死因が分からない 2
大学から二駅のところに、夜間救急をやっている総合病院があった。
電車の中で、彼女はずっと吊り革を両手で握っていた。ドアが開くたびに、彼女の肩が少しだけ上がった。
「駅のホームって、けっこう危ないわよね」
「そうですね」
「私、いままで一度も考えたことがなかったの。ホームで人が押されて落ちることがあるって、ニュースでは知ってたのに、自分の話だと思ったことがなかった」
「はい」
「知ってることと、自分の話として知ってることって、全然違うのね」
彼女は少し笑った。今日、何度目かの、うまくいかない笑い方だった。
◇
夜間受付は、思っていたよりずっと混んでいた。
子どもを抱いた母親と、松葉杖の老人と、額に何か巻いた男性が座っていた。蛍光灯が白くて、消毒液の匂いがして、どこかで自動ドアが開いたり閉じたりしていた。
受付の女性が、彼女にバインダーを差しだした。
「症状を書いてください」
彼女はペンを持ったまま止まった。
明日死ぬかもしれないので調べてください、とは書けない。書いたら、まったく別の科に回される。
「……どうしよう」
初めて、彼女が僕に助けを求めた。
「動悸がするって書いてください」
彼女は少しのあいだ僕を見て、それから書きはじめた。
「よく思いつくわね、そういうこと」
「僕、嘘をつくのは得意なんです」
「自慢にならないわ」
待合の椅子に並んで座った。テレビがついていて、音は消してあって、字幕だけが流れていた。どこかの地方で豪雨の予報が出ていた。
僕の携帯が震えた。
隆二だった。
『明日の昼、カツカレー』
下へ読み進める。
『三限の前な。逃げんなよ』
僕は画面を見ていた。
明日の昼。
「誰から」
「友達です」
「遠山くん?」
「なんで分かるんですか」
「あなたが困った顔をしてる」
彼女は少し首を伸ばして、画面を覗いた。
「カツカレー」
「昼に奢る約束をしたんです。今朝、出席カードを偽造してもらったので」
「犯罪ね」
「はい」
「奢ってあげなさいよ」
「……はい」
「明日の昼に」
僕は返事ができなかった。
彼女は背もたれに体を預けて、天井を見た。
「桃井さん」
「なに」
「『明日』って言葉、使わないほうがいいですか」
「別に」
彼女はそのまま天井を見ていた。
「使わないようにしたら、そのほうが変でしょう。私、明日の話をしたいわ。明日の話をしない一日なんて、耐えられない」
そのとき、正面の自動ドアが両側に開いた。
風が入ってきて、それから、車輪の音がした。
救急隊員が二人、ストレッチャーを押して入ってきた。乗っているのは中年の男だった。顔に透明なマスクが当てられていて、片腕がストレッチャーの縁から垂れ下がっていた。
隊員の一人が、早口で何かを読み上げていた。名前と、年齢と、時刻と、数字。
奥から看護師が三人、ほとんど走るようにして出てきた。
ストレッチャーは、僕らの前を通っていった。
待合の椅子に座っている全員が、それを見た。松葉杖の老人も、額に何か巻いた男性も、みんな一度そちらを向いて、通り過ぎると、また下を向いた。
奥の扉が閉まった。
自動ドアが、もう一度開いて、閉じた。
あとには、床に点々と残った黒い跡だけがあった。雨も降っていないのに、車輪が何かを運んできていた。
彼女は、その跡を見ていた。
「……秋川くん」
「はい」
「あの人、今朝起きたときに、今日ここに来ると思ってたかしら」
僕は、答えられなかった。
「思ってないわよね」
彼女は膝の上で手を組んだ。指が白くなっていた。
「私、いままで自分が『そのうち死ぬ』ってことを、知識としては知ってたの。八十年後か、九十年後かは分からないけど、いつか死ぬ。それは知ってたわ」
「はい」
「でも、順番が来るっていう感じが、全然なかったのよ」
名前を呼ばれた。彼女が立ち上がった。
「行ってくるわ」
「はい」
「秋川くん」
「はい」
「ここで待っててね」
それだけ言って、彼女は診察室へ入っていった。




