできなかった。
「私、そういうのが一番弱いのよ」
彼女は立ち上がった。
そして、僕のほうへ向き直って、右手を差し出した。
手が震えていた。昼からずっと止まらないと言っていた、あの震えだ。
「いいわ」
僕は顔を上げた。
「恋人になりましょう。明日の朝の九時七分まで」
僕は立ち上がって、その手を握った。
思っていたより、冷たかった。
握り返してくるまでに、少し間があった。それから、彼女の指がゆっくりと閉じた。
「……条件があるわ」
「条件?」
「三つ」
「多いですね」
僕の返事など気にする様子もなく、彼女はすぐに続けた。
「一つ目。イレギュラーとして有効にするために、細部までちゃんとやること。中途半端が一番意味がないの」
僕は頷いた。
「二つ目。名字で呼び合うのをやめましょう」
思わず彼女を見る。
彼女は僕と目が合う前に、すっと視線を横へ逃がした。
さっきまで堂々と条件を並べていたのに、急に頬のあたりが落ち着かなく見える。
「恋人同士が『秋川くん』『桃井さん』って呼び合うの、変でしょう。細部が大事だって言ったばかりよ」
理屈は通っていた。
そして、通りすぎていた。この人はさっき自分で言った。嫌なことがあると理屈が出てくると。
いまのは、たぶん逆のやつだ。
「わ、分かりました」
「じゃあ、呼んで」
「え、いまですか?」
「そう、いま」
僕は口を開けた。
開けたまま、しばらく何も出てこなかった。
「ほ、ほら、早くしてよ」
「いや、あの」
僕が口ごもると、彼女まで落ち着かなくなった。
膝の上で指を組み直し、僕を見る。
目が合う。
すぐに、二人とも逸らした。
恋人になると決めたのは、ついさっきだ。
それなのに、名前を呼ぶだけで、急に距離の測り方が分からなくなった。
「やっぱり恥ずかしいんじゃない」
「桃井さんだって」
「いまは私の話をしてないの」
僕は彼女を見る。
彼女も、こちらを見ていた。
さっきまでより背筋が固くなっている。
組んだ指先が落ち着かずに動き、目が合うたびに視線が揺れた。
そんな様子を見ていたら、僕まで妙に緊張してきた。
ただ名前を呼ぶだけだ。
頭では分かっているのに、喉が少しだけ乾いていた。
僕は小さく息を吸った。
「……怜奈さん」
「さ、さん付けはおかしいわ。ほら、やり直し」
彼女はむっとした顔で腕を組んだ。
「それから、その敬語もやめて。三つ目の条件にするわ」
「そんな、いきなりは無理ですよ……!」
「いいから。細部が大事だって言ってるでしょう」
彼女はそう言って、それから少しだけ目を伏せた。
「……もういいわ、私からやる」
思わず彼女を見る。
「先にやれば、あなたもやりやすいでしょう」
彼女は顔を上げた。
口を開けて、閉じた。
もう一度開けて、また閉じた。
「桃井さん」
「待って。いま準備してるの」
「桃井さんだってできないじゃないですか!」
「う、うるさいわね」
彼女は一度、僕から顔を逸らした。
それから、ゆっくり息を吸う。
さっきまで聞こえていた車の音も、遠くの話し声も、その瞬間だけ妙に遠く感じた。
目の前にいる彼女の呼吸だけが、やけにはっきり聞こえる。
彼女が顔を上げる。
今度は、目を逸らさなかった。
「……正宗」
初めて、名前を呼ばれた。
声は、驚くほど小さかった。ほとんど息だけのような音だった。
それでも、確かに僕の名前だった。
彼女はすぐに下を向いた。耳が赤くなっていた。街灯の下でも分かるくらいに。
「ほら……言ったわよ」
「……聞こえました」
「聞こえたなら、次はあなたの番」
僕は彼女を見た。
同じ大学に一年と少し通っていて、毎週同じ教室にいて、一度も口をきかなかった人だった。
今朝、僕はこの人の顔を見てノイズを聞いた。
それから半日もしないうちに、病院へ行って、一緒に飯を食べて、この人の怖がる顔も、笑う顔も、怒る顔も見た。
それでも、名前だけはまだ呼んだことがなかった。
彼女がこちらを待っている。
少し赤くなった顔で、それでも目だけは逸らさずに。
さっき自分の名前を呼ばれたときより、心臓が速くなっている気がした。
僕は、その名前を口の中で一度だけ確かめた。
「怜奈」
彼女が、ぴくりと肩を動かした。
「……な、なに……」
「なんでそんなビックリしてるのさ。呼べって言ったのは怜奈だよ」
言ってから、敬語が消えていることに気づいた。
彼女も気づいたようだった。
「……やれば、できるじゃない」
「たまたまです」
「戻ったわね」
僕らは顔を見合わせた。
どちらからともなく視線を逸らす。
恋人になったはずなのに、さっきまでより会話がぎこちなくなっていた。
たった名前を一つ変えただけなのに、五十センチの距離まで違って感じる。
僕は誤魔化すように時計を見た。
二十二時十分。
残り、十時間五十七分。
僕たちは、公園を出た。




