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そのとき君は、僕の名を呼ぶ  作者: 久賀ラトル


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死因が分からない 4

 病院から歩いて五分のところに、定食屋があった。


 ガラスの引き戸が半分開いていて、中からテレビの野球中継が聞こえている。カウンターと、四人がけの席が三つ。壁に貼られた短冊のメニューは、日に焼けて文字が薄くなっていた。


 彼女は店の前で一度だけ足を止めた。


「こういうお店、入ったことないわ」


「確かに、こういうお店にいるイメージはないですね」


「そうよね。でも、だからこそ行ってみる価値があるわ」


 彼女は店の中を覗いて、それから僕を見る。


「入りましょう」


 そう言って、彼女は先に引き戸を開けた。


 油と醤油の混じった匂いが、むっと鼻に入ってきた。


 カウンターでは作業着姿の男がテレビを見ながら箸を動かし、奥の席では白髪の客が瓶ビールを飲んでいる。店主も鍋を振りながら、こちらを一度だけ見た。


 誰も何も言わない。


 けれど、入った瞬間だけ、店の空気がほんの少し止まった気がした。


 彼女も気づいたらしい。


 店内を見回すふりをしながら、鞄の紐を持ち直す。ほんの少しだけ居心地が悪そうだった。


 それでも引き返さず、空いている席まで歩いていく。


「今日は、こういう日なのよ」


 誰に言うでもなく小さく呟いて、彼女は椅子に座った。


 それから何事もなかったように、メニューを開いた。


 彼女は生姜焼き定食を頼んだ。


 桃井さんの口から「生姜焼き定食」という言葉が出るのが、なんだか妙にちぐはぐに聞こえた。


 僕はメニューのカツカレーに目を落とした。


 こういう店に入ると、僕はたいていボリューム重視で頼む。


 けれど、向かいで注文を終えた彼女を見ているうちに、僕もいつもと違うものを選んでみたくなった。


「カレーでお願いします」


 注文してから、自分でも少し可笑しくなった。


 彼女の死を避けるために始めたはずなのに、いつの間にか僕まで「いつも通り」を外そうとしている。


 ただ今日は、そのほうが自然な気がした。


 料理はすぐに来た。


 彼女は味噌汁を一口飲んで、それから、ものすごい速さでご飯を食べはじめた。


「桃井さん」


「なに」


「そんなに急いで食べたら、喉に詰まりますよ」


 彼女の箸が止まった。


 僕も、言ってから気づいた。


 朝から食べ物が怖くなった、と彼女は言っていた。喉に詰まらせたらどうしようとか、当たったらどうしようとか。


「……すみません」


「いいわよ」


 彼女はもう一度箸を動かした。


 今度は、さっきより少しだけゆっくりだった。


 テレビの中で誰かがヒットを打ち、店主が「おお」と声を上げた。


 しばらく、食器の音だけが続いた。


「美味しいですか」


「美味しいわ」


 返事が早かった。


 僕が少し笑うと、彼女は箸を止めずにこちらを見る。


「なによ」


「いや。よかったなと思って」


「朝から何も食べてないんだから、たぶん何でも美味しいわよ」


 彼女はキャベツを箸でまとめながら言った。


 それから少し間を置いて、


「でも、ちゃんと美味しい」


 と付け足した。


 その声がさっきより柔らかく聞こえた。


 やがて彼女は、皿の隅に残っていたプチトマトを口に入れた。


 僕は箸を止めた。


 最初に食べなかった。


 昼、彼女は言っていた。好きなものだから最初に食べるのだと。食べ損ねたら嫌だから、と。


 その人が、いまは最後に食べている。


 彼女は何も言わなかった。


 たぶん、自分でも気づいていない。


 僕は時計を見た。


 二十時二十分。


 彼女に残された時間は、あと十二時間と四十七分。


 病院には行った。危なそうなものも、できるだけ避けている。


 それでも、明日の九時七分を変えられると言えるようなものは、まだ何ひとつなかった。


 もう一度、彼女の皿を見る。


 プチトマトがあった場所だけが、ぽっかり空いていた。


「桃井さん」


「なにかしら」


 僕は箸を置いた。


「一つだけ、思いついたことがあるんです」


「何?」


「たぶん、めちゃくちゃな話です」


 彼女はコップの水を飲んで、僕を見た。


「今日もう、めちゃくちゃな話は二回聞いたわ」


「三回目です」


「聞くわよ。三回目くらいなら、どうってことないもの」


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