第2部:第14話:グレースタードの猛特訓と、白銀の凱旋
ファンナステッド王国の王宮では、ある一人の男が、期待と緊張のあまり昨日からそわそわとして一睡もできぬ夜を明かしていた。
第一王子、グレイスタード・ファンナステッド。
最愛の婚約者であるデールが、大親友シーリンの危機を救うために最強の近衛騎士団を引き連れて隣国へ爆走していってから、早1ヶ月の月日が流れていた。そして今日、ようやく、愛しい彼女がこの王宮へと帰ってくるのだ。
「……ふふ、デール。早く君に会いたいな……」
デールが旅立ってからの最初の1週間こそ、自分よりシーリンを優先されたショックで抜け殻のようになっていた私だったが、父から一喝されてからは完全に目の色を変えた。
デールが戻ってきたとき、「本当に良い男になった、大好きだ」と言ってもらえるような立派な男になるべく、この1ヶ月、私は持てるすべての時間を惜しんで死に物狂いで何もかもを頑張ったのだ。
他国の王を前にしても決して見劣りしないよう、難解な帝王学や経済の講義を家庭教師から寝る間も惜しんでみっちりと叩き込まれ、さらには剣術や魔術に関しても、自ら進んで近衛騎士団の過酷な訓練の中に飛び込み、騎士たちと一緒になって泥塗れになりながら身体を限界まで鍛え直した。
(……うん、デールが旅立つ前よりは、確実に身体も引き締まって筋肉がついたのではないかと思う)
鏡の前で自分の身体を確かめながら、私は密かな期待に胸を躍らせる。
今日、1ヶ月ぶりに彼女を自分の腕の中に迎える、その大切な時間。
「今晩は、彼女を寝かせられないな……。その時に、彼女が私のこの肉体の変化に気づいてくれたら……私はきっと、愛おしさのあまり理性を完全に抑えきれなくなってしまうだろうな」
そんなことばかりを頭の中で考えてしまい、執務の最中だというのに、つい口元がだらしなくニヤニヤと緩んでしまう。
するとその瞬間――私のすぐ横から、深く、深いため息と共に、氷のように冷ややかな声音が降ってきた。
「……殿下。さっきから一人でニヤニヤしていて、本気で気持ち悪いです」
グサッ!!!
「……ア、アズパープル、主君に向かってなんて心に刃を突き立てるような容赦のないセリフを……!」
私が胸を押さえて大ショックを受けていると、第一側近であるアズパープルはいつもの冷徹な紫の瞳を静かに細め、今度は真面目なトーンに切り替えて声を潜めた。
「……それで、隣国へ潜入していた黒魔女の件ですが、シーリン妃殿下はご無事だったのですよね? ですが、その黒魔女『レッド・ビアンカ』には、あと一歩のところで逃げられてしまったとか……」
アズパープルの紫の瞳の奥に、微かな焦燥と心配の光が過る。
……そうだ。目の前にいるこの側近も、かつてダクワールの陰謀から命がけで彼女を守り、その気高く美しい魂に心を奪われていた『お守り隊』の一人だったな、と私は思い出す。
「……ああ。影たちの手紙によれば、シーリン妃殿下は無事だ。だが、黒魔女は自らの魂を削る禁忌の魔術具を使って闇へと消えたらしい。だから……彼女には、まだ命の危険が伴うかもしれない。まだまだ、心配は尽きないな。……アズパープル。未来永劫の友好国として、我が国も持てるすべての隠密の力を使って、できる限り隣国にいる彼女を守れるよう尽力しよう」
「――はい。我が身を賭してでも」
主君である私と、側近であるアズパープル。二人は同じ栗色の令嬢の安全を願い、力強く互いに頷き合ったのだった。
◇
そして迎えた、運命の時刻。
王宮の巨大な城門の前、私はもう部屋でじっと待っていられなくなり、周囲の引き止めを無視して自ら彼女を出迎えに門前へと立っていた。
ガラガラと音を立てて、ファンナステッド王国の最強の馬車が滑り込んでくる。
馬車が完全に停止し、その重厚な扉が勢いよく開いた、まさにその瞬間だった。私は考えるよりも先に身体が動き出し、馬車のステップを降りようとした彼女の元へと全力で駆け寄っていた。
ガバッ!!!
「――デール!!! ああ、おかえり、デール! 会いたかった……! 無事で何よりだ!」
「きゃっ!? ……で、殿下……っ!?」
私は愛おしさが限界突破して爆発したまま、デールの細い腰を力強く両腕で抱きすくめると、この1ヶ月の猛特訓で鍛え上げた肉体の力で、以前よりも遥かに軽々とデールの身体を宙へと抱き抱えてお姫様抱っこをしたのだ。
不意打ちの情熱的なお姫様抱っこに、デールは白銀の瞳を丸くして驚いていたが――すぐに、私の腕から伝わる、今までとは明らかに違う逞しい肉体の厚みと筋力に気づいたらしい。
「えっ……? ……殿下……? 前よりも、ずいぶんと逞しくなって……」
デールは白銀の髪を揺らしながら、その白い頬を一瞬にして真っ赤に染め上げて私を見上げてきた。その可愛いリアクションに、私の胸の奥から甘い愛おしさがドクドクと溢れ出す。
「ああ。君に生涯、ずっとずっと愛してもらえるように。君に何かあった時、この手で完璧に君を守り抜けるように……君が隣国へ旅立ってから、私は毎日、死に物狂いで特訓をしていたんだよ、デール」
私は腕の中の愛しい彼女を真っ直ぐに見つめ、そのまま吸い寄せられるように、その美しい唇へと深く、熱い口づけを落とした。
「ん……っ!? ……ん、ぅ……っ」
大勢の近衛騎士や侍女たちが見守る城門の前での、あまりにも情熱的な大人のキス。
ようやく唇が離れると、デールは顔をこれ以上ないほど真っ赤にリンゴのように染め上げ、「み、皆様に見られてますからっ……!」と、私の胸元に顔を埋めて恥ずかしそうに俯いてしまった。
(ああ……もう、可愛くて、愛おしくて、本当に仕方がない……っ!)
こんなにも愛しい彼女を、かつてダクワールの洗脳にかかっていたとはいえ、自らの手で手放そうとし、傷つけてしまった過去の自分自身が、私は今でも激しく許せなかった。彼女の誇りを汚そうとしたダクワールも、共謀していた黒魔女レッド・ビアンカも、私は一生、断じて許すことなどできはしないだろう。
それでも――いま、私の腕の中には、世界で一番大好きな私の婚約者が戻ってきてくれたのだ。
今はただ、これまでの寂しさを埋めるように、彼女を心から、全身で堪能したかった。
私は俯くデールの耳元に顔を近づけると、低く掠れた声で囁いた。
「デール……旅路で疲れているとは思うのだが……私も、この1ヶ月間、君に触れたくて触れたくてずっと我慢をしていたんだ。……今日は、君のすべてを、私に堪能させておくれ」
「……っ、殿下……」
デールはさらに顔を赤くして、私の首にその白い腕をそっと絡めて身を委ねてくれた。
その日の夜。グレーの髪の王子グレイスタードは、1ヶ月鍛え上げたその逞しい腕の中に白銀の花嫁をすっぽりと抱きすくめ、朝まで一秒だって彼女を離さないほど、それはそれは深く、情熱的で甘い甘い夜を過ごしたのだった。




