反証できない話 4
四限が終わるころには、空が少しだけ色を変えていた。
六月の夕方は明るい。時計を見なければ、まだ昼過ぎだと思うくらいだ。
僕は鞄にビニール袋を入れて、屋上へ上がった。
弁当箱を置いておけば、彼女はいつか取りに来るだろうと思った。置き手紙をするかどうかで少し迷って、結局やめた。何を書いても言い訳になる気がしたからだ。
鉄の扉を押すと、熱気が顔にぶつかってきた。コンクリートが昼のあいだに溜めこんだ熱を、まだ全部は吐き出していない。
給水塔の影に、彼女がいた。
昼と同じ場所に、昼と同じ座り方で座っていた。
僕は扉のところで立ち止まった。
「……来ると思ったわ」
彼女はこちらを見ずに言った。
「なんで」
「弁当箱を洗うって言った人は、弁当箱を返しに来るでしょう」
それはそうだった。
僕は近づいて、ビニール袋を差しだした。彼女は受け取って、中身を確認した。
「パッキン」
「戻せませんでした」
「これ、私も戻せないのよ」
彼女は少しだけ笑った。今日はじめて見る、ちゃんとした笑い方だった。
僕は昼と同じように、少し離れて座った。彼女がこっちへ寄れとは言わなかったので、そのままにした。
「お昼、食べたんですか」
「食べてない」
思わず彼女の顔を見た。弁当をひっくり返したからまともに食べてないはず。
「学食にも行かなかったし、購買にも行かなかった」
ますます分からなくなって、僕は眉を寄せた。
「食べ物が怖くなったのよ」
彼女は淡々と言った。
「あなたのせいで、変なことを考えるようになったの。喉に詰まらせたらどうしようとか、当たったらどうしようとか。あの唐揚げは何時間前に揚げたんだろうとか。そんなこと、昨日までは一度も考えたことがなかったのに」
「……すみません」
「謝られても困るわ。事実の報告をしてるだけだから」
彼女は膝を抱えた。
「他にもあるのよ。歩道を歩くとき、車道と反対側を歩いた。エレベーターに乗らずに階段を使った。階段を使うほうが転ぶ確率は高いんじゃないかと思って、途中から手すりを掴んで歩いた。四限の教室で、窓際の席を避けた。ガラスが割れたら嫌だなと思ったの。自分でおかしいと思いながらやってるのよ。全部」
「……はい」
「三限のあいだ、ずっと考えてたわ」
彼女は指を一本立てた。講義でノートを取るときのような、几帳面な動きだった。
「あなたの話には、致命的な欠陥があるの」
「欠陥」
「反証できない」
彼女がこちらを見た。
「もし私が明日生きていたら、あなたはこう言うでしょう。『対策をしたから助かった』って。もし私が死んだら、あなたの話は正しかったことになる。どっちに転んでも、あなたの言ってることは否定されないの。そういう仮説を、人は検証できないのよ」
「……そうですね」
「否定しないのね」
「否定できないので」
「困った人ね」
彼女は小さく息を吐いた。
「占い師と同じ構造よ、それ」
「はい」
「私、占いは嫌いなの」
「オカルトは好きなのに」
「別物よ。オカルトは、こういうものがあるかもしれない、という話でしょう。占いは、あなたはこうです、という話。前者は世界の話で、後者は人の話。人の話をされるのは嫌いなの」
そういうことを、この人はさらっと言う。
朝まで一度も話したことがなかった相手が、実はこういうことを考えながら毎週あの教室にいたのだと思うと、少し不思議な気分になった。
「じゃあ、僕の話も嫌いですか」
「嫌いよ」
即答だった。
「大嫌い」
国道を走る車の音が、風に乗って上がってきた。彼女の前髪が揺れる。さっきまで僕をまっすぐ見ていた視線が、ゆっくりと膝のあたりへ落ちた。
「でもね」
彼女は、抱えた膝に顎を乗せた。
「嫌いなことと、間違ってることは、別なのよ」
「私、統計の授業で習ったの。標本が三つしかない主張は、何の根拠にもならないって。それは正しいわ。いまでも正しいと思ってる」
彼女の指が、弁当箱の縁をなぞっていた。行ったり来たり、同じところを何度も。
「でもそれは、『間違っている』ということとも違うのよね。根拠がないことと、嘘であることは、別の話だから」
「……はい」
「つまり私は、あなたの話を信じる理由も、信じない理由も、どっちも持っていないの」
「それは、そうかもしれません」
「だから、考え方を変えたの」
彼女は顔を上げた。
「信じるかどうかで考えるのをやめたのよ。どっちに賭けたほうが損が少ないか、で考えることにしたの」
僕は黙って聞いていた。
「あなたの話が嘘で、私が対策をした場合。私は一日を無駄にして、変な男に振り回された馬鹿な女になる。損失は一日と、多少のプライド」
「……変な男」
「あなたの話が本当で、私が何もしなかった場合。私は死ぬ」
彼女はそこで言葉を切った。
「比べるまでもないでしょう」
言い方はまったく感情的ではなかった。数式を解いて答えを書いたときと同じ調子だった。
けれど、弁当箱の縁をなぞる指は、ずっと止まらなかった。
同じところを何度も行き来するその指を見ているうちに、口から言葉が出た。
「怖いですか」
訊いてから、馬鹿なことを訊いたと思った。
彼女は少しのあいだ黙っていた。
「怖いって、どういう感じなのかしらね」
予想していなかった返しに、僕は彼女の顔を見た。
「私、怖いと思ったことがあんまりないのよ。ホラー映画を観ても、たいてい途中で構造のほうが気になるし」
そこで彼女は、自分の左手を持ち上げた。
指先が、はっきりと震えていた。
「でも、これ。朝から止まらないの」
彼女はその手をしばらく見て、それからポケットに入れた。
「たぶん、これが怖いってことなんだと思うわ」
僕は何も言えなかった。
慰める言葉を探したが、どれも嘘になりそうだった。大丈夫ですよ、と言えるだけの根拠が、僕には一つもなかった。
「秋川くん」
呼ばれて、彼女に目を向けた。
「今日一日、私に付き合ってくれる?」
「……はい」
「即答ね」
「そのつもりで来たので」
「そう」
彼女は立ち上がった。埃を払って、弁当箱を鞄に入れて、こちらを見下ろした。
夕日が給水塔の裏から回りこんできていて、彼女の輪郭のあたりだけが白く光っていた。
「じゃあ、質問」
「はい」
「あなた、どうやって私を助けるつもりなの」
僕は口を開いた。
何か言おうとして、何も出てこなかった。
病院。事故。事件。食べ物。地震。火災。頭の中では、朝からずっといろんな単語が浮かんでは消えている。でもそのどれも、順番に潰していくことができない。潰す前に、時間が終わってしまう。
それに、たとえ全部を潰したとしても、原因が病気だったらどうする。心臓が止まるのを、どうやって防ぐ。
彼女は僕の顔を見ていた。急かしもせず、笑いもせず、ただ待っていた。
「……考えます」
「考えてなかったのね、いままで」
「……はい」
「そう」
彼女は少しだけ肩を落とした。呆れたのだと思う。
それから、フェンスのほうへ歩いていって、国道を見下ろした。
「急いで考えて」
僕は携帯を出して、時刻を見た。
十七時五十分。
彼女に残された時間は、あと十五時間と十七分だった。




