イレギュラー 2
店を出てすぐ、彼女は道端で立ち止まった。
「まず、書きだしましょう」
「何をですか?」
「私が絶対にしないことのリスト。頭の中でやってると抜けるわ」
彼女は携帯を出して、メモを開いた。街灯の下で、画面の光が彼女の顎を照らしていた。
「バンジージャンプ」
「却下です」
「なんで」
「危ないので」
「あ、そうよね」
彼女は少し考えて、もう一度言った。
「高いところ、火、刃物、水、高速で動くもの。全部だめってことね」
僕は頷いた。
命を助けるために、命を危険に晒していたら意味がない。
「私が絶対にしないことって、だいたい危ないことなのよね。だから絶対にしないんだもの」
それはその通りだった。
彼女がやらないのは、彼女が慎重だからだ。慎重だからやらないことを片っ端からやったら、その慎重さがなくなるだけで、寿命は縮む。
「じゃあ、危なくなくて、桃井さんが絶対にしないこと」
「難しいわね」
彼女は歩きだした。僕もついていった。
駅前の商店街は、シャッターを下ろしている店が半分くらいあった。残っているのは、居酒屋とコンビニとカラオケくらいだ。
少し先の居酒屋から、五、六人の集団が出てきた。
酔っているらしく、誰かが大声で笑い、別の誰かが負けじと声を張り上げる。夜の商店街に、遠慮のない声が響いた。
彼女はそちらを見た。
迷惑そうに眉を寄せたあと、ふと表情が止まる。
「大声を出す、というのはどうかしら?」
「いいですね。やってみましょう」
「い、いま?」
「今やらずに、いつやるんですか」
彼女は立ち止まった。
口を開けて、
閉じた。
「……無理よ」
「早いです」
「だって恥ずかしいじゃない」
「明日死ぬかもしれないのに」
「明日死ぬかもしれなくても、恥ずかしいものは恥ずかしいわ」
彼女はそう言って、それから周囲を確認した。
誰もこちらを見ていないことを確かめると、小さく息を吸う。
「あーっ……!」
小さかった。
三メートル先の酔っぱらいにも届かないくらいの音だった。
「もう少し頑張ってください」
「ああーっ……!」
「もうちょっと!」
彼女は今度こそ、とでもいうように大きく息を吸った。
胸が膨らみ、肩が上がる。
「……っ……!」
けれど、声になる直前で止まった。
唇をきゅっと結び、俯く。
耳まで赤くなっていた。
「……無理」
今度はさっきよりずっと小さい声だった。
そんなに恥ずかしいならやめればいいのに、真面目に挑戦して、本気で失敗している。
その姿が、少しだけ可愛く見えた。
「……なに見てるのよ……」
彼女がじろりとこちらを見る。
「い、いえ、なんでもないです。次にいきましょう!」
慌てて視線を逸らした。
彼女はまだ耳を赤くしたまま、誤魔化すように携帯へ顔を落とした。
何度か画面をスクロールしているうちに、ようやく赤みが少し引いていく。
そして、指が止まった。
「……一つあるわ」
「なんですか」
「外泊」
彼女は携帯の画面を、別のアプリに切り替えた。
「私、実家なの。親と一緒に住んでる」
「はい」
「門限は九時半。破ったことは一度もない。外に泊まったことは、修学旅行と、中学の林間学校と、それだけ」
思わず彼女を見た。
二十歳になっても門限を一度も破ったことがないというのは、少し意外だった。
けれど、今日一日彼女を見てきたあとでは、妙に納得もできた。
この人なら、本当に一度も破っていないのだろう。
「あなた、今日の朝まで一人にならないでって言ったわよね」
言った。
言ったのは僕だ。
なのに、その意味を、いま初めて理解した。
「……そうですね」
「じゃあ、外泊よ」
彼女は指を画面に置いた。
置いたまま、動かなかった。
「連絡、入れないんですか?」
「入れるわよ」
まだ一文字も打っていなかった。
僕は黙って待った。
商店街のスピーカーから、聞いたことのある曲の、音程が微妙に狂ったオルゴール版が流れていた。
一分ほどかかって、彼女はようやく文字を打ちはじめた。
『今日、友達の家に泊まります。心配しないで』
打ち終えると、彼女は画面を僕のほうへ少し傾けた。
僕も覗きこむ。
二人で、その短い文章を見つめた。
「……これでいいかしら?」
「いいんじゃないですか」
「そうよね」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、いいと思います」
彼女の親に嘘をつく手伝いをしていると思うと、急に自信がなくなった。
彼女も同じらしい。
送信ボタンの上に指を置いたまま、何秒か動かなかった。
それでも最後には、小さく息を吸って画面を押した。
「送ったわ」
送信されたメッセージを、彼女はじっと見つめていた。
「人生初の、親への嘘」
携帯を握る指に、少しだけ力が入る。
送ってしまったあとになって緊張が追いついてきたらしく、彼女は胸元に手を当てた。
「けっこう、心臓に悪いわね」
返事はすぐに来た。
彼女は画面を見て、そのまま動かなくなった。
「どうしました?」
「……」
「桃井さん?」
「『わかりました。楽しんでらっしゃい』」
彼女は画面を見たまま言った。
「それだけですか?」
「それだけ。あと、スタンプが一個」
彼女は携帯を下ろして、シャッターの降りた靴屋の壁に背中を預けた。
「うちの母、たぶん喜んでるわ」
「なんでですか」
「私に友達ができたと思ってるから」
僕は何も言えなかった。
彼女は下を向いていた。
「二十年生きて、外泊の連絡が初めてなのよ。それを、娘が嘘でしてるなんて思わないでしょう」
さっきまで少し浮き足立っていた気持ちが、僕の中でも静かになった。
イレギュラーだから、と言ってしまえば簡単だ。
けれど、そのために誰かを騙していることまで消えるわけじゃない。
彼女も同じことを考えているのだろう。
それでも、携帯を握る手には、まだわずかに緊張が残っていた。
怖さとも罪悪感とも少し違う。
初めて門限を破ろうとしている人間だけが持つ、妙な高揚も混じっているように見えた。
「ねえ、秋川くん」
「はい」
彼女が壁から少しだけ顔を上げる。
「これ、イレギュラーとしては相当なものだと思わない?」
「そう、ですね。そう思います」
「じゃあ、一つ進んだわ」
彼女は壁から背中を離した。
一度だけ目元をこすり、それから携帯を鞄にしまう。
歩きだした背中には、まだ少しだけ後ろめたさが残っているように見えた。
僕は少し遅れて、そのあとを追った。




