イレギュラー
食事を終えるころには、テーブルの上の皿はほとんど空になっていた。
彼女の生姜焼きの皿も、僕のカレー皿も、残っているのはソースの跡くらいだ。
ただ、僕はさっきから一つだけ引っかかっていることがあった。
彼女が最後に食べた、プチトマト。
「桃井さん、さっきプチトマト、最後に食べましたよね」
彼女が眉を寄せた。
「それがなに?」
「桃井さんは、好きなものを最初に食べる人です。今日の昼、そう言ってました。食べ損ねたら嫌だから、って」
「……ええ」
「でも、さっきは最後に食べた」
彼女は皿の上の、何もなくなった場所をちらりと見た。
「気づいてなかったわ」
「今日の桃井さん、いつもと違うことをたくさんしてると思うんです」
僕は指を折った。
「車道と反対側を歩いた。エレベーターに乗らなかった。窓際を避けた。昼を抜いた。知らない男と病院に行った。定食屋に入った」
数えてみると、自分で思っていたより多かった。
今日一日だけで、彼女は何度も普段の自分から外れている。
「それで、桃井さんはまだ生きてます」
彼女は箸を置いた。
ゆっくり置いた。音がしないように置いた、というほうが近い。
背もたれから少し身体を起こし、僕のほうへ向き直る。
さっきまで食事をしていたときとは違う目だった。
続きを聞くつもりなのだと分かった。
僕はテーブルの端の紙ナプキンを一枚抜いた。カウンターの伝票入れに刺さっていたボールペンを、店主に断って借りた。
ナプキンに、横向きの線を一本引いた。
「これが、桃井さんの未来です」
「線ね」
「線です」
線の右端に、短い縦棒を足した。
「ここが明日の九時七分。ここで切れてます」
彼女は、テーブルに肘をついて、そのナプキンを見下ろした。
「未来って、その人がやることの積み重ねでできてると思うんです。朝に起きて、いつもの道を通って、いつもの席に座って、いつもの時間に帰る」
僕は、横線の上に小さな点をいくつも打った。
「その全部がつながって、この端にたどり着く」
「ええ」
「だったら、その積み重ねを壊せばいい」
僕は、点のあたりから斜めに何本か線を引いた。線は横線から外れて、ばらばらの方向へ散った。
「桃井さんが普段絶対にしない行動を、大量にする。そうすれば、明日の九時七分につながっている因果そのものが、ばらばらになるんじゃないかと思って」
僕は言い終わって、ペンを置いた。
テレビの野球中継が、CMに変わった。
彼女はすぐには答えなかった。
僕を見る目が、少しだけ細くなる。
さっきまで話を聞いていた顔から、どこに穴があるのかを探す顔へ変わっていた。
「秋川くん」
「はい」
「ずいぶん雑な理論ね」
言われると思っていた。
それでも実際に言われると、少しだけ肩が落ちた。
「それに、絵も下手だわ」
「そこはいまいいでしょう」
「よくないわよ。この線、途中で太さが変わってるもの」
彼女はナプキンを自分のほうへ引き寄せて、指で押さえた。
「まず、あなたはさっき『今日いつもと違うことをしたから、私はまだ生きている』と言ったけど、それは何も証明してないわ。私は明日の朝に死ぬと言われたのよ。今日の夜八時に生きているのは当たり前でしょう」
確かに、その通りだった。
彼女はコップを持ち上げて、水を一口飲んだ。
「二つ目。あなたの能力が見ているのが未来だとして」
コップを置く。
今度はさっきより少し間を取ってから、彼女は続けた。
「今朝あなたが私を見たとき、その未来の中には、すでに今日一日の私の行動が入っているんじゃないの? 私が病院に行くことも、この店に入ることも、いま生姜焼きを食べたことも、全部含まれたうえで、それでも私は九時七分に死ぬ。そういう話なんじゃないの」
僕は答えられなかった。
考えたことがなかったからではない。
考えて、怖くなって、それ以上考えないことにしたからだ。
「私たちが今日何をしても無駄。その可能性もあるのよね」
彼女はそう言って、テーブルの木目を見た。
店主が皿を下げに来た。
「ごちそうさまでした」
彼女がそう言うと、店主は「はいよ」と短く返して、皿を重ねて奥へ戻っていった。
彼女は、その背中をしばらく目で追っていた。
「秋川くん」
「はい」
「いま私、店の人に話しかけたわ」
言われて、僕も店主の消えた厨房のほうを見る。
「私ね、飲食店で店員さんに話しかけたこと、ほとんどないの。注文もメニューを指すだけで済ませるし、ごちそうさまも言わない。恥ずかしいから」
彼女は自分の指を見ていた。
「でもいま、言った」
その指が、膝の上でゆっくり閉じる。
何かを確かめるような動きだった。
「意味があるとか、ないとか、考えても仕方ない。いまできることをするべきよね」
彼女は顔を上げた。
さっきまで僕の理論の穴を探していた目に、少しだけ違うものが混じっていた。
「あなたの能力がもう全部の未来を含んでる、っていう話。あれを考えはじめたら、今日一日、私は何もしないことになる。何もしないで待って、朝に死ぬの」
そこで一度、言葉が途切れた。
彼女は唇を結んだ。
そして、僕をまっすぐ見る。
「それは嫌」
目が赤かった。
泣いているわけではない。ずっと瞬きを我慢している人の目だった。
「あなたの理論は雑よ。根拠もない。検証もできない。私が知っているどんな学問にも載っていない」
そこまで言われると、もう反論する気にもならなかった。
「でも、何もしないよりましでしょう」
彼女はナプキンを四つに折って、財布に入れた。
「なんで持って帰るんですか」
「証拠よ」
「なんの」
「あとであなたに、こんな雑な図で人を巻きこんだって言ってやるの」
彼女は鞄を持って立ち上がった。
「やりましょう、イレギュラー。私が絶対にしないことを、全部する」




