イレギュラー 3
コンビニの明かりの前で、彼女がまた止まった。
「秋川くん。行き詰まったわ」
携帯のメモを何度か上下にスクロールする。増えない項目を見つめたまま、眉間に薄く皺を寄せていた。
やがて諦めたように、小さく息を吐く。
「大声と外泊と店員さんへの挨拶。それで終わりよ。私、思ったより何もしていない人間だったみたい」
彼女は自分の携帯のメモを見下ろした。
「生活に、イレギュラーにできるほどの内容がないの」
それは、笑って流していい台詞ではなかった。
「桃井さん、普段は何をしてるんですか」
「起きて、大学に行って、講義を受けて、屋上でお弁当を食べて、また講義を受けて、帰って、本を読んで、寝るわ」
言い終えるころには、彼女の声が少しだけ小さくなっていた。
並べてみて、自分でも気づいたのだろう。
毎日がほとんど同じ形をしていることに。
彼女は携帯を下ろし、どこか気まずそうに目を伏せた。
僕は少しだけ笑ってみせた。
「本は、どんなのを読むんですか」
彼女が顔を上げた。
「ホラー、SF、伝奇。怪談の実話集も読むし、民俗学の本も読む。学術書のふりをした眉唾も読むわ。そういうのが一番おもしろいのよ」
本の話をするとき、彼女の喋る速度が少し上がった。
さっきまで沈んでいた表情も、いつの間にか戻っている。
「読まないジャンルは」
「恋愛小説」
「即答ですね」
「だって読まないもの」
彼女は、僕が理由を訊くより先に答える。
「ありえないもの、ラブロマンスなんて」
彼女は自販機の前で立ち止まって、ずらりと並んだボタンを見ていた。
「素敵な男の人と、偶然出会って、いろいろあって、それで結ばれて幸せになる。あれ、全部噓でしょう。現実にそんなものないわ」
僕は黙って聞いていた。
「運命の恋なんて、生きてるあいだに一度も見たことがない。統計にも載らない。誰も観測してない。だから私、読まないの」
彼女はコーンポタージュのボタンを押した。冷たいほうだった。
押してから、
「夏だからいいのよ」
と、よく分からない言い訳をした。
缶が落ちてきた。
僕は、その音を聞きながら、たぶん相当に間抜けな顔をしていたと思う。
「桃井さん」
「なに」
「恋愛って」
缶を取り出そうとしていた彼女の手が止まった。
何を言い出すのか分からないというように、少しだけ眉を上げて僕を見る。
その顔を見て、さっきまで頭の中で引っかかっていたものが、ようやく形になった。
「恋愛って、桃井さんにとって、一番ありえないことなんじゃないですか」
彼女は缶を取り出そうと屈んだ姿勢のまま、止まった。
それから、ゆっくり顔だけこちらへ向けた。
「……恋愛?……」
「桃井さんにとって、一番ありえないこと。それが恋愛ですよね」
彼女は缶を取り出して、立ち上がった。プルタブを開けずに、両手で持っていた。
「そうね……理屈は、分かるわ」
「はい」
「経験ゼロ。読んだこともない。興味もない。親に禁止されてる。友達がいないから、そういう話をする相手もいない。私の人生に恋愛という項目は、目次にすら載ってない」
「はい」
「だから、一番のイレギュラーになる」
「はい」
「そこまでは分かる」
彼女は缶の縁を指でなぞった。弁当箱の縁をなぞっていたときと、同じ動きだった。
「でも、相手はどうするのよ」




