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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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18/35

24時間限定の恋人

 コンビニの前は明るすぎたので、僕らは少し歩いた。


 商店街を抜けたところに、小さな公園があった。滑り台とブランコと砂場があって、それだけで敷地が埋まるくらいの広さだ。ベンチが一つ、街灯の真下に置いてあった。


 彼女はベンチの端に座った。僕は反対の端に座った。ベンチは二人がけで、つまり距離は五十センチほどしかなかった。


 彼女は買ったばかりの缶を膝の上に置き、両手で包んだ。


 さっきから何かを考えているらしく、プルタブに指を掛けては離している。


 何度目かに指を離したあと、ようやく口を開いた。


「相手」


 唐突な一言に、僕は彼女を見る。


「事情を知っていて、今日から明日の朝までしか続かなくて、それでも付き合ってくれる人間」


 そこまで聞けば、何を言おうとしているのか分かった。


「一人しかいないわね」


 否定できなかった。


「別に恥ずかしがることないでしょう。分かってるから、言いなさいよ」


「分かってるなら言わなくてもいいですよね」


「それはダメ」


「え、どうして……?」


 彼女は缶を見たまま言った。


「普通、こういうのは男性から言うものでしょう。たとえ、仮初でも」


 最後の言葉だけ、少し小さかった。


 プルタブに掛けた指が止まる。


 仮初。期間限定。明日の朝まで。


 自分で言った言葉なのに、彼女はそれを確かめるように、しばらく缶を見つめていた。


 僕はその意味までは考えず、ただ頼まれたとおりに言おうと思った。


 一度、息を整える。


「僕と、恋人になってください。今日から、明日の朝までのあいだだけ」


 風が吹いて、ブランコの鎖がかすかに鳴った。


 彼女はしばらく黙っていた。


 それから、缶のプルタブをようやく開けた。ぷしゅ、と気の抜けた音がした。


「質問していい?」


 返事ではなかった。


 思わず眉を寄せる。


 いまのは一応、告白という形だったはずなのだけれど。


「それ、イレギュラーになるの?」


 意味が分からず、僕は彼女を見た。


「私たちがやろうとしているのは演技でしょう。恋人のふりをして、恋人っぽいことをする。でもそれは、私が恋愛をしたことにはならないわ。中身が空っぽなんだもの」


 彼女は一口飲んで、顔をしかめた。冷たいコーンポタージュは、たぶん思っていた味と違ったのだと思う。


「私が本当にやっていないのは、『人を好きになること』よ。手をつなぐことでも、デートをすることでもない。ふりだけして、私の中身が何も変わらなかったら、因果は壊れないんじゃないの」


 正しかった。


 僕の理論より、彼女の反論のほうが、はるかに筋が通っていた。


「……たぶん、そうです」


「またそれ」


「でも、やったことがないことをやるのは、演技でも同じだと思うんです」


「根拠は」


「ありません」


「今日、その台詞を何回聞いたかしら」


 さっきから僕とは目を合わせようとしない。


 理屈で否定しているというより、何か別のものに腹を立てているように見えた。


 けれど、それが何なのかは分からなかった。


 彼女はベンチの背もたれに寄りかかった。


「秋川くん」


 呼ばれて、彼女のほうを向く。


「本当のことを言っていい?」


 僕は黙って頷き、続きを促した。


「さっきの反論、たぶん嘘なの」


 彼女は僕を見なかった。


 膝の上の缶を見つめたまま、親指で何度も端をこすっている。


 ただ同じところを、何度も。


「理屈をつけて断ろうとしたのよ。私、嫌なことがあると理屈が出てくるの。子どものころからそう。泣く代わりに理屈が出てくるのよ」


 返す言葉が見つからなかった。


「私ね、恋愛がありえないって言ったけど、あれ、正確じゃなかったわ」


 彼女の横顔を見たまま、続きを待った。


「したくないんじゃないの。できないと思ってるの」


「……と、いうと?」


「人と話すのが苦手で、友達もいなくて、本ばかり読んでる女が、誰かに好かれることなんてないでしょう。だから最初から、そういうものは自分には来ないことにしてるの。そうしておけば、来なくても傷つかないから」


 僕は何も言えなかった。


 彼女も、それ以上は言わなかった。


 公園の外を車が一台通り過ぎた。


 タイヤの音が遠ざかってしまうと、また静かになった。


 彼女は缶を握ったまま俯いていた。


 僕はそんな横顔を見ながら、何か言わなければと思った。


 けれど、慰める言葉はどれも違う気がした。


 しばらくして、彼女が小さく息を吸った。


 沈黙を破ったのは、彼女のほうだった。


「それを」


 彼女の声が、少しだけ揺れた。


「それを、偽物でやるの? 私が人生で一番ありえないと思ってることを、明日の朝で終わる偽物で、一回だけ?」


 彼女は僕を見た。


 責めるような目ではなかった。


 むしろ、そのほうが困った。


 何かを期待したくないのに、それでも期待してしまった人のような目だった。


「ひどい提案だと思わない?」


 自分で言い出しておいて、初めて、本当にひどいことを言っていると分かった。


 謝ろうと思った。


 こんなつもりじゃなかった、と言えばいい。


 他の方法を探そう、と引き下がることもできた。


 けれど、それで明日の朝が変わる保証はない。


 僕はもう、最後までこの人を助けると決めていた。


 なら、可能性があるものを、自分から捨てることだけはしたくなかった。


「ひどいと思います」


 彼女の目がわずかに動いた。


「でも、取り消したくはないです」


「……どうして」


「これで何かが変わる可能性が少しでもあるなら、試したいです」


 一度言葉を切る。


「桃井さんを、助けたいから」


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、僕の顔をじっと見ていた。


 やがて視線を落とし、缶を持った指から少しだけ力を抜く。


「そう……あなたがそこまで言うなら、そうね……」


 小さな声だった。


 理屈で納得したようには見えなかった。


 むしろ、僕の理論なんてまだほとんど信じていないのだと思う。


 それでも、さっきまで固くなっていた口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。


 彼女は缶を飲み干して、ベンチの脇のゴミ箱に入れた。


 戻ってきて、また端に座る。


 さっきより、少しだけ近かった。


「秋川くん」


 僕は彼女に顔を向けた。


 彼女は少しだけ笑っていた。


 今日何度か見た笑顔よりも小さくて、本人も気づいていないくらいのものだった。


 僕が見ていることに気づくと、その表情はすぐに消えた。


 彼女は姿勢を正す。


「一つ、訊きたいことがあるの」


「なんでしょうか」


「あなた、どうしてここまでするの」


 僕は答えようとして、うまく言葉が出てこなかった。


「私とあなた、今朝まで一度も喋ったことがなかったのよ。それなのに、あなたは一日中私に付き合って、病院まで来て、変な理論を考えて、いま恋人になってくれって言った」


 何も答えず、続きを待った。


「同情?」


「違います」


「じゃあ何」


 僕は、砂場を見ていた。


 砂場の隅に、誰かが忘れていったスコップが刺さっていた。青いプラスチックの、小さいやつだ。


「三回目のノイズのことを、まだ話してませんでした」


「高校のクラスメイトね」


「そうです」


 僕は話した。


 廊下ですれ違ったこと。彼が「じゃあな」と言ったこと。僕が「おう」と言ったこと。その瞬間に音が鳴ったこと。


 言ってどうなる、と自分に説明して、何も言わずに帰ったこと。


 その夜、彼が自転車ごとトラックに轢かれたこと。


 葬式で、彼の母親が僕の手を握って、仲良くしてくれてありがとうと言ったこと。


 僕が、何も答えられなかったこと。


 彼女は途中で一度も口を挟まなかった。


 話し終わっても、しばらく何も言わなかった。


「……その人、名前は」


「秋田です。秋田と秋川で、出席番号が隣でした。それだけの関係です」


「それだけじゃないでしょう」


「……まあ、そうですね。教科書を貸し借りしたり、授業中にふざけ合って怒られたりしました」


 その程度のことだった。


 一緒に遊びに行ったわけでもない。卒業したあとも連絡を取り合うような仲だったとも思わない。


 何事もなく卒業していたら、教科書を貸したことも、くだらないことで笑ったことも、きっと少しずつ忘れていた。


 けれど、秋田は死んだ。


 だからどうでもよかったはずの記憶まで、あの日に貼りついたままになった。


 四年経っても、剥がれなかった。


「あなたは、四年間その話を誰にもしてないのね」


 僕はすぐには頷けなかった。


 自分で話しておきながら、いまさら胸の奥が重くなっていた。


 四年間、一度も口にしなかった名前だった。


 言葉にしたら何かが変わると思っていたわけじゃない。


 それでも、最後まで話し終えたいま、ずっと胸の中にあったものが、ほんの少しだけ軽くなっている気がした。


 僕はゆっくり息を吐いた。


 それから、小さく頷いた。


「遠山くんにも、言ったことはないの?」


「ないです」


「私が初めて?」


「はい。初めてです」


 彼女は自分の膝の上で、手を組んだ。


「秋川くん」


「はい」


「それ、私が聞いてよかったの」


「……はい」


「そう」


 彼女は少しのあいだ、その手を見ていた。


「じゃあ、預かるわ」


「私、一つ間違ってたわ」


「何をですか」


「あなたが今朝、私に話したことを、私はずっと『ひどい人ね』って言い続けてたでしょう」


 僕は何も言わずに彼女を見た。


 彼女は一度だけ目を伏せてから、続けた。


「あれは、あなたにとっては、四年ぶりに口を開いたってことだったのね」


 僕は膝の上の自分の手を見た。


 指が、少し冷たくなっていた。六月なのに。


「桃井さん」


「なにかしら」


「僕の能力は、信じなくていいです」


 僕は顔を上げた。


 彼女がこちらを見ていた。街灯の光が斜めから当たっていて、目の下の隈が、昼より濃くなっているのが分かった。


 人の顔を、長く見ないようにして生きてきた。


 今日はもう、二回もこの人の顔をまっすぐ見ている。


「当たってるかどうかは、明日の朝にならないと分からない。桃井さんが検証できないのも、その通りです。僕だって、自分の頭がおかしいだけならそのほうがいいと思ってます」


「ええ」


「でも」


 僕は言った。


「桃井さんを死なせたくないと思ってる僕のことだけは、信じてくれませんか」


 彼女は、長いあいだ黙っていた。


 どこかで自転車のベルが鳴った。誰かが公園の前を通り過ぎていった。


「……ずるいわ、それ」


「すみません」


「反証できないとか、統計がどうとか、そういう話が全部きかないところに逃げたでしょう」


 否定はできなかった。


「私、そういうのが一番弱いのよ」


 彼女は立ち上がった。


 そして、僕のほうへ向き直って、右手を差し出した。


 手が震えていた。昼からずっと止まらないと言っていた、あの震えだ。


「いいわ」


 僕は顔を上げた。


「恋人になりましょう。明日の朝の九時七分まで」


 僕は立ち上がって、その手を握った。


 思っていたより、冷たかった。


 握り返してくるまでに、少し間があった。それから、彼女の指がゆっくりと閉じた。


「……条件があるわ」


「条件?」


「三つ」


「多いですね」


 僕の返事など気にする様子もなく、彼女はすぐに続けた。


「一つ目。イレギュラーとして有効にするために、細部までちゃんとやること。中途半端が一番意味がないの」


 僕は頷いた。


「二つ目。名字で呼び合うのをやめましょう」


 思わず彼女を見る。


 彼女は僕と目が合う前に、すっと視線を横へ逃がした。


 さっきまで堂々と条件を並べていたのに、急に頬のあたりが落ち着かなく見える。


「恋人同士が『秋川くん』『桃井さん』って呼び合うの、変でしょう。細部が大事だって言ったばかりよ」


 理屈は通っていた。


 そして、通りすぎていた。この人はさっき自分で言った。嫌なことがあると理屈が出てくると。


 いまのは、たぶん逆のやつだ。


「わ、分かりました」


「じゃあ、呼んで」


「え、いまですか?」


「そう、いま」


 僕は口を開けた。


 開けたまま、しばらく何も出てこなかった。


「ほ、ほら、早くしてよ」


「いや、あの」


 僕が口ごもると、彼女まで落ち着かなくなった。


 膝の上で指を組み直し、僕を見る。


 目が合う。


 すぐに、二人とも逸らした。


 恋人になると決めたのは、ついさっきだ。


 それなのに、名前を呼ぶだけで、急に距離の測り方が分からなくなった。


「やっぱり恥ずかしいんじゃない」


「桃井さんだって」


「いまは私の話をしてないの」


 僕は彼女を見る。


 彼女も、こちらを見ていた。


 さっきまでより背筋が固くなっている。


 組んだ指先が落ち着かずに動き、目が合うたびに視線が揺れた。


 そんな様子を見ていたら、僕まで妙に緊張してきた。


 ただ名前を呼ぶだけだ。


 頭では分かっているのに、喉が少しだけ乾いていた。


 僕は小さく息を吸った。


「……怜奈さん」


「さ、さん付けはおかしいわ。ほら、やり直し」


 彼女はむっとした顔で腕を組んだ。


「それから、その敬語もやめて。三つ目の条件にするわ」


「そんな、いきなりは無理ですよ……!」


「いいから。細部が大事だって言ってるでしょう」


 彼女はそう言って、それから少しだけ目を伏せた。


「……もういいわ、私からやる」


 思わず彼女を見る。


「先にやれば、あなたもやりやすいでしょう」


 彼女は顔を上げた。


 口を開けて、閉じた。


 もう一度開けて、また閉じた。


「桃井さん」


「待って。いま準備してるの」


「桃井さんだってできないじゃないですか!」


「う、うるさいわね」


 彼女は一度、僕から顔を逸らした。


 それから、ゆっくり息を吸う。


 さっきまで聞こえていた車の音も、遠くの話し声も、その瞬間だけ妙に遠く感じた。


 目の前にいる彼女の呼吸だけが、やけにはっきり聞こえる。


 彼女が顔を上げる。


 今度は、目を逸らさなかった。


「……正宗」


 初めて、名前を呼ばれた。


 声は、驚くほど小さかった。ほとんど息だけのような音だった。


 それでも、確かに僕の名前だった。


 彼女はすぐに下を向いた。耳が赤くなっていた。街灯の下でも分かるくらいに。


「ほら……言ったわよ」


「……聞こえました」


「聞こえたなら、次はあなたの番」


 僕は彼女を見た。


 同じ大学に一年と少し通っていて、毎週同じ教室にいて、一度も口をきかなかった人だった。


 今朝、僕はこの人の顔を見てノイズを聞いた。


 それから半日もしないうちに、病院へ行って、一緒に飯を食べて、この人の怖がる顔も、笑う顔も、怒る顔も見た。


 それでも、名前だけはまだ呼んだことがなかった。


 彼女がこちらを待っている。


 少し赤くなった顔で、それでも目だけは逸らさずに。


 さっき自分の名前を呼ばれたときより、心臓が速くなっている気がした。


 僕は、その名前を口の中で一度だけ確かめた。


「怜奈」


 彼女が、ぴくりと肩を動かした。


「……な、なに……」


「なんでそんなビックリしてるのさ。呼べって言ったのは怜奈だよ」


 言ってから、敬語が消えていることに気づいた。


 彼女も気づいたようだった。


「……やれば、できるじゃない」


「たまたまです」


「戻ったわね」


 僕らは顔を見合わせた。


 どちらからともなく視線を逸らす。


 恋人になったはずなのに、さっきまでより会話がぎこちなくなっていた。


 たった名前を一つ変えただけなのに、五十センチの距離まで違って感じる。


 僕は誤魔化すように時計を見た。


 二十二時十分。


 残り、十時間五十七分。


 僕たちは、公園を出た。

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