死因が分からない 3
診察が終わるまで、僕は何もせずに座っていた。テレビの字幕が、豪雨から、どこかの球団の話に変わって、それからCMに入る。
もう何度目か分からない、清涼飲料水のCMだった。
四十分はこうしてテレビを眺めているが、いっこうに彼女は出てこなかった。
……もしや。悪い予感がしていると、ガラりと扉が開く音が聞こえてきた。
「ど、どうでした」
「心電図は正常。血圧は少し低いけど、異常はないそうよ」
ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、彼女は呟くように話しはじめる。
「ただ……」
「……ただ?」
僕のことを見つめたかと思えば、視線を落とす。
そしてまた、ちらっとこちらを見てくる。
続きを促すように顔を覗き込むと、彼女の唇がほんの少しだけ緩んだように見えた。
「ごめんなさい。別にもったいぶるつもりはなかったんだけど、あなたの反応が面白くてつい」
「び、ビックリさせないでくださいよ! 何かあったのかと思ったじゃないですか!」
彼女は小さく頭を下げて、謝るそぶりをみせた。
文句を言いたい気持ちはあったものの、無邪気に笑っている姿を見ていると、どうでもよくなる。
目尻が下がり、いつもの理屈っぽそうな表情がふっとほどけていた。笑うと少しだけ頬が上がって、普段より幼く見える。
こんなふうに笑うんだ。
思わず見ていると、彼女と目が合った。
笑みが少しだけ引っこみ、彼女は誤魔化すように視線を逸らす。それから診察結果の紙を持ち直して、話を戻した。
「『動悸の原因はたぶん低血糖と空腹と、あと何か心配事でしょう』って言われた。当たってるわよね」
「当たってますね」
「心配事でしょうなんて、簡単に言ってくれるわ」
そう言って、彼女は自動ドアのほうへ歩きだした。
受付の横を通るとき、看護師の一人が彼女に声をかけた。
「気をつけて帰ってね。彼氏さん、ちゃんと送ってあげて」
「「違います」」
僕らの声がきれいに重なった。
看護師が笑い、彼女もつられるように小さく笑った。
自動ドアを抜けると、夜の風が頬に触れた。
病院の明るい照明が背後に遠ざかっていく。
彼女は何歩か進んだところで足を止めた。
病院の前の花壇のふちに腰を下ろし、自分の手を見つめる。夜になっても、コンクリートはまだ少し温かかった。
「消えたわね、二つ」
「……すみません」
「なんであなたが謝るの」
「なんででしょう」
「心疾患と、脳血管疾患。自殺と、癌。四つ消えた」
指折り数えて、最後に小指が残る。
彼女はその一本をしばらく見つめていた。さっきまで浮かんでいた笑みが、少しずつ消えていく。
小指を折ろうとして、途中で止めた。
「残ったのは事故」
彼女は自分の膝を見ていた。
「でも、事故って何なの。車? 電車? 火事? 階段から落ちる? 何か落ちてくる?」
いつもの彼女なら、一つ考えてから次の言葉を選ぶ。けれど今は違った。
浮かんだものを追い払うように、次から次へと言葉がこぼれていく。途中で息を継ぐことさえ忘れているようだった。
僕が何か言うより先に、彼女は続けた。
「家にいればいい? 布団を被っていれば? そうしてるあいだに地震が来たら?」
もう僕の答えを待ってはいなかった。
「ガス漏れは? 火事は? 上の階から水が漏れてきて感電するかもしれないし、寝ているあいだに心臓が止まるかもしれない。さっき先生は正常だって言ったけど、正常な人間が朝に死んでないわけじゃないでしょう」
「桃井さん」
「何をしたらいいのか、教えてよ」
そこで初めて言葉が止まった。
彼女は僕を見た。
「あなたが言ったのよ。私は明日死ぬって。だったら、どうすれば死なないのかも、あなたが言いなさいよ」
僕には、何ひとつ返せなかった。
道路を、トラックが一台通っていった。
大きなエンジン音と一緒に風が押し寄せ、花壇のそばの旗が激しくはためく。
彼女の肩が跳ねた。
次の瞬間、シャツの袖に小さな重みを感じた。
彼女の指が、僕の袖を強く掴んでいた。
僕も彼女も、しばらくその手を見ていた。
やがて彼女は我に返ったように指をほどいた。
「……ごめんなさい」
「いえ」
離した手を胸元に引き寄せたまま、彼女は俯いた。
さっきまでの勢いが嘘のように静かになった。
トラックの音が遠ざかっていく。
風も弱まり、花壇の旗だけがしばらく惰性で揺れていた。
僕は何か言おうとしたけれど、うまい言葉が見つからなかった。
彼女も何も言わない。
そのまま、少し長い沈黙が落ちた。
やがて彼女が小さく息を吐いた。
その直後だった。
きゅう、と控えめな音がした。
彼女の肩が、今度は別の意味でぴたりと止まった。
僕は何も聞かなかったふりをした。
するともう一度、さっきより少し長く音が鳴った。
「……お腹が空いたわ」
僕は堪えきれず、少し笑った。
「笑わないでよ」
「すみません」
彼女は頬を少し赤くしたまま、ぷいと僕から顔を逸らした。
それから鞄を肩に掛け直すと、こちらを待つこともなく、先に歩き出した。
僕は笑いを噛み殺しながら、その背中を追いかけた。




